デーヴ・グロスマン著『戦争における「人殺し」の心理学』(ちくま学芸文庫)に,戦争でさえも,人は殺人を避けようとすることが紹介されているという。以下,孫引き。
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兵士も「人殺し」はしたくない
同書(『戦争における「人殺し」の心理学』)でグロスマンは、南北戦争、第一次・第二次世界大戦、ベトナム戦争などの帰還兵の証言に基づき、以下のような前提から考察をはじめる。「ほとんどの人間の内部には、同類たる人間を殺すことに強烈な抵抗感が存在する」「歴史を通じて、戦場に出た大多数の男たちは敵を殺そうとはしなかったのだ。自分自身の生命、あるいは仲間の生命を救うためにすら」
例えば、ナポレオン戦争や南北戦争では、一連隊(連隊は200~1000人規模)は、約30ヤード(約27・5m)先の敵軍に対して、平均して1分間に1人か2人しか殺せていないことが統計的に明らかになっている。当時の銃でも、人間ではない標的なら、75ヤード(68・8m)先でも命中率は60%だった。敵兵を撃つように訓練し命令されたにもかかわらず、多くの兵士は実際には敵を撃ち殺すことができなかった。
事態は20世紀の第二次大戦においても変わらない。米軍陸軍准将のS・L・A・マーシャルは、第二次大戦中の米軍兵士にライフルを敵に発砲したかどうか質問した。その結果、平均して米兵の15~20%しか敵に向かって発砲していないことがわかった。では彼らは戦場で何をしていたのか。「発砲しようとしない兵士たちは、逃げも隠れもしていない」「多くの場合、戦友を救出する、武器弾薬を運ぶ、伝令を務めるといった、発砲するより危険の大きな仕事を進んで行っていた」という。
第二次世界大戦中、米国陸軍航空隊(現空軍)が撃墜した敵機の30~40%は、全戦闘機パイロットの1%未満が撃墜したものだった。ほとんどの戦闘機パイロットは「一機も落としていないどころか、そもそも撃とうとさえしていなかった」。
要するに、戦場の兵士の多くは「同類たる人間を殺すことはできない自分」に気づき、「いざという瞬間に良心的兵役拒否者になった」(グロスマン)わけである。
「遠い」他者の方が殺しやすい
だが,グロスマンは、こうした検証に基づき、兵士に「人殺し」を強要する戦争は間違っている、と言いたいのではない。グロスマンは、「適切な条件付けを行い、適切な環境を整えれば、ほとんど例外なくだれでも人を殺せるようになるし、また実際に殺すものだ」と、兵士に人殺しをさせるための「適切な条件付け」と「適切な環境の整備」の必要を力説する。
まず、「適切な環境」とは、殺す相手との「距離」をできるだけ遠くすることだ。兵士は、物理的あるいは心理的に自分から「遠い」他者の方が殺しやすい。近距離からライフルで人を撃つのには抵抗感がある。そこでライフルを使った方が正確に殺せる場合でも、多くの兵士は被害者の顔を見ずにすむよう手榴弾を使いたがる。銃剣で人を刺すのも心理的な抵抗が大きい。実際の銃剣戦では、多くの兵士は銃剣で突き刺すのではなく、銃床などで殴り合っている。
逆に、飛行機からの爆撃や艦砲射撃の場合、人を殺すことへの抵抗感は少ない。現代の米軍が行っている高々度からの爆撃や巡航ミサイルなどによる攻撃は、兵士にとって非常に抵抗感の少ない殺し方ということになる。
同じことが「心理的な距離」――文化的・倫理的な距離にも当てはまる。敵は自分と対等の人間ではなく「格下」の人間だと思えば殺しやすくなる。「人間ではない」と思えば、さらに殺しやすい。第二次大戦中、日本が米国や英国を「鬼畜米英」と呼び、米軍が日本人を「ジャップ」と呼んだのは、「殺しているのは自分と同じ人間ではない。別の下等な生き物だ」と兵士に思いこませるためだった。
グロスマンは、文化・民族が多様な米国では、「敵は文化的に劣っている」とか「敵は人間ではない」とかと、あからさまに言うのは社会的に抵抗があるという。そこで米国の場合、敵との心理的距離を遠くするために、第二次大戦の「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」、ベトナム戦争の「コミュニストの侵略との戦い」、湾岸戦争の「フセインによるクウェート侵略との戦い」などのような、政治的道徳的な「米国の正義」を強調するのが有効だとする。確かにブッシュも、アフガニスタン・イラク戦争において「テロとの戦い」「9・11を忘れるな」といった心理的距離を強調している。
(中略)
こうした訓練の結果、米軍兵士の発砲率は、第二次大戦の15~20%から、朝鮮戦争では55%、ベトナム戦争では90%まで上昇した。ベトナム戦争では、普通の兵士は一人殺すのに平均して5万発もの弾丸を費やしたのに対して、「人殺しの訓練」を徹底的に受けた米軍狙撃兵は、敵一人殺すのに平均1・3発の弾丸しか必要としなかった。米兵は戦場で、実験室のイヌやネズミのように条件反射的に人を殺しているわけだ。
■■引用終了■■
漠然と,人類が同じ言葉が話せたら,互いに相手に対する理解が深まるというだけでなく,同じ言葉を話す人を殺すという抵抗感から戦争が減るのではないか?と思ってはいたが,それを裏付ける著作だ。
100年規模で各国語を統一する~例えば,まず,単語の統一から始めるなど~運動など日本が主体となって世界に呼び掛けるようなことはできないでしょうかねぇ…。
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兵士も「人殺し」はしたくない
同書(『戦争における「人殺し」の心理学』)でグロスマンは、南北戦争、第一次・第二次世界大戦、ベトナム戦争などの帰還兵の証言に基づき、以下のような前提から考察をはじめる。「ほとんどの人間の内部には、同類たる人間を殺すことに強烈な抵抗感が存在する」「歴史を通じて、戦場に出た大多数の男たちは敵を殺そうとはしなかったのだ。自分自身の生命、あるいは仲間の生命を救うためにすら」
例えば、ナポレオン戦争や南北戦争では、一連隊(連隊は200~1000人規模)は、約30ヤード(約27・5m)先の敵軍に対して、平均して1分間に1人か2人しか殺せていないことが統計的に明らかになっている。当時の銃でも、人間ではない標的なら、75ヤード(68・8m)先でも命中率は60%だった。敵兵を撃つように訓練し命令されたにもかかわらず、多くの兵士は実際には敵を撃ち殺すことができなかった。
事態は20世紀の第二次大戦においても変わらない。米軍陸軍准将のS・L・A・マーシャルは、第二次大戦中の米軍兵士にライフルを敵に発砲したかどうか質問した。その結果、平均して米兵の15~20%しか敵に向かって発砲していないことがわかった。では彼らは戦場で何をしていたのか。「発砲しようとしない兵士たちは、逃げも隠れもしていない」「多くの場合、戦友を救出する、武器弾薬を運ぶ、伝令を務めるといった、発砲するより危険の大きな仕事を進んで行っていた」という。
第二次世界大戦中、米国陸軍航空隊(現空軍)が撃墜した敵機の30~40%は、全戦闘機パイロットの1%未満が撃墜したものだった。ほとんどの戦闘機パイロットは「一機も落としていないどころか、そもそも撃とうとさえしていなかった」。
要するに、戦場の兵士の多くは「同類たる人間を殺すことはできない自分」に気づき、「いざという瞬間に良心的兵役拒否者になった」(グロスマン)わけである。
「遠い」他者の方が殺しやすい
だが,グロスマンは、こうした検証に基づき、兵士に「人殺し」を強要する戦争は間違っている、と言いたいのではない。グロスマンは、「適切な条件付けを行い、適切な環境を整えれば、ほとんど例外なくだれでも人を殺せるようになるし、また実際に殺すものだ」と、兵士に人殺しをさせるための「適切な条件付け」と「適切な環境の整備」の必要を力説する。
まず、「適切な環境」とは、殺す相手との「距離」をできるだけ遠くすることだ。兵士は、物理的あるいは心理的に自分から「遠い」他者の方が殺しやすい。近距離からライフルで人を撃つのには抵抗感がある。そこでライフルを使った方が正確に殺せる場合でも、多くの兵士は被害者の顔を見ずにすむよう手榴弾を使いたがる。銃剣で人を刺すのも心理的な抵抗が大きい。実際の銃剣戦では、多くの兵士は銃剣で突き刺すのではなく、銃床などで殴り合っている。
逆に、飛行機からの爆撃や艦砲射撃の場合、人を殺すことへの抵抗感は少ない。現代の米軍が行っている高々度からの爆撃や巡航ミサイルなどによる攻撃は、兵士にとって非常に抵抗感の少ない殺し方ということになる。
同じことが「心理的な距離」――文化的・倫理的な距離にも当てはまる。敵は自分と対等の人間ではなく「格下」の人間だと思えば殺しやすくなる。「人間ではない」と思えば、さらに殺しやすい。第二次大戦中、日本が米国や英国を「鬼畜米英」と呼び、米軍が日本人を「ジャップ」と呼んだのは、「殺しているのは自分と同じ人間ではない。別の下等な生き物だ」と兵士に思いこませるためだった。
グロスマンは、文化・民族が多様な米国では、「敵は文化的に劣っている」とか「敵は人間ではない」とかと、あからさまに言うのは社会的に抵抗があるという。そこで米国の場合、敵との心理的距離を遠くするために、第二次大戦の「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」、ベトナム戦争の「コミュニストの侵略との戦い」、湾岸戦争の「フセインによるクウェート侵略との戦い」などのような、政治的道徳的な「米国の正義」を強調するのが有効だとする。確かにブッシュも、アフガニスタン・イラク戦争において「テロとの戦い」「9・11を忘れるな」といった心理的距離を強調している。
(中略)
こうした訓練の結果、米軍兵士の発砲率は、第二次大戦の15~20%から、朝鮮戦争では55%、ベトナム戦争では90%まで上昇した。ベトナム戦争では、普通の兵士は一人殺すのに平均して5万発もの弾丸を費やしたのに対して、「人殺しの訓練」を徹底的に受けた米軍狙撃兵は、敵一人殺すのに平均1・3発の弾丸しか必要としなかった。米兵は戦場で、実験室のイヌやネズミのように条件反射的に人を殺しているわけだ。
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漠然と,人類が同じ言葉が話せたら,互いに相手に対する理解が深まるというだけでなく,同じ言葉を話す人を殺すという抵抗感から戦争が減るのではないか?と思ってはいたが,それを裏付ける著作だ。
100年規模で各国語を統一する~例えば,まず,単語の統一から始めるなど~運動など日本が主体となって世界に呼び掛けるようなことはできないでしょうかねぇ…。
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第二次大戦中にそういうことがということもありましたねえ。創氏改名といいますが。
宮澤賢治の作品の中にも出ていましたし…。でも、最近は耳にしません。「グローバル化」と言うことであればあらためて注目されても良さそうなものですが「英米式グローバル化」を進めるには都合が悪いのかも知れませんね。
ただ、肝心なのは相互理解と共感ではないかと思います。それさえあれば、多分、母語が異なっていても争わずにするのでは?
テレビで流されるイラク側の情報も,翻訳なしで,伝わったら,アメリカの世論は動くのではないでしょうか?「私の娘が殺された。なぜ,アメリカはよその国に出かけてきて,人殺しをするのか」
統一化には批判はあるとは思いますが,一つの国の言葉に統一するのではなく,各国が知恵を出し合い,少しずつ,言葉を統一化する…これはこれまで人類が成し遂げてきたことに比べれば,そんなに難しいことではないのではないでしょうか。まず,単語を共通化し,他方で,文法も少しずつ,変えていく。複雑な語尾変化はなくしていく…などなど
エスペラント語はかじったことがありますが,一つの考え方だとは思いますが,やはりヨーロッパ中心なので,もう少し,検討しないといけないように思います。
戦争中の「敵性語」と同様,仮想敵国の外国語を積極的に学ぼうという姿勢が見られない限り,イラクと米帝の和解は難しいのではないかと思いますね。
私は高校時代からロシア語を学んでたせいで,周りから KGB だのと言われていじめられていました(笑) 現在でもラジオロシア語講座の読者は圧倒的に定年後の老人なんだとか。学生運動や労働運動でマルクス・レーニンに触れて,青春時代に学べなかったロシア語に再チャレンジというケースが多いようです。
言葉の統一化には必ずキーボードの統一化という壁が立ちはだかります。日本語でも最近ようやく大正時代に制定されたカナキーが駆逐され,皆んながローマ字入力へと統一されて来た所です。ラテンアルファベットのみというのは確かに偏向してますが,アラビア文字やスラヴアルファベットなど多くの言語を統一するより,現在のキーボードへソフトウェア的にそれぞれの言語の文字を割り振るという方法の方が合理的ではないかなというのが技術屋の私の経験談です。
エエ計画で、賛成です。だいたい、「おまえ、なんで、外国に移住せえへんの?」と聞かれて考えてみると、外国で生活していくうえで「言葉の壁」が非常に大きい要素の1つになっている。
まず、「言葉の壁」は労働・勤労していく上で障害になるし、日常生活分野の全体についてもだし、ましてや政治・経済の主権者として働き、生きるとなると「言葉の壁」が外国移住の阻害要因になっている。
だから、「言葉の壁」がフリーになっていけば、外国移住者は国際的に増大していく主流になるだろう。
その場合に、やはり民族自決権と外国移住者の権利が衝突する場面に遭遇するだろう。
「国土に対する排他性は民族固有の権利である」と「地球は1つ。人類も1つ。自由往来は人類固有の権利で、人類は祖国を持たない。」とする命題の衝突である。
下手に、英語が出来るからって米軍の通訳なんてすると、トバッチリを受ける場合もありますし。
空爆やミサイル発射は、余り言語と関係ないのでは?って言うか、言語が介入する余地が少ないって言うか。
殺人を避けたがる人間心理は興味深いですけど。
多分、上記のご主旨は、米国やイスラエルは、人類史上経験した事のない、心理的変質を起こしている可能性があり、その病理に立ち向かうのは、米国社会内部でさえ並大抵でない覚悟が居るとか、そういった警鐘ではないでしょうか。
帰還後の兵士の社会不適合は、ベトナム戦争から問題になり始めましたし、機を一にしてますよね?
すごい危険な考え方ですね。一番やってはいけないことの一つだと思います。
正直,唖然としました。
少女マンガネタで申し訳ないのですけど,萩尾望都のSFマンガに『11人いる!』(小学館文庫)というのがあります。地球(テラ)を「宇宙大学」として,テラ系宇宙から集まった受験生がキーボードに向かって問題を解く,というシーンで始まるマンガです。この中でも10人一組の二次試験チームの間で,やはり方言の差だとか標準語の問題などが出てケンカの元になっていたりします。
結局,お互いの細かい違いを認め合うことから,言語の統一というのは始まるのではないかいな,と関西人の私は思うのですが。TOEIC でも米語以外の英語方言を出題するようになったのは,ある意味一歩前進と言う所でしょう。
# 私はドイツ語訛りの英語を話す輩なので,東部米語には近かったものの,米語一本槍の押し付けには偉く反発したものでした。
ヨーロッパが EU という形で昔のローマ帝国へ戻ろうとしていますけど,結局同じ言語を話しているボスニア・ヘルツェゴビナは分裂する結果となりました。チェコ語とスロバキア語も実は同じ言語なのですけど,これもまた細かい違いを理由にして国家として分裂したという経緯があります。と,なれば,紛争を停める唯一の手段は,ドイツとポーランドの国境のように,双方が納得行くまでの平和的な話し合いと外交つまり政治的な手腕しかないのではと私は思うのですが,皆さんは如何でしょう?