創発企業経営

起業13年目の会社の経営、事業報告

韓国 (3) 三星電子を訪ねたこと

2013年07月21日 | 経営
三星電子訪問したといっても、すでに20年も前、90年代初めの話です。
当時、わたしは日本の企業に勤めていて、自社の電子部品の紹介のために韓国水原の三星電子を初めて訪問しました。

当時海外営業部に所属し、開発部門の技術者と2名でPC関連の電子部品の開発マネージャを訪ねました。 2人とも若く、同行した技術者は韓国は初めてでした。 私も三星電子に行くのは初めてでした。

ソウル駅から水原まで電車に乗ると車中から、のどかな田園風景が広がる中に家から夕方になると白い煙が上っていました。 かまどでご飯を炊いていたようです。

水原駅からタクシーで三星電子まで行きました。 タクシーを降り、敷地に入りましたが、何しろ初めてなうえに、広大な敷地です。 何とか、目的の建屋までたどり着くことができました。

途中、敷地を歩いていると、トラックがゆっくり走ってきました。 よく見ると荷台に乗った社員が、荷台の後ろに座ったまま台車をつかんで、その台車に機器を載せたまま引っ張って運んでいました。 冬の朝だったので、片手はポケットに手を突っ込んだまま、片手で台車をつかんでいました。

これを見た日本から来た技術者は 「これをうちの工場でやったら始末書ものだ」と驚いていました。
確かにトラックの荷台の後ろにしゃがんで台車を引っ張って運ぶというのは、かなり危険です。

三星電子の敷地ではたくさんの人が往来していましたし、別に気の留める人もいませんでしたから特別なことではなかったのでしょう。

それから10年程経った、2004年に釜山で公共のバスに乗った時には、バスの運転手が携帯メールを打ちながら運転している姿を見ました。 乗客も何も言いませんでしたから、やはり特別なことではなかったようです。

ここで見たものは、韓国企業との日本企業の競争力に関係するように思いました。

韓国ではここに書いたようなことが一般に許されている(或は許されていた)。 一方、こういうことを日本でやったら大問題になりかねません。 ここまで行動の自由があるということは、韓国では社会的に形にはまらない考え方や行動が出てきてもおかしくないと思いました。

日本では、あまりに規範が強固で、ルールから外れることを許しません。 学校では従順な「よい子」ばかりが目立つように思います。 電車に乗れば10秒の誤差もない正確な運行システムには全く驚かされます。 この精緻さこそ日本にとっての最大の強みであり、最大の弱点ではないでしょうか。

そうそう。 三星電子の出張ですが、開発のマネージャを訪ねると 「おお来たのか?」と待っていた風もなく、迎えてくれました。 技術紹介を終えると「ああ承認しておくよ」と云ってくれました。 それからしばらくして、実際三星電子からオーダが来ましたし、その後も継続して取引がありました。

今から考えると、世界的企業、三星電子と取引を決めてきたのですから大したものだと思います。 しかし、当時は社内では全く評価されることはありませんでした。

韓国 (2)

2013年07月10日 | 経営
もうかなり昔のことですが、釜山滞在時に訪ねた釜山近代歴史館の展示の続きです。

東莱地区
最近は韓国でも、日本にあるような大型の温泉レジャー施設が目に付きますが、歴史館には、釜山近郊の東莱温泉の当時の姿、観光地図などが展示されています。 東莱が日本人により、温泉街としての整備された様子が展示されています。

東洋拓殖会社
釜山近代歴史館の建物は、日本が朝鮮の経済を支配する目的で1908年に設立した国策会社「東洋拓殖会社」釜山支店でした。 ここでも、国策会社による農民からの収奪と農民の苦労の様子が展示されています。

韓米の関係
展示の最後は、第2次世界大戦の終結後、日本の植民地支配からの解放が米国により遂げられ、その後、朝鮮戦争に於ける同盟について、これまでの展示内容と打って変わって、明るい様相で展示されています。 また、対米関係見直しを含めた民主化要求の市民運動の様子も紹介されています。

展示を見て感じたのは、日本の朝鮮半島に対する功罪の大きさです。 功についてはあまり語られませんが、当時の日本からの投資が韓国の経済基盤になったことは間違いありません。

鉄道路線などはわたしの知る限り、少なくとも80年代後半までは、戦前の日本の影響により敷設された路線が、韓国の基幹鉄道となり、鉄道のシステム自体(駅やホームのつくり、駅員の服装、安全確認の所作等)も、日本の国鉄のシステムをそのまま移管したように見えました。 その他港湾、銀行、農業を含め、日本から移住した人は数知れません。

企業が海外に自国の優秀な社員を派遣し、指導できる企業は真の現地化が図れる一流の企業の資格があります。 わたしの知る欧米の企業の中には、アジアには二流の人材を送り、派遣者は、現地の人と交流を避けているケースがありました。 いつでも撤退可能な腰が引けた投資が行われ、日本で成功する外資は限られていました。

これも私見ですが、日本の当時の朝鮮への投資は目的はともかく、投資の規模から判断して真の現地化を行おうとしたことを展示を見て感じました。

一方、罪においては、旧日本軍に関連してなされた行為は、非人間的なものでした。 釜山ではありませんが、ソウル景福宮での閔妃として知られる李朝最後の王妃明成皇后の殺害 (ガイド付でなくここを一緒に訪ねた日本人はしばしその行為、- 一国の王妃を殺害後、庭で遺体を焼いたという - に言葉がありませんでした)、同じ景福宮にあった光化門と王宮の間に建てられた朝鮮総督府(取り壊されましたが) - その場所など、当時の日本人の朝鮮の人たちに対する傲慢な態度を示しています。

朝鮮総督府の場所は日本でいえば、東京駅から向かって皇居の正門と宮殿の間に、占領国の威風漂う異質の建築物が建てられるようなものでした。

わたしの韓国滞在は合計で7ヶ月ほどで、日韓の歴史について語るにはふさわしいとは思いません。 生半可な知識ですが、見たまま、感じたままをそのまま記した私見であることを注記しておきます。

韓国(1)

2013年07月07日 | 旅行
釜山はわたしの好きな都市のひとつです。 1987年以来、何度も訪ねています。 いままで、海のきれいな港町で韓国のなかでは気候風土が穏やかな街とだけ思っていました。

2003年の冬には、その年の夏に開館したばかりの釜山近代歴史館を訪ね、日本のかかわりから少し違った側面を見ました。 (開館から日が浅いこともあり、当時わたしの持っていた韓国ガイドブックには、まだ歴史館は載っていませんでした)

以下、展示されていた釜山の近代史を展示の内容とともに振り返りたいと思います。

開港:
当時の韓国は日本と同様鎖国政策をとっていました。 日本は米国のペリーにより開国を迫られた強圧外交そのままに、韓国に軍艦を送り、開国を迫りました。 この結果、1876年に締結されたのが江華島条約です。 このとき、開港した都市に釜山が含まれ、そこには日本領事館が置かれました。

開港後:
釜山には日本商人が貿易のために渡来、日本人居留地域 - 租界を設置しました。 租界は、軍事利用の側面が強く、日本の軍事進出の拠点となりました。

近代歴史館における展示は, その後は、大日本帝国(日帝)の収奪と支配の歴史です。 日本は、鉄道の敷設をはじめ、農業、工業、水産業、金融などの経済基盤を建設しましたが、歴史館における説明では、その理由はすべて人員と物資の収奪が目的であったとされています。

釜山近代歴史館は、大庁路沿いにあります。 道沿いに海に向かうと、日本から到着する国際フェリーターミナルのほぼ正面にあります。 港の中心からまっすぐに延びた大庁路はまるで、日本からやってくる人たちを正面から迎えるようです。