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創発企業経営

15年目の会社の経営、事業報告

精神的な苦しみ - 鬱について

2014年09月29日 | 経営

苦しみは一種のエネルギーです。苦しみのエネルギーは否定的なものであり、時には私たちの身体や心を破壊します。 私たちの一般的な、苦しみに対する反応は、それを避け、そこから逃れようとするというものです。誰もが、痛みや不快感を避けたがるのは、生命としてごく自然なことです。

漫画家で吾妻ひでおという人がいます。 鬱または躁鬱の傾向があり、二度失踪、アルコール依存症となり入院した経緯を作品にしています。 「失踪日記(イーストプレス)」の冒頭、「89年11月 わたしは某社の原稿をほっぽって逃げた」とあります。



「うつうつひでお日記 (角川文庫)」の中には、「歩いている途中不安の渦がやってきて巻き込まれる」という描写があります。

苦しみを感じるとき、そこから逃げたり、闘ったりするのではなく、苦しみを見つめられれば良いのですが、もともとあった鬱の傾向が、亢進してしまったのでしょう。 吾妻氏の場合、苦しみのエネルギーは自分を飲み込んでしまうほどに大きかったのだと思います。

私の経験で、今年、事故に遭って緊急手術を受けたときのことです。 最初に搬送された病院でのCTスキャンの結果、「消化管穿孔、大動脈損傷が疑われた」そうです。 大病院でしたが、「ここでは手術はできない」と言われ、さらに大きな病院に搬送されました。 実際には、大動脈に損傷はなかったのですが腹腔内に血液の1/10程の出血があり、危険な状態でした。

手術前、大動脈が破れて出血していると想像したら、死の恐怖感が出たことでしょう。 麻酔が効いて、もうそれっきり覚めないとしたら..  身近な人や、自分が大切にしてきたものごとに思いが連鎖したら、興奮して、精神的におかしくなったかもしれません。

不安の渦や、落ち込み、暗くなったときは、何としても、暗い思考を早く断ち切らねばなりません。 その思考は危険なだけです。 「衝動」という言葉がありますが、大抵の日常の事件や犯罪は衝動で起こります。 突き上げてくる怒りや、黒雲のような不安がくると、人は我を忘れて相手を傷つけたりおかしな行動に走ってしまうものです。

心が暗いと気づいたら、これはもう緊急事態と、すぐにその暗さを変えることです。 とりあえず外を走ってもいいし、面白い番組を見たり、集中できる本を読んだり、ともかく気分転換して、暗い思考を破ることです。 日常で暗さや怒りが続く事態は絶対にあってはならないことです。

病院で緊急手術するとしても、手術室に運ばれる途中に怖くなってもその感情は持ち続けないことです。 誰か周りの人に話しかけてもいい、とにかく止めることです。

わたしが手術するときは、意識ははっきりしていましたが、(早く手術する必要があったのでしょう)流れ作業のコンベヤーに乗って流れていくようで余計なことを考える余裕がないのが幸いしました。

日常、私たちの周りに苦しいことはたくさんあります。この先ここで述べる方法は苦しみをありのままに観察する方法ですが、ネガティブな悪感情や暗い思考は、即座に潰してしまうことです。 そのためには日常、自分の状態に気付いている必要があります。

吾妻氏の「失踪日記」は各メディアで話題となり、多くの賞を受賞しました。飲酒についても、治療プログラムを受け退院。以後、断酒を続けているそうです。  吾妻氏は失踪日記を「全部実話です(笑)」と言いつつ、「自分を第三者の視点で見るのは、お笑いの基本ですからね」と失踪や自殺未遂をあっけらかんと描いています。

心理学では自分の中の苦しみの起因となる衝動的な心のエネルギーから距離を置くことを脱中心化と呼ぶそうです。   ネガティブな心のエネルギーの中では読者が共感するような作品は描けないでしょうから、吾妻氏にとっては、作品を描く仕事が鬱からの解放の助けになったのでしょう。


The art of suffering (苦しむ方法)

2014年09月19日 | 経営

The art of happiness (幸福になる方法)については耳にしたことがあっても、The art of suffering (苦しむ方法)について聞いたことがある人は少ないと思います。 誰もが幸福や成功するための方法は知りたいでしょうが、苦しむ方法など知りたいとは思わないでしょう。

今年になって、著名な科学研究センターの責任者が自殺するという事件がありました。普通の人からみたら想像できないほどの能力のある成功者なのに、遺書には「疲れ切ってしまった」と書かれていたそうです。死んだ方が楽だと思うほどの苦しみだったのでしょうが、もしも、この方が「苦しむ方法」について知っていたなら、もしかすると、自殺を思いとどまれたのではないかと思わずにいられませn。 いくら能力のある人でも、社会的な成功者でも生きることは大変なのでしょう。

毎日のようにめぐり合う苦しみに対して、わたしたちは、どう対処すべきでしょう。  大抵は周りの人に愚痴を言ったり、お酒を飲んだり、気分転換のために体を動かしたりしてストレス解消を計っているのではないでしょうか。

しかし、それでは解消できない苦しみにはどう向き合えばよいでしょう?  そして、私たちが毎日、出会う絶対的に多数の機会は、幸福ではなく、苦しみであるならば、身に着けておくべき技術は、苦しむ方法ではないかと思います。

今年、事故に遭い約1か月入院しました。緊急手術で小腸を数か所修復し、術後の経過は順調でした。問題は、術後10日ほどして起こった小腸の狭窄でした。 食べ物や飲み物が通らないのはもちろん、毎日1リットル以上分泌される胆汁を2日にわたって吐き続けました。検査の結果、十二指腸の狭窄と分かり、鼻からチューブを入れられて、十二指腸に流入する分泌物はすべて鼻管を通じて体外に排出することとなりました。 それから3週間は食事なしで過ごしました。

鼻から喉を通じて鼻管が入っていると痛みもあるし、のどが渇いて2時間以上続けて眠ることができませんでした。その3週間は主治医からは(入院は)「長引きます」とだけ言われて、いつ退院できるか全く分からない状況でした。  退院できなければ職がなくなる不安も感じたものでした。

こうした経験は、逃れようのない、置き換え不能の苦しみでした。ここでは特にこの時の経験について記してみたいと思います。

苦しむ方法というからには、実用的で効果があるものでなければ意味がありません。  「Art (=)イコール 技術」でなければなりません。 苦しみや苦痛に対する直接的な対処にも、漠然とした不安や苦しみに対する対処にも効果はあると自身の経験を通じて確かめられたと思います。

The art of suffering (苦しむ方法)が、さまざまな身体的、精神的苦痛を感じている人のお役に立つこともあるかと思い、私の経験や考えたことを記してみることにしました。

幸福は自分の外にあるものではなく、自分の中、「心」にあるものです。  苦しみも同じく自分の外側にあるものではなく、自分の内側の「心」にあるものです。 のどが渇いて水を飲みたいと思ったなら、わたしたちはコップに水を汲んで、水を飲むことができます。 それができれば、のどの渇きは解消できます。

自らのなすべきことを自分で決められるなら、自分の内にあるこころの扱いも自分で決められることでしょう。それが確かであるなら、苦しみに対処する方法は確かに存在します。


稲盛和夫著書中国語版

2014年04月03日 | 経営
 
中国の知人から、稲盛和夫氏の著書から3冊を選んでほしいと言われたので、次の3冊を薦めました。
 
1) 創造高收益 (高収益企業のつくり方)
2) 阿米巴経営 (アメーバ経営)
3) 活法 (生き方)
 
選択は著作から個人的に感銘を受けたものを選びました。「活法」の帯に230万部突破とあるのでほんとによく売れているのでしょうね。
 
数年前に中国の空港で稲盛氏の本が横積みになっているのを見かけて、中国人は良いものを取り入れるのに貪欲だと驚いたものです。
 
もう15年も前になりますが、勤めていた会社の上司が「組織には自燃性、他燃性、不燃性の人がいて、自燃性の人は勝手に頑張るから放っておけばいい。 最も比率の多い他燃性の人たちをどうするか」と言っていたのを聞いて「この人すごく良いこと言うな」と思っていたら、以前、京セラアメリカで仕事とをしていて、稲盛氏に同行して米国企業に営業していたとのことでした。

コトラーの戦略的マーケティング

2013年12月24日 | 経営




今月、2013年12月、日経朝刊「私の履歴書」にフィリップ・コトラーの連載記事が掲載されています。

ビジネスやマーケティングを学ぶ人にとっては、コトラーは忘れられない存在です。 今回の日経の連載も興味深い内容でしたが、これまでに出版された著書からいくつか引用してみたいと思います。

コトラーは自著 「コトラーの戦略的マーケティング」で「成功するためのマーケティングに唯一の正解はない」 と述べています。 わたしは英国の大学院のマーケティングコースの試験準備をしているとき、試験の準備について、次のように教えられました。

「どんな質問にも、どんな試験問題にも、唯一の正解はない。 もしそれがあれば、マーケティングの教育は不要になる。 誰もが全く同じことをやって、儲けることができるはず。 でもそんなことは起こりっこない。」

逆の言い方をすれば、唯一の正解がないのなら、どんな解答も完全な間違いはないということです。 では試験は何で評価されるかというと、まずは解答形式。 次に、内容です。 形と中身。 モデルに基づき、正しく問題に答えていれば、及第点には届くということ。

これは、社会科学のアカデミック教育の限界と、同時にその利点を示しています。 マーケティング科目は、モデル、ツール、事例を教えることはできますが、実社会でのマーケティング活動に企業が提供するビジョンやアイディア、創意は教えることはできません。 ちょうど、音楽学校で作曲の技法は教えられても、何をどう表現するかは教えられないように。

占いやお告げのように、唯一の道を教えてくれたら楽だと思います。 解答が告げられるのを待っていて、右なら右、左なら左と誰かが教えてくれたなら..

自分で考え、自分で指し示した道を行くということは、真に開放された自由人であるという証明であり、時に厳しい道でもあります。

「マーケティングに唯一の正解はない」 ように生き方にも唯一の正解はありません。 人生も人と同じことをするか、そうでないかを選択する戦略的マーケティングでもあります。


韓国 (3) 三星電子を訪ねたこと

2013年07月21日 | 経営
三星電子訪問したといっても、すでに20年も前、90年代初めの話です。
当時、わたしは日本の企業に勤めていて、自社の電子部品の紹介のために韓国水原の三星電子を初めて訪問しました。

当時海外営業部に所属し、開発部門の技術者と2名でPC関連の電子部品の開発マネージャを訪ねました。 2人とも若く、同行した技術者は韓国は初めてでした。 私も三星電子に行くのは初めてでした。

ソウル駅から水原まで電車に乗ると車中から、のどかな田園風景が広がる中に家から夕方になると白い煙が上っていました。 かまどでご飯を炊いていたようです。

水原駅からタクシーで三星電子まで行きました。 タクシーを降り、敷地に入りましたが、何しろ初めてなうえに、広大な敷地です。 何とか、目的の建屋までたどり着くことができました。

途中、敷地を歩いていると、トラックがゆっくり走ってきました。 よく見ると荷台に乗った社員が、荷台の後ろに座ったまま台車をつかんで、その台車に機器を載せたまま引っ張って運んでいました。 冬の朝だったので、片手はポケットに手を突っ込んだまま、片手で台車をつかんでいました。

これを見た日本から来た技術者は 「これをうちの工場でやったら始末書ものだ」と驚いていました。
確かにトラックの荷台の後ろにしゃがんで台車を引っ張って運ぶというのは、かなり危険です。

三星電子の敷地ではたくさんの人が往来していましたし、別に気の留める人もいませんでしたから特別なことではなかったのでしょう。

それから10年程経った、2004年に釜山で公共のバスに乗った時には、バスの運転手が携帯メールを打ちながら運転している姿を見ました。 乗客も何も言いませんでしたから、やはり特別なことではなかったようです。

ここで見たものは、韓国企業との日本企業の競争力に関係するように思いました。

韓国ではここに書いたようなことが一般に許されている(或は許されていた)。 一方、こういうことを日本でやったら大問題になりかねません。 ここまで行動の自由があるということは、韓国では社会的に形にはまらない考え方や行動が出てきてもおかしくないと思いました。

日本では、あまりに規範が強固で、ルールから外れることを許しません。 学校では従順な「よい子」ばかりが目立つように思います。 電車に乗れば10秒の誤差もない正確な運行システムには全く驚かされます。 この精緻さこそ日本にとっての最大の強みであり、最大の弱点ではないでしょうか。

そうそう。 三星電子の出張ですが、開発のマネージャを訪ねると 「おお来たのか?」と待っていた風もなく、迎えてくれました。 技術紹介を終えると「ああ承認しておくよ」と云ってくれました。 それからしばらくして、実際三星電子からオーダが来ましたし、その後も継続して取引がありました。

今から考えると、世界的企業、三星電子と取引を決めてきたのですから大したものだと思います。 しかし、当時は社内では全く評価されることはありませんでした。

韓国 (2)

2013年07月10日 | 経営
もうかなり昔のことですが、釜山滞在時に訪ねた釜山近代歴史館の展示の続きです。

東莱地区
最近は韓国でも、日本にあるような大型の温泉レジャー施設が目に付きますが、歴史館には、釜山近郊の東莱温泉の当時の姿、観光地図などが展示されています。 東莱が日本人により、温泉街としての整備された様子が展示されています。

東洋拓殖会社
釜山近代歴史館の建物は、日本が朝鮮の経済を支配する目的で1908年に設立した国策会社「東洋拓殖会社」釜山支店でした。 ここでも、国策会社による農民からの収奪と農民の苦労の様子が展示されています。

韓米の関係
展示の最後は、第2次世界大戦の終結後、日本の植民地支配からの解放が米国により遂げられ、その後、朝鮮戦争に於ける同盟について、これまでの展示内容と打って変わって、明るい様相で展示されています。 また、対米関係見直しを含めた民主化要求の市民運動の様子も紹介されています。

展示を見て感じたのは、日本の朝鮮半島に対する功罪の大きさです。 功についてはあまり語られませんが、当時の日本からの投資が韓国の経済基盤になったことは間違いありません。

鉄道路線などはわたしの知る限り、少なくとも80年代後半までは、戦前の日本の影響により敷設された路線が、韓国の基幹鉄道となり、鉄道のシステム自体(駅やホームのつくり、駅員の服装、安全確認の所作等)も、日本の国鉄のシステムをそのまま移管したように見えました。 その他港湾、銀行、農業を含め、日本から移住した人は数知れません。

企業が海外に自国の優秀な社員を派遣し、指導できる企業は真の現地化が図れる一流の企業の資格があります。 わたしの知る欧米の企業の中には、アジアには二流の人材を送り、派遣者は、現地の人と交流を避けているケースがありました。 いつでも撤退可能な腰が引けた投資が行われ、日本で成功する外資は限られていました。

これも私見ですが、日本の当時の朝鮮への投資は目的はともかく、投資の規模から判断して真の現地化を行おうとしたことを展示を見て感じました。

一方、罪においては、旧日本軍に関連してなされた行為は、非人間的なものでした。 釜山ではありませんが、ソウル景福宮での閔妃として知られる李朝最後の王妃明成皇后の殺害 (ガイド付でなくここを一緒に訪ねた日本人はしばしその行為、- 一国の王妃を殺害後、庭で遺体を焼いたという - に言葉がありませんでした)、同じ景福宮にあった光化門と王宮の間に建てられた朝鮮総督府(取り壊されましたが) - その場所など、当時の日本人の朝鮮の人たちに対する傲慢な態度を示しています。

朝鮮総督府の場所は日本でいえば、東京駅から向かって皇居の正門と宮殿の間に、占領国の威風漂う異質の建築物が建てられるようなものでした。

わたしの韓国滞在は合計で7ヶ月ほどで、日韓の歴史について語るにはふさわしいとは思いません。 生半可な知識ですが、見たまま、感じたままをそのまま記した私見であることを注記しておきます。

こころを制御する (2)

2013年06月25日 | 経営
苦しみの原因とは何でしょうか?
そのポイントは私たちの感覚にあります。 わたしたちは五感を通じて外界を認識しています。 そして外界からの刺激の入り口が感覚です。 外界を認識するプロセスには、私たちが制御できることとできないことがあります。

外界の刺激自体は制御できません。 感覚を通じて受けとめた刺激をどうとるかは制御することが可能です。

地震は苦しみでしょうか? 例え、苦しみであったとしても地震を止めることはできません。 夏の暑さは苦しみでしょうか? いくら暑くても猛暑はどうすることもできません。 外界の刺激、音、光、におい、暑さ、寒さ... それらはそこにあるものでそれらは放っておくべきものです。

同様に、自分以外の人の行動や言葉を変えることができるでしょうか? ほとんどの場合、できないと言ってよいと思います。

人は、思うに任せぬ状況にどう反応するかといえば.. 普通は怒りで反応します。 怒りは自分の望まない環境に対する、こころの反応です。

そして外界の刺激に対するこころの反応は3つ 快、不快、快でも不快でもない中立の感覚の3つです。

人間の行動はすべてこの3つの感覚に対する反応として説明できます。 好きな人、好きな食べ物は「快」です。 嫌いな人、汚いものに対する反応は「不快」です。 好きなものには執
着しそばに置いておきたいと望み、嫌いなものはなるべく遠ざけたいと思う。 これはコインの裏表で好きなものがある人には、必然的に嫌いなものがあります。 好きだった人に裏切られたら憎さ百倍。 こ
うした経緯でよく犯罪が起こります。

日々のニュースで、コンビニ強盗やストーカーや痴漢が報じられますが、立派な大人が、お金や欲に快を求めて馬鹿なことをするのも感覚的な快を求めてのことです。

そして3つめのの反応が「無関心」- 興味がないことです。 この3つはいずれも知性に欠けた反応ですが、中には感性といって尊ぶ人もいます。

わたしたちは感覚を通じて外界を認識しています。 それならば幸福とは快を感じることでしょうか? 快なる刺激ばかりが起こり続けるなどということがあるでしょうか?

智慧とはこういうこです。

変えることのできるものを変える勇気と
変えることのできないものを受けいれ冷静さと
変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別する知恵を持つこと

外界の刺激は制御できません。 刺激にどう反応するかは私たちの中で起こることです。

変えられるもの。 それは訓練により制御することができます。

こころを制御する (1)

2013年06月22日 | 経営
こころの制御(コントロール)は、経営のみならずあらゆることに大切なことです。

私は独立前、英国企業の日本支社の代表をしていました。 大きな組織ではありませんですたが人とのかかわりはすべてのことに影響する非常に大きな要因でした。 2004年からコーチングについて学びコーチの資格も取得しました。

コーチも人の心に働きかける仕事なので、こころについて常々思うことを記してみます。

いまの社会には様々な問題があり、誰でも漠然とした不安を感じています。 それは当然のことですが、中には不安が嵩じて自殺する人さえいます。

私たちは今という瞬間にしか生きられないのですから、将来の不安は今は存在しません。

しかし、不安をずっと抱え込んで生きていると、思った通りの不安が現実になることがあります。

将来のことは今の思いと行動で変わっていきます。 こころの奥で望んでいれば、人はそうなるように行動するものです。 特に人間関係においては関係がうまくいかないように行動すれば、自然とそうなるでしょう。 逆にお互いに良く理解をしていこうと努力しながらやっていこうと思えば必ずうまくいくでしょう。

本来、全てのひとは良好な関係の中で仲よくしていくべきものです。 人生は短いし、病気や災害、紛争がある世界では、平和に暮らそうとしてもそうできないことさえあるのですから。 問題はあるとはいえ、人を愛したり思いやったりできる環境に感謝するべきだと思います。

もしそうすることができたら世の中の半分の問題はなくなるでしょう。 人為的に作り出された敵や人間関係の苦しみがなくなるでしょうから。

それでもいのちの終着が100%確実に死であるということに加え、災害、人災、病気、怪我など、わたしたちは日々不安や怖れに囲まれています。

「幸福についての方法論」について書かれた本をよく見かけますが、 そもそも幸福とは何でしょう?

幸福の定義がないまま幸福という概念が語られ、漠然とした幸福を達成するために、そうした本には 身体を動かすとか、友人を作るとか... あまり助けにならないノウハウが載っています。 言葉の概念を使った思考から得られる結論はそんなところですが、苦しみとはそんなに簡単に解決できる問題ではないと思います。

幸福は、わたしたちの外の世界にはありません。 それは心の状態、その在り方 - それをどう制御するかに依ります。

わたしたちのこころの中にある苦しみに向き合うことが、苦しみを減らすための最初にすることです。 苦しみという現象には原因があり、原因に取り組むことによりそれをなくす可能性が開けます。

原因から目をそらしたら問題は解決しません。

ハイパーインフレの悪夢 (4)

2013年04月08日 | 経営
現在の日本人は普通のインフレさえ遠い昔のことで、経験した人が少なくなっています。

アダム・ファーガソン著 ハイパーインフレの悪夢 (新潮社) をもとにハイパーインフレとはどういうものかドイツの実例について続けて記してきました。 最後に経済環境に限らず、社会生活に深刻な影響を及ぼす事象が起こったとき何が起こるのか記してみます。

本書によれば、悪性インフレを経験したとき、人にとって「必要の度合いが唯一の価値基準になると、人間の本性があらわになる」といいます。

毎日を生きる上で「それが本当に必要か?」 ということをわたしたちは考える機会が2年前にありました。 東日本大震災。 引き続いて起こった原発事故。

このときわたしたちは価値とは「必要」に根差したものであると気づいたように思います。

人が生きるために絶対必要なもの、それは空気、水、太陽、食料などです。

それらは、いまは身の回りにふんだんにあります。 しかし、それが汚染される危険が顕わになったとき。 食料や水の買い占めでスーパーやコンビニから商品が消え、ガソリンスタンドで燃料が買えなくなりました。

そして今、中国でも政権を揺るがしかねない最大の懸案事項になりつつあります。 経済的豊かさより、きれいな空気や水が大切なことは、それが生存にとっての必須条件であることからも明らかです。

私たちは本当の「必要」とは快適さや利便性を満足するためにものではないとわかったはずです。 一部の人の必要なものに対する消費が、本当に必要とする人への供給を妨げるという連鎖(つながり)を理解したはずです。

3.11以降という時代に生きるということは、限られた資源を分かち、他者との共生を社会的価値=必要として認識することを意味します。 自己満足のための消費が、必要なものを必要とする人たちの生活の権利を奪ってしまうことに気づいたのではないでしょうか。

デフレからの脱却を目指してインフレ目標を設定による金融緩和にかじを切った、日本経済ですが、毎年50万にもの人口減少社会における経済の浮揚は短期的には望ましいようでありながら、一方で西欧経済の後追いであり、かなり無理のある時代遅れの政策のように感じます。

ハイパーインフレの悪夢には、次のような言葉が紹介されています。

「正しいと信じて行っていたことが、実は自分の身の破滅を招いていたことに、もうどうしようもない状況に陥ってから、ようやく気付く。 古典的な悲劇にはそういう展開がよくある」 と。

ハイパーインフレの悪夢 (3)

2013年03月20日 | 経営

最近、ハイパーインフレという言葉を良く聞きますがその実態はどのようなものでしょうか?

アダム・ファーガソン著 ハイパーインフレの悪夢 (新潮社) には、人間が悪性インフレを経験したとき、どのように反応するかが記されています。 現代の日本人にとっても記憶しておくべきことではないかと思います。

この本を読んで、ドイツのように論理的な思考をする国民がなぜヒトラーの台頭を許し、第二次大戦を起こし、ユダヤ人の虐殺を行ったのか? その理由の一部が理解できたように思いました。

第一次大戦後、10年の間にマルクはかつての1兆分の1まで値下がりし、紙くず同然になりました。

本書より

食べ物が買えなかったので、貴重品を売りはじめた -- 陶磁器から、マントルピース、家具、銀器まで。 ユダヤ人がそういうものを買ったときには、腹立たしかった。 ユダヤ人の女たちは、わたしたちがみんな破産しているあいだ、銀狐の毛皮を -- これ見よがしに3着もいっぺんに -- まとってパーティーやお茶会に行くのだろう。 深刻なインフレに直面した人々は、手っ取り早く犯人を探し、金融界で大きな影響力を持っていたユダヤ人に対する根拠なき反感が育っていったといいます。


社会において人々は貨幣に価値があると信じています。 時には借りたお金を返せないために犯罪を犯したり、自殺する人さえいます。 十分な貨幣を持つこと、それは生きるための糧を得、現在と将来の生活を保障し、商品やサービスや娯楽を得、人生を楽しくすることができます。 そのために人は苦労をいとわず働くのではないでしょうか。 しかし、ハイパーインフレになれば、時には命よりも価値あると思っていた大事にしていた基盤が崩れることを意味します。

本書より

ひとたび通貨が崩壊し始めると、恐怖に駆られた人々の欲望や、暴力や、不満や、憎悪がとたんにむき出しになる。そうなったら、いかなる社会であっても麻痺し、変わり果てた姿を呈さずにはいられない。


インフレの恐ろしさは次の言葉に集約されているように思います。

単純に貧しくなっただけなら、みんなで協力して問題を解決しようという気持ちが強まっただろう。 インフレ下では、そうはならなかった。 インフレには差別意識を駆り立てる性質があり、そのせいで誰もが自分の最も悪い部分を引き出された。 必要の度合いが唯一の価値基準になると、人間の本性があらわになる。

家族の中に売春婦がいる方が赤ん坊のなきがらがあるよりもよかった。 餓死するよりも盗む方がましだった。 名誉よりも暖房の方が心地よく、民主主義より名誉の方が不可欠で、自由より食べ物のほうが必要とされていたのだ。