創発企業経営

起業13年目の会社の経営、事業報告

苦の原因(2)

2014年11月11日 | 経営

2014年のノーベル生理学・医学賞の受賞テーマは「位置情報を司る脳の神経細胞の発見」でした。これは、GPSのように「自分がどこにいるかが分かるのは、脳に場所細胞とグリッド細胞があるからだ」ということを発見したというものです。

頭頂葉中心溝のすぐ後ろには方向定位連合野と呼ばれる領域があり、ここでは空間の中での自分自身の身体の境界把握をしています。 つまり、空間の中で自分はどの範囲かということを決めているそうです。 自分の範囲を決めるということは、自分と自分以外のものとの間に境界線を引く必要があります。これが方向定位連合野の大切な仕事で、自分と自分以外の全宇宙とを区別することになります。

医学的にも、頭頂連合野が破壊されると物体間の距離、遠近、左右、上下の判断が困難となる空間定位の障害や、歩きなれた街の道順が判らなくなる地誌的障害を起こすことが確かめられています。

脳神経科学者ジル・ボルト テイラー博士は脳卒中により脳の空間把握領域が壊れてしまう体験を「奇跡の脳」 (新潮文庫) に著しました。 不思議なことにテイラー博士は、脳卒中で脳の機能が壊れていくさなかに、かつてないほどの幸福感 - 完全なる平和、自分の身体と世界との境界が消え、宇宙との一体感 -  を体験したと云います。


テイラー博士はNHKでも放送されたTEDスピーチで次のように語っています。

「私はバランスを崩し壁にもたれました。 そして腕を見ると もはや自分の体の境界が分からなくなっていることに気付きました。 自分がどこから始まりどこで終わるのかその境界が分かりませんでした。 腕の原子分子が壁の原子分子と混じり合って一緒になっているのです。 唯一感じ取れるのは エネルギーだけでした。」

「自己と外界の区別」が壊れるということは、自分の範囲がなくなるということですから、自分がどこまでも広がって終いには世界と一致することになります。 誰もが自分の周りは異物であり、自分を特別な存在と認識していますが、自我と外界の境界がなくなれば、世界すべてが自分同様に大切な存在と感じ、それが宇宙との一体感という至福を生むと考えられます。

脳卒中から回復するまでの8年間、博士は「私の意識は、自分自身を個体として感じることをやめ、流体として認知するようになった」といいます。 8年に及ぶリハビリを経て自分を個体として認識するまで回復します。 しかし、回復することによって「自分自身が周囲のすべてから切り離された一つの個体」には戻りたくなかったといいます。博士には何度も繰り返し頭をよぎった疑問がありました。

「好き嫌いや感情や人格の傾向を、すべてそのまま取り戻す必要があるの? 」

「例えば自己中心的な性格、度を過ぎた理屈っぽさ、なんでも正しくないと我慢できない性格、別れや死に対する恐れなど.. 」  

「欠乏感、貪欲さ、身勝手さなどの神経回路につなぐことなしに、お金が大切だと思うことができるでしょうか?」

「地位をめぐる競争に参加し、それでも全人類への同情や平等な思いやりを失わずにいられる?」

これらはすべて人の心の中で起こっている「苦しみ」に他なりません。苦を生じさせているのは自分ということになります。

生物としてこの世界はで生きていくには、身体の各感覚器官から送られてくる信号を脳で処理して物理的空間を把握する必要がありました。 しかし、空間認知は自己を世界から切り離す脳機能の働きでもあります。

脳の認知による自我境界は生命が勝手に作っているものです。 認知によっては、この世界が変化しないはずです。 ではこの世界とはどんな世界でしょうか?


苦しみの原因 (1)

2014年11月08日 | 経営

わたしたちは、日常、五感から入る情報、見るもの、聴くもの、香りなどに対して、ああいいな、嫌だなという判断をしています。 たとえば、混んだ電車で、整髪料の匂いが強烈な中年男性が近くに来たら、たいていの人は嫌だなと思うでしょう。   逃げられない混んだ電車でそういう人のアタマが自分の頬にでもべたっとついたら「うわーひどい」とその日は終日気分が悪いかもしれません。

でも、自分のアタマがそんなに気持ち悪いとは、当の本人は全く思っていないでしょう。 かえって「この整髪料をつけないとすっきりしない」と思っているかもしれません。

私たちは、ああいいなと思うものがあるとそれが欲しくなるものです。街で感じのいい人を見かけたりすると、その人と知り合いになりたいと思ったりします。   「ああいいな」で済めばいいのですが、モノでも人でも、時には心の底からほしくなる時があります。 それが得られればいいのですが、得られなければ苦しみが生じます。

「ああいいな」と思う存在も「嫌だな」と思う存在も自分の外にあります。  それ自体は苦しみの原因ではなく、条件に過ぎません。 それが苦しみの種になるのは、自分というもの(自我)と結びつくときです。   いいも悪いも自分が判断しているからです。 人によってその判断は異なりますからある人にとっては良いものが、別の人には嫌悪の対象になることもあります。

 心の反応は「いいと思うものは近くに引き寄せたい」「嫌だと思うものは遠ざけたい」の2つです。   この2つはコインの裏表のように好きから嫌いに反転することもあります。  

心の底から好きな人が、あなたを裏切って誰かほかの人を好きになってしまったらどうでしょうか? 最初は、何とか取り戻せないかとなんとか努力をすることでしょう。 それでもダメだとわかって、もうどうにも自分のもとには戻らないと分かると憎さが募って、相手の人を傷つけてやりたいと思うことだってあります。 そういうことが事件に発展することだってあります。 

 好きなものがあれば、嫌いなものがあるものです。 好きなものがどうしても得られなければ、その同じ対象をもっとも嫌うことがあり得ます。 対象自体はなにも変わっていないのに、いったい何が変わったのでしょう?  自分の心が変化したのです。

 嫌いなものから逃げられないとき、あるいは好きなものを自分のものにしたいと思っても、それが得られないとき、それが失われてしまったとき、それは苦しみの原因となります。 その判断しているのは自分=自我です。 

苦の原因を生じさせる自我とは何でしょうか?