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創発企業経営

15年目の会社の経営、事業報告

なぜ働くか?知的生産手段を得る方法

2015年05月12日 | 経営

「これからは、ますます多くの人たち、特に知識労働者が、雇用主たる組織よりも長生きすることを覚悟しなければならない」  ドラッカー「プロフェッショナルの条件」

大企業が破たん吸収され、名前は同じでも全く異なる事業体に変質してしまう姿を目の当たりにすると、知識労働者は組織の寿命を超えていく必要に迫られています。 

個人が組織の寿命や変化に捉われず働いていくにはどうしたらよいか?  私の経験に基づいた例を一つあげたいと思います。

現在行っている事業は、海外企業との提携によって成り立っています。米国、中国、韓国、インドの企業と提携して、サービスの提供を行っています。 仕事を行うには英文での契約締結が必要でした。

日本の電機メーカで働いていた時に海外企業との技術提携契約交渉に関わる機会がありました。当時、優秀な国際法務の担当の方が契約の骨子作成から契約を交渉締結するまでの過程を間近に見ることができました。   

その後、業務上、英文の守秘義務契約や購買契約の翻訳をする必要が生じ、慣れない翻訳に何日もかかりましたが、社内の法務担当の方に内容をチェックしてもらいました。

契約書のチェックを国際法務の企業に外注したら相当な費用を請求されると思います。  もちろん、この時は社内の法務部でしたのでお金はかかりません。  今から考えてみると、とても良い勉強になりました。 起業後、英文での契約交渉を自分で行うことができました。

企業に勤めるという経験はありがたいものです。給与をもらいながら知識生産のスキルを身に着けるための勉強ができるのですから。 

たとえ企業を辞めてもあるいは企業がなくなっても身に着けた法務の知識は廃れません。

知識生産の道具は企業の寿命を超えて携行することができます。


知的生産手段としての戦略 (2)

2015年04月24日 | 経営

先日、山口揚平著「本当の株のしくみ」(PHP文庫)を読んでいたら「企業の価値の源泉は、1つか2つしかない」という言葉がありました。 著者が、投資をするときする自分に対して次の質問をしてみるそうです。  

  その企業は「なに」で稼いでいるのか?

  「なぜ」稼げているのか?

魅力ある企業を見つける株式投資の目的は、企業経営と同じだと思います。企業を外から見ているか中から見ているかの観点の違いだけです。  「なに」で稼いでいるのか? 「なぜ」稼げているのか? それは、個人の企業の知的生産手段がなにかを決める戦略そのものです。

知的生産手段としての戦略などといっても、要は戦略とは「何をするか。何をしないか」決めておこうということです。たとえどんな企業でもその資源は有限ですから、選択と集中が必要になります。 勝負できる得意分野、事業領域を決めておこうということです。

自分の会社の例で恐縮ですが、私は事業領域を「B2B製造業のグローバル事業分野」にしようと決めました。

国内の市場は成熟し、競争が激しく、始めたばかりの企業が既存の企業とまともに競争したら勝ち目があるとは思えませんでした。そこで国内に限った仕事はしないという選択をすることで、差別化を図ったのです。

B2Bに絞ったのは ― これまでの私自身の経験が製造業の法人相手に限られていたからです。B2B取引は、取引条件や回収に一定のルールがあるので、それに即して取引をすれば勝手がわかっているという安心感があります。

もう一つの戦略は「Intangible」なものを商品にしようと決めたことです。 

Intangible は目に見えないあるいは触ることのできないという意味で、反対語は「Tangible (形のあるもの)」です。 Intangibleな商品とは、知識、ソフトウェア、データなどです。 TangibleとIntangibleの両方の商品を扱ってみるとIntangible な商品の管理が如何に楽かわかります。 在庫も倉庫も輸送もいらないのですから。

特に小さな企業がIntangible なものを商品にもつことは重要でした。

これは、資本が少なくて済むことに加えて、農工業社会から知識社会への移行という歴史的な背景があります。かつて農業をするには土地が必要で、土地に資本価値がありました。 工業社会では工場や生産財に価値がありました。 こうした資本は地主や資本家という人たちが保有していました。それがドラッカーの云う知識社会に移行すると、知的生産財を所有する知識労働者が最大の価値を持つようなります。

モノやお金に不自由しなくなった時、人が何を求めるか?それは目に見えないもの経験と知識ではないかと思います。


生産手段としての戦略 (1)

2015年04月11日 | 経営

ドラッカーの言う「知識労働者の生産手段」とは何か?について記しています。

先回、私の行っている事業のマーケティングミックス(4P)について書いてみたいと記しましたが、マーケティングミックスはある製品やサービスに対して設定されるもので、事業に対してはマーケティングの前に戦略の立案が必要になります。マーケティングは戦略に対する戦術であって、戦略に伴って決まるものです。 組織のトップが戦略を決める際は、戦略と戦術、計画と実践を行き来しつつ実行案が作られます。

戦略が完璧な会社があったとしても、それだけではその企業は成功しません。その会社の社員がひどい電話対応をしたり、製品の品質が悪ければ、その企業と取引したいと思う顧客はいなくなるでしょう。 一方、戦略が貧弱でもオペレーション(例えば顧客対応や現場の対応)が一流ならその企業は成功する可能性大です。

ある政府関連金融関係の企業の社内を歩いている時、電話対応をしていた若い社員が電話を切ると「なんで俺がこんな対応をしなきゃならないんだ!」と大声でいっているのが聞こえました。 周りの人は何も言わずに聞こえないふりでした。 

こういう企業は優秀なエリートしか入れませんから、面倒な対応など「俺のすることではない」のでしょう。時々、有名な外資企業でも要領を得ない対応をする社員はいます。 やはり、できれば、あまりこういう会社とは付き合いたくないなと思ってしまいます。 先方から見ればわたしのようなものと付き合う必要は全くないのでどうでもいいことでしょうが…

これから顧客や市場を得ていこうとする起業家は、実践が成果の8割を決めると思っていた方が良いと思います。 組織のトップは「実践(行動)は戦略(計画)に勝る」を心掛けなければなりません。


生産手段としてのマーケティング

2015年04月07日 | 経営

知的労働者の生産手段は、人によって様々ですが、起業する人にとって役に立つツールについて記してみます。わたしの最大の生産手段はマーケティングです。

マーケティングといって大抵の企業ではPR(販売促進)の仕事だと思われています。 PRはマーケティングの一部ですが全てではありません。マーケティングの目的は突き詰めれば、4Pと呼ばれる要素の最適化です

4PはProduct, Price, Promotion, Place(Distribution)です。 この4つを最適化できる権限を持つのは社長か事業責任者です。マーケティングは社長の仕事といわれるゆえんです。

起業家は、まさに4Pを決定する立場にいます。 それは起業家にとって最重要の仕事です。

この4つは単独ではなくミックスされていないと効果が得られません。 ある製品には、それに適した価格があり、適した販路があります。  いくら良い製品を持っていても、効果的な販売促進(顧客に製品を知らしめる活動)の方法がなければ、その存在自体が顧客に認知されません。価格が高すぎても売れないでしょうし、安すぎたら利益が得られないし、製品のもつ価値が疑われる。 製品やサービスを顧客に届ける方法はどのように構築するか? この4Pを維持するにはどれだけのコストと人員が必要かという制約のもと4Pを最適化していきます。

事業や組織の佇まいを決めるのはマーケティングといっても過言ではありません。わたしが起業したときはどのように4Pを設定したかについて次回書いてみたいと思います。

4Pといえばフィリップコトラーですが、わたしが今の仕事ができるのもコトラー先生のお蔭と常々思ったものです。

 


起業する人にとっての生産手段とは?

2015年04月05日 | 経営

ドラッカーは、「知識労働者は生産手段を所有する。しかもその手段は携行品である」と記しています。(プロフェッショナルの条件 ダイヤモンド社) 知識労働者の生産手段とは何でしょうか?

雇用者としての生産手段は、経理や、人事や営業などの専門知識による業務であると考えられます。では、起業する人の生産手段とは何でしょう。

通常、個人としての知識労働者の生産手段は、自分の強みを生かすことから得られます。人づきあいが上手であれば営業や接客を職業にしていくことが考えられます。 楽器を弾くのが好きなら専門の教育を受けて、教師になったり、語学を生かしたり、それは人によって様々です。

一つ、重要なことは身に着けた生産手段に対して需要があるということです。歌を歌うのが好きで歌手になりたいと思っても、その能力に対して需要がなければ生産手段とはなり得ません。 生産手段として成り立つには「売上―コスト」がプラスになっている必要があります。  生産に対して、対価を払う人がいて、対価はコストを上回っていること。  そうでなければ、継続性が維持できません。

 わたしが起業してから8月で5年になります。 お陰様で起業して以来、2つの前提を成り立たせることができたから事業を続けることができました。 ですから、当たり前のことですが、生産手段に対して需要があることと対価がコストを上回っていることは事業の前提といえます。

 それを成り立たせるにはどうすべきか?  私の経験や起業の経緯を記してみようと思います。


苦の原因(3)

2015年01月23日 | 経営

2014/11/16 の日経新聞最終面の福岡伸一博士の連載記事「科学と芸術のあいだ」で博士は「実は、ものごとに本当の意味での輪郭線はない」と述べています。 以下、記事からの引用です。

 

私たちは自分自身の存在を、外界から隔離された、しっかりした個体だと認識しているが、少し時間軸を長くとれば、不断の流入と流出の中にある液体のようなものでしかなく、もっと長い目で見れば分子と原子が緩やかに淀んでいる - いわば蚊柱のような - 不定形の気体で絶えず交換が行われるゆえ、明確な区別や界面はない。

 

このような記事が日経新聞に掲載されるというのは驚きですが...  別の福岡博士の著書から引用してみます。

 

私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし分子レベルではその実感は全く担保されていない。

私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。 しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支が合わなくなる。   -- 「生物と無生物のあいだ」より

 

福岡博士の著作からは、この世界に分離した個(部分)は存在しないという主張が読み取れます。

先回取り上げた脳神経科学者ジル・ボルトテイラー博士は脳卒中により脳の空間把握領域が壊れてしまったとき、「自分の体の境界が分からなくなり、自分がどこから始まりどこで終わるのかその境界が分からなくなった」と云います。

 そもそも生命が自分がどの範囲であるかという空間定位を行うのは、敵から自分を守るための手段であったそうです。進化の過程で生命は他の生命を食べて生きてきた歴史があります。自分を守るために自分と自分以外のものとの間に境界線を引く必要があっということです。

しかしながら、現実に環境から分離した個体が存在しないなら、自分と自分以外の全宇宙とを区別することは不合理なことになります。自我意識を大切にするとは、自分を世界から切り離し孤独にするが、それをしないと生存が脅かされる

…  そのような歴史が生命の歴史であれば、それは矛盾に満ちた苦しみに違いないでしょう。


苦の原因(2)

2014年11月11日 | 経営

2014年のノーベル生理学・医学賞の受賞テーマは「位置情報を司る脳の神経細胞の発見」でした。これは、GPSのように「自分がどこにいるかが分かるのは、脳に場所細胞とグリッド細胞があるからだ」ということを発見したというものです。

頭頂葉中心溝のすぐ後ろには方向定位連合野と呼ばれる領域があり、ここでは空間の中での自分自身の身体の境界把握をしています。 つまり、空間の中で自分はどの範囲かということを決めているそうです。 自分の範囲を決めるということは、自分と自分以外のものとの間に境界線を引く必要があります。これが方向定位連合野の大切な仕事で、自分と自分以外の全宇宙とを区別することになります。

医学的にも、頭頂連合野が破壊されると物体間の距離、遠近、左右、上下の判断が困難となる空間定位の障害や、歩きなれた街の道順が判らなくなる地誌的障害を起こすことが確かめられています。

脳神経科学者ジル・ボルト テイラー博士は脳卒中により脳の空間把握領域が壊れてしまう体験を「奇跡の脳」 (新潮文庫) に著しました。 不思議なことにテイラー博士は、脳卒中で脳の機能が壊れていくさなかに、かつてないほどの幸福感 - 完全なる平和、自分の身体と世界との境界が消え、宇宙との一体感 -  を体験したと云います。


テイラー博士はNHKでも放送されたTEDスピーチで次のように語っています。

「私はバランスを崩し壁にもたれました。 そして腕を見ると もはや自分の体の境界が分からなくなっていることに気付きました。 自分がどこから始まりどこで終わるのかその境界が分かりませんでした。 腕の原子分子が壁の原子分子と混じり合って一緒になっているのです。 唯一感じ取れるのは エネルギーだけでした。」

「自己と外界の区別」が壊れるということは、自分の範囲がなくなるということですから、自分がどこまでも広がって終いには世界と一致することになります。 誰もが自分の周りは異物であり、自分を特別な存在と認識していますが、自我と外界の境界がなくなれば、世界すべてが自分同様に大切な存在と感じ、それが宇宙との一体感という至福を生むと考えられます。

脳卒中から回復するまでの8年間、博士は「私の意識は、自分自身を個体として感じることをやめ、流体として認知するようになった」といいます。 8年に及ぶリハビリを経て自分を個体として認識するまで回復します。 しかし、回復することによって「自分自身が周囲のすべてから切り離された一つの個体」には戻りたくなかったといいます。博士には何度も繰り返し頭をよぎった疑問がありました。

「好き嫌いや感情や人格の傾向を、すべてそのまま取り戻す必要があるの? 」

「例えば自己中心的な性格、度を過ぎた理屈っぽさ、なんでも正しくないと我慢できない性格、別れや死に対する恐れなど.. 」  

「欠乏感、貪欲さ、身勝手さなどの神経回路につなぐことなしに、お金が大切だと思うことができるでしょうか?」

「地位をめぐる競争に参加し、それでも全人類への同情や平等な思いやりを失わずにいられる?」

これらはすべて人の心の中で起こっている「苦しみ」に他なりません。苦を生じさせているのは自分ということになります。

生物としてこの世界はで生きていくには、身体の各感覚器官から送られてくる信号を脳で処理して物理的空間を把握する必要がありました。 しかし、空間認知は自己を世界から切り離す脳機能の働きでもあります。

脳の認知による自我境界は生命が勝手に作っているものです。 認知によっては、この世界が変化しないはずです。 ではこの世界とはどんな世界でしょうか?


苦しみの原因 (1)

2014年11月08日 | 経営

わたしたちは、日常、五感から入る情報、見るもの、聴くもの、香りなどに対して、ああいいな、嫌だなという判断をしています。 たとえば、混んだ電車で、整髪料の匂いが強烈な中年男性が近くに来たら、たいていの人は嫌だなと思うでしょう。   逃げられない混んだ電車でそういう人のアタマが自分の頬にでもべたっとついたら「うわーひどい」とその日は終日気分が悪いかもしれません。

でも、自分のアタマがそんなに気持ち悪いとは、当の本人は全く思っていないでしょう。 かえって「この整髪料をつけないとすっきりしない」と思っているかもしれません。

私たちは、ああいいなと思うものがあるとそれが欲しくなるものです。街で感じのいい人を見かけたりすると、その人と知り合いになりたいと思ったりします。   「ああいいな」で済めばいいのですが、モノでも人でも、時には心の底からほしくなる時があります。 それが得られればいいのですが、得られなければ苦しみが生じます。

「ああいいな」と思う存在も「嫌だな」と思う存在も自分の外にあります。  それ自体は苦しみの原因ではなく、条件に過ぎません。 それが苦しみの種になるのは、自分というもの(自我)と結びつくときです。   いいも悪いも自分が判断しているからです。 人によってその判断は異なりますからある人にとっては良いものが、別の人には嫌悪の対象になることもあります。

 心の反応は「いいと思うものは近くに引き寄せたい」「嫌だと思うものは遠ざけたい」の2つです。   この2つはコインの裏表のように好きから嫌いに反転することもあります。  

心の底から好きな人が、あなたを裏切って誰かほかの人を好きになってしまったらどうでしょうか? 最初は、何とか取り戻せないかとなんとか努力をすることでしょう。 それでもダメだとわかって、もうどうにも自分のもとには戻らないと分かると憎さが募って、相手の人を傷つけてやりたいと思うことだってあります。 そういうことが事件に発展することだってあります。 

 好きなものがあれば、嫌いなものがあるものです。 好きなものがどうしても得られなければ、その同じ対象をもっとも嫌うことがあり得ます。 対象自体はなにも変わっていないのに、いったい何が変わったのでしょう?  自分の心が変化したのです。

 嫌いなものから逃げられないとき、あるいは好きなものを自分のものにしたいと思っても、それが得られないとき、それが失われてしまったとき、それは苦しみの原因となります。 その判断しているのは自分=自我です。 

苦の原因を生じさせる自我とは何でしょうか?


4種類の苦しみ

2014年10月30日 | 経営

苦についての体系的な分析は、西洋哲学には見つけられませんでした。 5世紀頃に書かれたVisuddhimagga (清浄道論)の英訳本The PATH of PURIFICATION(Buddhist Publication Society) The truth of suffering の章に7種類の苦について記されています。 今回はそのうち4種類について記します。

苦には以下の4種類の分類があります。

concealed suffering (隠蔽苦) とexposed suffering(露呈苦)  

indirect suffering(時限苦) と direct suffering (現起苦)

現在現れている苦には外部から分かるものと外部からは分からないものがあります。頭痛や歯痛、身体内部の疾患のように、当人が口にしない限り外部からは分からない肉体に隠蔽された苦しみがconcealed suffering (隠蔽苦)です。身体の外傷のように、傍目から明らかなものに起因する苦しみはexposed suffering(露呈苦)です。

indirect suffering(時限苦)はパーリ語の'' Pariyaya Dukkha ''の英訳で、現在は生起していないがいつでも生起する可能性を内在した苦を指します。 わたしたちは心と体をもっていますが、生きている限り、病気や怪我によって苦痛を受けるリスクを常に抱えています。 これは私たちの心と体が苦の母体だということです。 direct suffering (現起苦)は既に生じている苦しみを指します。

これら4つの苦は身体と同様に心にも存在します。 外部から見て明らかな心的露呈苦。当人が告げなければ外部からは分からない心的隠蔽苦。現時点で現れている心的時限苦とあらわれていない心的現起苦です。

わたしたちは心と身体から構成されている以上、心と身体に対し、既に生じているか、まだ生じていないかの苦が存在します。 そして、既に現れている苦には外部から分かるものと分からないものがあります。 これで、すべての苦しみはMECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive)「相互に排他的な項目」による「完全な全体集合」=「重複なく・漏れなく」として4種類に分類できます。

なぜ分類などするのでしょうか? ただ分類するだけでは大した意味はありません。  福岡 伸一著 「世界は分けてもわからない」 (講談社現代新書)に次のような言葉があります。

「分けてもわからないと知りつつ、今日もなお私は世界を分けようとしている。それは世界を認識することの契機がその往還にしかないからである」。

わたしたちの認知は、世界をそのまま理解できるほどには優れていないのでしょう。自身の限られた認知能力を通じて巨大な現象である苦を理解するには「分ける」ことを通じてしかできないのでしょう。

分類の有用な利用法は、私たち自身の心身や周囲に生じる現象を観察して、どの苦の分類にあたるのか調べてみることにあります。 分類は苦の理解と対象化への入り口でもあります。 

        


苦しみの対象化

2014年10月26日 | 経営

わたしたちは毎日の生活の中で漠然と、日々良い方向に向かうことを期待しています。 仕事をしていれば昇進することを、投資をしていればお金が増えることを、結婚すれば幸せな生活が続くことを、何とはなしに将来は良くなるという右肩上がりの生活を確かな理由もなく信じているものです。 でも実際にはそうではないことは明らかです。誰もが人生は苦しいものだ、思い通りにいかないものだと気づきながら、それを言葉にはしないものです。

人生は順調であるはずだと思いながら、苦境に遭ってしまったら、それはとても苦しいものだと思います。自分の思い通りにいかないときの対処は、生きる上で最も重要なテーマだと思います。 苦というテーマについて書くのはそのためです。

苦を感じたときの有効な対処法に「苦の対象化」があります。 入院中の経験をもとに記してみます。

入院中、小腸に狭窄が発生し、食事が一切摂れず、静脈カテーテルからの点滴で栄養補給を受けていた時期がありました。 幸いなことに、3週間ほどして、小腸の狭窄が解消して通常の食事がとれるようになったのでカテーテルを抜くことになりました。

 その時、なぜかとても不安になりました。 カテーテルは鎖骨の近くから、心臓に向けて15cmほども挿入されていました。 太さも結構あり、それを抜いたら大量に出血するのではないかという不安が頭から離れなくなりました。

手術の時は、腹部に大量の出血があり、縫合後もお腹の左右2か所から腹部に溜まった血を排出するドレインチューブが2本出ていました。 チューブの先には血を貯めるタンクがついていました。それを2つ首から下げて、腕に点滴、背中に痛みどめのモルヒネのボトルを下げてトイレに行ったものです。あちこち管が出ている様子はサイボーグみたいでした。

少し前までは、そんな状態でしたから、カテーテルを抜くくらいどうということはないのに、どういう訳かこの時は不安で落ち着きませんでした。

暫く気になっていましたが、思い立って、カテーテルの周囲を消毒しにきた看護師さんに「カテーテルを抜いたら大量に出血しませんか?」と聞いてみました。 答えは「大丈夫です。止血しますから」でした。 止血と言ってもどういうふうにするのかなと思いましたが、それを聞いたら不思議と不安が消えました。

なぜ消えたのでしょうか? この前までは不安や苦しみは心の中に確かに存在しました。

入院中に実際にあったことですが、認知症気味の方で自分で点滴を抜いてしまう患者さんがいました。 また、看護師の方のお話だと、患部の消毒中に急に動く患者さんがいるそうです。 なぜそんなことをするのでしょう? そんなことをするのは、それぞれの心に動かずにいられない不安があるからです。

不安や苦しみを押し殺したり、別のものにすり替えてしまうことも一時的には可能です。 しかし、いつか抑圧された苦しみは再び現れるものです。

私がしたのは、不安を言葉にして看護師さんに尋ねるということでした。 不安を隠してしまわずに、人に見える姿にしてみたのです。 止血するという答えは当たり前の答えです。 しかし、わたしの心の中の「不安」はそれ以上回転するエネルギーを失いました。 苦しみは苦しみをエネルギーにして回転します。 無理に抑えればさらに力を増して回転するのです。

苦しみは隠してしまわずに人に話すという形で明るみに出してあげることで解消しました。それは、苦しみの「対象化」です。

苦しみの本質は、(自分にとっての)不快な現象に対する心の反応です。 自分の外部にある現象は制御することができません。不快な話、騒音などの環境から物理的に離れることはできても、その源を絶つのは容易ではありません。 しかし、大多数の人は、外部の環境に働きかけてそれを変えようとします。

不快な現象を物理的に避けるよりずっと簡単な方法は自分の認識を変えることです。身体を動かす必要もありません。 周りの現象は変えられないとしても、自分の認識を変えることはできます。 自分の中の心の働きですから。

その一つが苦しみの「対象化」です。 自分の中の形にならない不安のエネルギーを言葉にして確認すると、不安は、訳もなく泣き続ける赤ん坊を大人が抱き止めてくれた時のように、エネルギーを失い立ち消えになります。

誰か信頼できる人に対して話してみてもよいですし、自分自身で苦しみや不安を確認することでも対象化は可能です。 自分自身が、納得すればよいのです。心が落ち着けばそれでよいのです。

それからしばらくして、実際に静脈カテーテルを抜く日が来ました。 胸の静脈に15cm挿入されていたというカテーテルは痛みもなく簡単に抜けました。その後、先生がベッドに横になっている私の胸のあたりに両掌を重ねて体重をかけて10分ほど止血しました。 重みが少し苦しかったですが大静脈の止血ってこうやるのかと思いながら、身体にかかる圧力を心地よく感じました。 こんなにしっかり押さえておけば出血しないだろう..

不安はそれ以来ありません。