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創発企業経営

15年目の会社の経営、事業報告

ハネウェル・ミノルタ特許訴訟

2021年05月07日 | 経営

1993年に、8年勤めた日本の電機メーカを辞めて、米国ハネウェル社の日本駐在事務所に転職しました。 

当時、ハネウェル社のオフィスは渋谷にありました。 その時の上司は日系米人のOさんという方でした。 

上司と部下の2人のチームで、知的生産手段を身につける貴重な経験をしました。

 

1980年代後半、「ハネウェル・ミノルタ特許訴訟」と呼ばれる訴訟がありました。

ハネウェルがミノルタのオートフォーカスカメラの自動焦点機構が自社の特許を侵害しているとしてミノルタを相手に訴訟を起こしました。

 

米国の裁判所の評決は、ミノルタの特許侵害を認め、1992年、ミノルタはハネウェルに対し、和解金およそ165億円を支払うことになりました。 

ハネウェルは、ミノルタ以外の日本のカメラメーカにも同様の請求を行い、合計400億円以上の和解金を受け取ることとなりました。

 

この事件は、当時の米国と日本の貿易摩擦、企業競争の縮図とみられ、NHKで特集番組が放送されたほどでした。

そもそも、訴訟以前に日本のカメラメーカを訪問してオートフォーカス技術の売込みをしていたのがOさんでした。

 

訴訟が終わった翌年、ハネウエルの日本事務所で上司となったOさんは、この大きな事件については殆ど話しませんでした。

ほんの僅か口にしていたのは「ミノルタが特許を侵害していると米国のハネウェルに伝えた後は、もう何もするなと言われた」とか「訴訟の結果、ハネウェルは日本でカメラの仕事をできなくなった」といったことでした。

 

Oさんは広島出身で、米国に移民として渡り、「中学の授業では英語も何もわからなかった。ラジオ修理の技術者にでもなろうと思っていた」と言います。 その後、ベトナム戦争に従軍、UCLAで電気工学の学士号を、コーネル大学で経営学修士号を得ます。 根っからテクノロジーが好きだったようで、オートフォーカスの技術の話をしたときは少し雄弁でした。 それは、飛行する物体であっても一瞬で位相差を捉えて、カメラの焦点を合わせるというものです。 ハネウェルの特許ではオートフォーカスの実用化はできないという説もあり、技術開示契約をもとに技術情報の提供を受けていたことが、敗訴の原因であったという説もあります。  当のOさんは、そうしたことについては何も語りませんでした。

 

日本の企業、関係者の方は、当時多大な影響を受けたことと思います。 ミノルタは和解金支払いが負担となり、さらに他のカメラメーカとの競争激化で経営が悪化しました。 2003年には、コニカと合併し、コニカミノルタホールディングスを設立しました。 ハネウェルは巨額の和解金を得ましたが、Oさんは、この訴訟に触れることは殆どなく、ましてや、自分の手柄であるとは決して思っていなかったようです。 

Oさんは、引退後は米国に帰国、居合道の先生をしているようです。

 


そうだ、僕は違った人生を生きよう (4)

2018年10月13日 | 経営

1990年代、日本の電機会社に勤めていた頃、最も印象に残った経験は、後に世界最大の電子機器受託製造サービスになる企業の社長が飛び込み営業をしていた現場を目の当たりにしたことです。

当時、私の勤める会社は、JR有楽町の駅を日比谷側に降りるとそごう(今はビックカメラ)があり道を隔てた先にオフィスがありました。

冷たい雨の降る冬。 トレンチコートの長身の男性がたった一人、アポ無しでその会社を訪ねてきました。 受付から電子機器の海外営業部門である私の上司に連絡があり、私も同席させてもらいました。

訪ねてきたのは英語しか話さない日系人で、しかも暗い顔でボソボソ話すので何を言っているのか私にはよくわかりませんでした。 それでも、海外での経験が長い上司は感じるものがあったらしく真剣に話を聞いていました。

その後判ったのは、訪ねてきたのは米国の西海岸にあった企業 - ソレクトロンの当時のCOO Dr Ko Nishimura でした。

ニシムラ氏はその後ソレクトロン会長 兼 CEOに就任し、同社の売上を $3億ドル(1989年)から $187億(2001年)に約10年間で50倍以上の規模に拡大しました。 ソレクトロンはMalcolm Baldrige National Quality Award を初めて2度受賞した企業になりました。

ニシムラ氏は、日本の企業を訪問して米国で製造委託(EMS) の仕事を請け負えないかと申し入れたのです。当時の日本の産業界では思いもよらない海を越えた製造委託ビジネスの提案でした。 EMS事業は、その後、想像できないまでの規模のビジネスに発展しました。

言葉も通じない日本で、スタンフォード大学の博士号を持つニシムラ氏はたった一人で飛び込み営業をしていたのは驚くべきことですが、急成長する企業は、確かな理由があるのだと分かりました。

経営者なら問題があっても、文句をいう暇があったら自ら行動すればいいという例を見せてもらいました。

私の勤めた企業はニシムラ氏の提案に対して、技術責任者を米国に送って検討をしましたが、当時EMSのビジネスの可能性を理解できる社員はおらず、関係はそれ以上進展しませんでした。 ソレクトロンのサービスを活用したのはソニーなどの一流企業。  それから約10年後、ソニーの元製造部長と話す機会がありました。 その人の感想は「ソレクトロン、あれは凄い会社だ」でした。

ソレクトロンは2007年に、フレクトロニクス社に買収されます。 しかし、EMSというビジネスは現在も世界の主要企業であるアップル、グーグル、シスコシステムズなどに利用され、産業界に確固たる地位を築いています。 大企業の立派なオフィスやビルを訪ねると圧倒されますが、企業というものはプロジェクトなのだと思います。 いつか、自動車業界でも電動化の進展に伴い、マーケティング、デザイン、商品企画のみ行う自動車会社が創られ、自動車EMS企業が創業されると思います。 すでに米国ではそういう会社があります。

企業は時代の要請を感じた創業者が創り、時間経過ととともに、形を変え場所を変え名前を変えていく Intangibleな (形のない)存在なのだと思います。


そうだ、僕は違った人生を生きよう (3)

2018年09月06日 | 経営

競争の基本戦略は突き詰めればコストリーダーシップと差別化の2つに集約される。

 

 

マイケルポーターによれば企業の競争戦略は基本的に2つです。ひとつは、コストリーダーシップ、もうひとつは差別化です。  (ポータは著書の「競争の戦略」で集中化をあげていますが、戦略とは集中が前提であり、後年には、基本戦略として集中化に触れなくなりました)

 

これは、競争環境における個人の差別化にも適用できると思います。

 

1) コストリーダシップは自社の属する業界で圧倒的な強さを確立し、納入までの総費用を業界で最低価格に作り上げる戦略です。価格の力で、シェアや収益の拡大を実現します。換言すれば、これは、人と同じことを徹底してやる度合いとスピードの勝負です。 このような戦略をどの企業も取れるわけではありません。一部の企業にのみ可能な強者の戦略といえます。

 

個人の競争戦略で言えば、これはNo.1になるということです。競争のルールが厳格であればあるほど、No.1になるのは難しくなります。 例えば、一斉学力試験や100m陸上など、1点、0.1秒の違いを追求する熾烈な競争です。ここでNo.1になれれば素晴らしいことですが、誰でもなれるわけではありません。 能力、努力に秀でた一握りの強者だけが取れる戦略です。

 

2) もうひとつが、差別化戦略で、買い手が重要と認める特徴を提供することにより、価値に見合った価格を正当化するという戦略です。差別化戦略は、製品、市場、販売方法、技術などユーザの求める価値に対して、自社の強みに基づいて、自分の得意な分野で勝負します。

 

同じゲーム環境なら大きいほど有利ですが、土俵が違えば、規模に関係なく強みを発揮することができます。差別化を追求する人から見れば、学力試験や100m走で1番になっても「それがどうした?」ということになります。

 

つまり、ごく一部の例外を除きすべての企業、すべての人は差別化戦略を採用すべきであるといえます。

 

個人のキャリアの差別化として考えると、ナンバーワンになるかオンリーワンになるかと言えるかもしれません。誰でもナンバーワンになれる訳ではありませんが、誰でも求められる価値に対して人より秀でることは、少ない努力で可能です。

 

その時、大事なのはユーザの求める価値を理解することです。 差別化やオンリーワンは自分のやりたいことを独善的にやることではありません。自分に対して何が求められているかを理解して、それに適した価値を提供するのです。

 

私の経験で、リーマンショックの数年後、外資の企業を辞めて、日本の会社の求人に応募したことがあります。企業からは何の返事も来ませんでした。 当時は買い手市場で応募者はたくさんいて、私は求められるニーズにあっていなかったのです。 企業に雇って欲しい人は世の中にたくさんいる。こういう競争環境で勝負しても疲弊するだけです。ではどうしたらよいでしょう?

 

まず、自分の強みを理解することです。 「私はxxをやりたい」ではなくて「私はxxができる」かを理解する。 次に、街に出て、あるいはなんでもいいから仕事をしてみて世の中に求められているニーズを探してみることです。

 

自分の好き嫌いは一時忘れて、無心に世の中で何が求められているか耳を傾けてみると、どこにでも切実なニーズが存在するはずです。世の中、全てが満たされているわけはなく、不足ばかりではないですか。 そのニーズに、自分の「できること」が結びついた時、それが、自分が勝てる環境になります。 それが個人の差別化戦略の第一歩だと思います。

 

 


そうだ、僕は違った人生を生きよう (2)

2018年07月27日 | 経営
サラリーマンは、人生のカードを他人に握られる。配属先も他人が決め、出世するのもしないのも、他人が決める。
内館 牧子 著 『終わった人』

 
日本では、配属先や出世を他人が決めるのはまだいいほうで、組織自体がなくなってしまうことさえありました。
カードを他人に握られてもゲームに参加できていればまだましという環境であったように思います。
 
卒業後、就職した電機メーカのシステム部門から本社の海外営業部門に異動になりましたが、6年ほどして、今度は別の会社に転職しました。
 
それ以来、自動車業界で仕事をすることになるのですが、以降、何度か転職する機会があっても、その後の人生に最も大きな影響を与えた決断でした。
 
1990年代当時、日本の産業はエレクトロニクスと自動車が双璧でした。  
しかし、この2つの業界はその後の明暗が別れます。
国内に電気メーカの製造工場が減る一方自動車メーカは、今に至るまで存在し続けているばかりでなく、工場の新設さえ行われています。  
 
1990年代初めに、私がこの変化を読み取れた訳ではありません。
 
85年のプラザ合意による円高の進行により日本企業の海外における競争力は大幅に低下し、異動した先の海外営業部門での仕事は一言で言えば撤退戦でした。
 
撤退戦になれば、組織にはポストが限られます。 それでも転職しなければならないほど環境が悪い思う人は、当時はまだ殆どいません。
 
退職の申し出の後、海外事業部長が私に言いました。 「転職するんだって。 やめたほうがいいよ。 失敗するから。」
大企業の傘の下から出たら失敗者になると忠告したかったのかと思います。
 
当時を思い出して、改めて「なぜこの時転職したのか」考えてみました。  思い当たったのは、「企業でデイリーワークに精出しても、能力は伸びない」ということでした。   実際、勤務期間の割には仕事の能力が伸びたとは思えませんでした。 会社のために毎日真面目に働いても、自分のスキルを伸ばすことにはならないということに、なんとなく気づいたのが当時の転職の理由だったように思います。
 
同じ組織に一定期間いれば仕事を円滑に進めるコツがわかってきて、「自分は仕事ができる」と思いがちです。  実際は、その企業限定の能力で、外部に出たら殆ど価値のないスキルです。
 
何れにせよこの転職の結果、移った先の自動車業界は急速な円高でも成長を続けました。
 
経営学者の藤本隆宏教授は、日本の自動車産業の強みは「すり合わせ」だと言います。 これに対しエレクトロニクス産業は「組み合わせ」型手法で、日本企業は強みを活かして競争する土俵がなくなってしまいました。   産業においても差別化ができなければ衰退してしまうということです。
 
ここでは個人のキャリアの差別化の必要性について、書いているつもりなのですが、産業においても企業においても差別化が命運を分けるなら、小さな弱い存在の個人が差別化をできなければ「人生のカードを他人に握られる」のは仕方ないことかもしれません。
 

そうだ、僕は違った人生を生きよう (1)

2018年07月21日 | 経営
毎日の人知れぬ苦労や淋しみも無く ただ楽しいことばかりだったら   愛なんて知らずに済んだのにな           宇多田ヒカル 「花束を君に」 

 

私が大学を卒業して、日本の電機メーカに就職した時、同期の大卒社員は260名ほどいました。 

入社後、自宅から会社まで遠かったので、4人部屋の寮に入るように手配されていました。 しかしながら、寮には入らず、片道2時間位かけて電車で通勤しました。
 
寮に入った同期社員に聞いてみると、仕事が終わると毎日宴会だったそうです。
 
当時、コンピュータシステムのSEが不足していて、大卒の社員はほとんどSE部門に配属されました。
 
プログラミングをやった人にはわかると思いますが、ソフトウェアの生産性はできる人とできない人で10倍、場合によっては100倍差があります。
 
私はデキない方で、人には「適性というものがある」と痛感しました。
 
このままでは、組織の中では成績不良者になるのは明らかで、何とかしないといけないなと思って過ごしたものです。
 
同期が大勢いる中で、自分にはSEの適性はないと言ってもわがままにしか聞こえません。  その末に、思いついたのが英語でした。
 
大学時代の英語の成績は ”C” でしたが、英語自体は好きでした。
 
当時、入社した社員全員TOEICを受けることになっていて、付け焼刃ながら試験前対策を行いました。
 
結果、点数は良くはないながら、全体の2番目の成績でした。 当時の学生は殆ど英語ができなかったのに助けられました。
 
大した成績ではなくとも、その後システム部門で過ごす上で支えになリました。 それから2年して、海外営業部に転属になりました。
 
その時、寮に入って会社に慣れ親しんでしまえば、英語の勉強などしなかったと思います。
 
運が良かったのは、表立っては周囲から協調性がない批判されなかったことです。 その時、周りの評価を気にしていたら、その後の人生どうなっていたでしょう?
 
差別化はたとえ人生に必要でも勇気がいることです。

中国、インドでの起業についての考え方

2017年07月22日 | 経営

天津、北京訪問の際、現地の中国人、インド人と食事をしました。 北京で北京ダックを食べましたが、本場の料理は美味しかったです。 中国人の社長が、中国での起業の苦労を実感込めて話した後、私にどうやって起業したか尋ねてきました。 私が話すと、食卓のほぼ全員がとても興味深そうに話を聞いていました。

以前、勤めていた企業を辞めて、転職できる企業を探したけれど、当時は雇ってくれる企業がなかったことを話すと「自分たちもいつそうなるか分からないから..」と。 皆、今はそれぞれの会社の社員です。

こんな話は、日本で真面目に聞いてくれる人はいませんでした。  日本のような低成長率の国と毎年7%水準の成長を続ける国の活力の差かもしれません。 日本では独立の話自体が、所属する企業に対する謀反のようで、このテーマについては黙してしまう人が多かったように思います。

独立を志向するなら、起業は、現在の市場の不満や問題点を補完する活動ですから、現状維持ではできないものです。Rebel(反抗者)は米国では格好いいイメージですが、日本では秩序を乱す変わり者です。

Global Entrepreneurship Monitor (GEM)の調査によれば、日本の起業活動指数も起業家の社会的な地位に対する評価も調査65か国中の最低水準です。 起業活動の活発さはGDPの成長率と相関があります。

日本では起業後、過去12カ月以内の廃業率が非常に低い傾向があります。 勿論、起業率の低さがと関係がありますが、起業した会社の廃業は少ないと良い意味に解釈することもできると思います。


天津経済技術開発区 (TEDA) 訪問 (2)

2017年06月04日 | 経営
2017/5/1付 日本経済新聞 朝刊に以下のような記事がありました。
「1年間に開業した企業数を総企業数で割った開業率は21%に達する。開業率を国際比較すると、日本は5%前後、米国は10%程度で推移しており、中国の開業率の高さが際立つ」
 
 
今回、北京、天津を訪ねて街中に黄色やオレンジの自転車が多いのに気づきました。
これが「自転車シェアリング」だと気づきました。  歩道のあちこちに自転車があふれて、自転車につけられたバーコードをスマホのアプリでスキャンして、決済もスマホでできるという便利なものです。
日本にも同様のサービスがあれば便利だと思います。  今後の中国での自転車シェアリングのさらなる普及については予測できませんが、間違いなく民間企業による起業のダイナミズムは感じました。
 
5月にTEDA(天津経済技術開発区)の管理本部は、大企業の誘致のみならず、起業の振興にも積極的です。管理本部ではワンストップサービスでの開業手続きが可能で、建物の中には、主要銀行の殆ど店舗を開いていてました。  TEDAは、投資企業の社員に対する住環境や医療環境の整備にも注力しており、企業に対する行政サービスは、日本よりも中国の方が進んでいると思いました。
 
天津訪問の2日目、黄砂が発生しました。
 
 
翌日、北京でも朝から黄砂で視界が悪かったのですが、昼過ぎには青空が戻ってきました。
 
 
しかしながら、PM2.5の影響と思われる咳が止まりませでした。
 
規制が及ばない起業のダイナミズム、行政サービスの良さというメリットがある反面、空気の悪さは大きなデメリットだと実感しました。

遠者来

2016年01月07日 | 経営
環境や政策が魅力的なら、企業や人が集まってきます。 最近の中国では、環境汚染や労務コストの上昇で、海外企業は中国での投資を減らしつつあります。
 
インバウンド需要で海外から日本に訪問者が増えたのは魅力的なものがあるからでしょう。 沖縄・東北3県観光数次査証というものがあります。 最初の訪日の際、沖縄県・岩手県、宮城県、福島県のいずれかで1泊以上することが条件で、数次ビザが発行されるというものです。
 
このせいか2014年の沖縄県 石垣港経由の入国者は 国内第10位の78,934人でした。 1-5位は成田空港、関西空港、羽田空港、福岡空港、中部空港の順ですから10位というのは大変な数です。
 
今年の晩秋、新潟を訪ねると、稲刈りの終わった田圃でたくさんの白鳥がもみ殻をついばんでいました。
白鳥は、現生の空を飛ぶ鳥の中では最大級。 それでも遠くシベリアやオホーツク沿岸から日本に渡ってきます。
コメの生産地の新潟をはじめ日本は、白鳥には魅力的な越冬地なのでしょう。
 
 
 
国境は人が作ったものですが、企業や旅行者、白鳥にとっては境界は容易に超えられるもののようです。 遠きものがやってくる場所は、良いところなのだと思います。
企業経営の視点からすると、態々遠くから人がやって来たり、問い合わせをしてもらえるならば魅力的な商品やサービスがある企業なのでしょう。
 
その魅力を大切にしていくのは肝要です。
 
葉公問政、子曰、近者説、遠者来
(葉公、政を問う。子曰く、近き者説ぶときは遠き者来たらん)「論語より」

バングラデシュにおけるソーシャルビジネス

2015年10月10日 | 経営
2015年8月13日付の日経新聞 「戦後70年これからの世界」という記事に国際協力機構特別フェロー 緒方貞子氏のインタビューが掲載されていました。
 
緒方氏はインタビューの中で「以前私は、日本だけが「繁栄の孤島」となることはできないと言ったことがあるが、日本人だけが危ないところに行かず、自分たちだけの幸せを守っていけるような時代は、もう終わった」と述べています。
 
この発言は世界の紛争地での難民救済に取り組んできた緒方氏の経験に基づく国際外交和平仲介を意図したものですが、わたしたち一般人が関与するのは難しい領域です。
 
日本人が、自分たちの幸せを願うのと同様に世界の人の幸せを願ってできることがあるとしたら、それは何かと思っていた時、大学院で同窓だった井原さんからバングラデシュで、IT教育事業を立ち上げたという話を伺いました。 その経緯は以下のようなものです。

井原さんは、もとは銀行やベンチャファンドにいらして、昨年まで福岡にある会社の副社長をしていました。 退職を機に暫く起業のアイディアを考えていましたが、今年バングラデシュの方向けにOlive Code (http://www.olivecode.com/) という IT教育プログラムを始めました。

バングラデシュでは能力のある人でも教育のインフラがないために教育や仕事の機会が限られることを知り、ネットを使ったプログラミング教育の提供を思いついたそうです。 さらに現地の卒業した生徒には、プログラミングの仕事の機会も提供しようとしています。
 
この事業の画期的なところは、オンライン教育システムをフィリピンのIT企業と提携して開発、チューターもフィリピンの講師を採用しています。 これにより、バングラデシュの方にも受講可能な水準の受講料を設定することができたといいます。 
 
また、自宅で受講できるオンライン教育とはいえ、現地に教室があったほうがよいということでグラミン銀行からバングラデシュの首都ダッカで教室の提供を受けることができたそうです。

 
 
こうした活動の成果としてバングラデシュでは徐々に生徒さんが増えつつあるということです。
 
わたしもこの話を井原さんから伺って、周囲が支援すべき意味のあるプログラムだと思い、微力ながらこれまでの
経験を生かして企業からの仕事の機会が得られるよう支援を始めました。

しかしながら、個人でできることはわずかで、何らかの形でご協力をいただける方がいらしたら (twagoya@edoo.co.jp) にご連絡をいただきたいと思っています。
 
以下がこの事業を運営する Edoo, Inc. のサイトです。
http://www.edoo.co.jp/
 
 

上腸間膜動脈症候群 (2)

2015年08月11日 | 経営

飲食したものが身体の中で閊えてしまえば、普通は生きていられません。

開腹手術をすると治癒の過程で縫合部が癒着し易くなるそうです。傷がふさがるということは癒着することですから、治癒の過程で癒着は多少なりとも生じます。

十二指腸狭窄の治療法は、チューブを鼻から入れ、のどを経て腸にまで挿入する保存療法です。これにより、腸内の内容物を体外へと排出します。

当然、食事ができませんので、すべての栄養を太い静脈に入れた点滴から入れる静脈栄養という方法を取ります。 栄養素は1日2リットルほど投与されます。 腕の血管からは点滴できないので、腰か胸の近くの太い静脈にカテーテルを挿入します。 写真はチューブを胸に挿入した状態です。 胸部血管から約15cmチューブが挿入され、心臓の近くまで達していました。 向かって右の管は、腸まで挿入された鼻管です。

結局、左右に太い管が二本ぶら下がったまま点滴スタンドと一緒の生活が 20日間ほど続きました。 健康体の人から見たら相当不便を感じるでしょう。

鼻管は、直径6-7mmあり、のどに違和感があり夜になっても3時間以上続けて眠れませんでした。 毎日3度、同じ病室の他の患者さんには食事が運ばれてきますが、わたしは食事なし。 味噌汁を啜る音など、他の人が食事する音が聞こえますが、自分だけ食べれないというのも苦しいものです。

治療中はいつ良くなるか分かりません。 「何もかも思い通りにはいかない」とはこのことだと思いました。