松宮孝明立命館大学法学部教授が「刑事立法と犯罪体系」(成文堂)12頁で,敵味方刑法について触れているので,紹介します。刑法ってだけでも何やら怖い雰囲気があるのに,敵味方刑法だなんて…。
■■引用開始■■
犯罪論においてもそうなのであるが、刑罰論においてはより顕著に出てくるのが、政策目標として犯罪者の社会復帰ないし再社会化を選択するのか、それとも犯罪者の排除ないし監視を重視するのかという問題である。これは近年、ドイツでは「敵味方刑法」(Feindstrafrecht)と呼ばれ、アメリカではnew penologyという言葉で表現されることのある問題状況に類似する。それは「自律」という観点から見れば、「担い手」を増やす政策をとるか敵を増やす政策をとるかという問題でもある。
この問題は、近年の欧米諸国の刑事政策においてきわめて大きな問題である。Feindstrafrechtやnew penologyでは、犯罪者は社会復帰の主体として「(潜在的)自律」能力を持つ者としてではなく、その行動様式に変化のない社会の「敵」として扱われる。その帰結は、端的には、犯罪者の隔離による危険の分散であり、そのために--アメリカの一部に見られるように--新しい刑務所の建設などの多大なコストもいとわない。そのような政策がとられることは、社会の統合機能の衰退を象徴するものであって、「担い手」の成長・育成という視点からは避けられるべきものである。もっとも、残念ながらその当否はそれだけでは判断できないのであって、前提として、社会の統合能力ないし(再)社会化能力は向上しているか減退しているか、その社会が外部からの参入に親和的か敵対的か、といった諸点を考慮しなければならない。もちろん、その社会の構成員が統合能力の向上に向けて努力をしているか否かが決定的に重要なことは、いうまでもない。同時に、刑事政策に対する影響力を増してきた一般市民の世論--それ自体は、刑事政策を全面的に「お上」に委ねていた時代よりも前進であるといえよう--に対して、社会の統合という見地からの啓蒙活動が、刑事政策の重要課題のひとつとなったことも、認識しておくべきであろう。それは、社会の「自律」を助けるものでもある。
■■引用終了■■
いま,日本,いや世界中で社会の統合能力は間違いなく減退しつつある…。
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■■引用開始■■
犯罪論においてもそうなのであるが、刑罰論においてはより顕著に出てくるのが、政策目標として犯罪者の社会復帰ないし再社会化を選択するのか、それとも犯罪者の排除ないし監視を重視するのかという問題である。これは近年、ドイツでは「敵味方刑法」(Feindstrafrecht)と呼ばれ、アメリカではnew penologyという言葉で表現されることのある問題状況に類似する。それは「自律」という観点から見れば、「担い手」を増やす政策をとるか敵を増やす政策をとるかという問題でもある。
この問題は、近年の欧米諸国の刑事政策においてきわめて大きな問題である。Feindstrafrechtやnew penologyでは、犯罪者は社会復帰の主体として「(潜在的)自律」能力を持つ者としてではなく、その行動様式に変化のない社会の「敵」として扱われる。その帰結は、端的には、犯罪者の隔離による危険の分散であり、そのために--アメリカの一部に見られるように--新しい刑務所の建設などの多大なコストもいとわない。そのような政策がとられることは、社会の統合機能の衰退を象徴するものであって、「担い手」の成長・育成という視点からは避けられるべきものである。もっとも、残念ながらその当否はそれだけでは判断できないのであって、前提として、社会の統合能力ないし(再)社会化能力は向上しているか減退しているか、その社会が外部からの参入に親和的か敵対的か、といった諸点を考慮しなければならない。もちろん、その社会の構成員が統合能力の向上に向けて努力をしているか否かが決定的に重要なことは、いうまでもない。同時に、刑事政策に対する影響力を増してきた一般市民の世論--それ自体は、刑事政策を全面的に「お上」に委ねていた時代よりも前進であるといえよう--に対して、社会の統合という見地からの啓蒙活動が、刑事政策の重要課題のひとつとなったことも、認識しておくべきであろう。それは、社会の「自律」を助けるものでもある。
■■引用終了■■
いま,日本,いや世界中で社会の統合能力は間違いなく減退しつつある…。
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そうした専門家のあり方が民主主義社会の統合能力を減退させ、専門家の社会が外部(労働者・庶民)からの参入に敵対しており、専門家の社会の構成員が社会(労働者・庶民)の統合能力の向上に努力する在り方、方向性が誤っているか否かが民主主義社会(社会の統合機能向上)に決定的に重要なことは言うまでもない。
刑罰論のことで言えば、死刑賛成の人は応報刑罰主義。死刑廃止の人は教育刑罰主義です。
で、応報刑罰主義では刑事施設の運営は「目には目を。歯には歯を」での恐怖刑罰となる。他方、教育刑罰主義では刑事施設の運営は医療・教育・勤労施設のような愛情刑罰となる。
が、犯罪者であることに変わりはないので、隔離施設であることには変わりはない。
その意味は、一般市民と同様の自由は認められないということである。すなわち、教育刑では犯罪者に対し、医療・教育・勤労が義務化され、応報刑で犯罪者に対し、犯罪に見合うだけの恐怖と苦しみが義務化されるのである。
http://d.hatena.ne.jp/Barl-Karth/20060531
氏の見解は,基本的には,ドイツのヤコブスとい刑法学者を参照しているのですが,ヤコブスはルーマンという放射化医学者に依拠しているところが大きいらしく,現在,ルーマンの本(日本語)を読んでいる最中です。
そのうち,ブログに何か書こうと思っています。
です。
私が大学時代,刑法を学んでいたころは,カント・近代啓蒙主義が刑罰論の基調でしたが,最近の刑罰論における「ヘーゲル復興」はちょっと付いていけません。
「敵(味方)刑法」でウェッブ上で参照できる文献です。
英米社会哲学まで論究されており,興味深い内容です。
そして、そのような国家の二面性の淵源は諸個人の人間観にあるとし、諸個人の人間観には未来永劫、一致点と不一致点があるのであり、そうした諸個人の人間観の違いが根拠となって国家の二面性は永続するのであると結論している。
なるほど、ヤコブス先生は自認するように完全な悲観主義者である。
で、ヤコブス先生の国家理論によれば、ヤコブス先生自身が敵味方刑法適用の対象者になるのではないか。
なぜならば、先生自身が認めるように、先生もテロリストと同じ人間であり、先生自身がテロリストと同じ人間観=悲観主義を認めているからである。
つまり、先生は、戦争、生命刑、殺し合い、人間観の永遠の不一致を人間として否定し去る社会、国家権力が不要な社会の確立を実現不可能なもの、あるいはひどく懐疑視するのである。
しかし、人間は自然状態では社会的存在であり、科学上は本能レベルにおいても、理性レベルにおいても反社会的な存在ではない。端的に言って、「殺し合い」の本能など事実、存在しないし、理性レベルにおいても、事実、存在する必然性はない。
人間は理性を持ち社会的に労働するから「殺し合い」「奪い合い」から自由な存在である。
では、何故、われわれ人間は「殺し合い」「奪い合い」するのか。さらに、そのように「理性」を使うのか。
それは社会が階級社会だからである。わたしたちの生まれた社会が他方の階級の人間が一方の人間を搾取する社会だからである。
つまり、人間が反社会的なのではなく、階級社会が反社会的なのである。
だから、社会的な人間が反社会的な階級社会を社会化すれば、社会からは、「殺し合い」「奪い合い」は消滅する。
したがって、国家権力の二面性は解消されるだけでなく国家権力自身が不要になる。人間の二面性は完全に社会化される。
法とは人間の社会性を根拠とし、階級社会を消滅させる社会的な強制力である。ゆえに、搾取を維持・擁護する反社会的な「法」=強制力は暴力であっても法とは言えない。
先述したが「法」の反社会性=暴力性の淵源は人間にあるのではなく、搾取する階級の反社会性にある。
ゆえに、社会から搾取階級を消滅させる政治運動の社会性が法を完全に実現していく力となり、そうした社会的な政治運動が国家権力化すれば、階級社会は消滅され、人間は事実上も、規範上も、完全に社会化されるという社会観・人間観が社会科学の基本認識である。
こうした見解に立てば、敵味方刑法の適用対象は①搾取階級及びこれに属する諸個人、②搾取階級を維持、擁護する国家権力の執行者、③搾取階級の反社会性を反映する団体及びこれに属する諸個人になる。
ただし、③の場合はそもそもは搾取階級ではなく、反社会性の実態がないので、現実に反社会的活動の実態を備えて初めて適用されなければならない。
そして、敵味方刑法の究極的実現としての①・②の場合が、いわゆる「暴力」革命となるのではないか。
僕は悲観主義者ではないから、平和革命は必ず実現するし、それが人間の社会的本質だと考える。
ここ2-3年の刑法学(会)は,従前の(私が司法試験を勉強していたころの)刑罰論はかなり揺れ動いています。今日は,一日自宅にいて,敵(味方)刑法の論文を2本読んでみましたが,9/11以降の諸現象ー特にアメリカのーを「分析する概念・枠組み」として,敵刑法はかなり説得力があります。また,近代啓蒙主義以降の刑罰論史を整理する上でも「使える分析道具」だと思います。ただし,ヤコブスの「カント軽視」は気に入りませんがね。
私は,クリスチャン(しかもルター派)なので,人間観について,本質的には,悲観主義者(性悪説)です。「私たちは生まれながら罪深く,汚れに満ち,思いと言葉と行いと(怠り)とによって,あなたの前に多くの罪を犯しました」と毎週懺悔の祈りを唱えています。ホッブスも牧師(英国教会)の息子だったので,たぶん同じでしょう。
私のブログをみていただければ分かるけど,私はカント主義者ではないけど-一次期カント主義者であったことはありました-,やはりカントの影響は色濃く受けています。私の刑罰観は,現在でも,絶対的応報刑論,(限定的)死刑肯定論です。
なお,私がクリスチャンだからといって,「ブッシュと一緒だ。アメリカンファンダメンタリストだ」と誤解しないでくださいね。ブッシュは,私から言わせればクリスチャンじゃないし,アメリカの一部ファンダメンタリズムもキリスト教とは言えません。
要するに,東西南北さんに言いたいことですが,学問的営為は「労働者・庶民に難しい専門用語を次から次へと撒き散らしてきて、民主主義社会の向上を妨害する存在」ではありません。敢えて乱暴な言い方をしますが,学問は,労働者・庶民の「だけ」のものではないのです。
また,「階級闘争としての刑法」というのは,瀧川幸辰先生を連想させますが,瀧川先生だって,そんなナイーブなお説を唱えられた訳じゃないでしょう。
刑法学(犯罪・刑罰論)や法哲学・社会哲学という分野は,小学生が習う道徳の授業と違い,「専門用語を次から次へと撒き散ら」かさないとやっていけない分野です。
他人様のブログのコメント欄で論争をするのは本意ではないので,できるだけ早くこれと同趣旨の書込を私のブログに書きますから,反論等があれば,私のブログにコメントを書いてください。
タイトルに記したキーワードに関わる議論になると思います。哲学上の観点から議論していきたいので学問的営為の方法・内容・現代的意義を含めた根本的かつ全面的な議論にしたいと思います。もちろん、僕の現時点での能力の及ぶ範囲と深度です。
議論の社会的意義は日本国を含む人類の民主主義社会の発展・革新による諸個人の自由の実現です。
では、今後はBarl-karthさんのブログで議論していきたいので、よろしくお願い致します。
②福岡県警が制作中の暴追ビデオの学校での上映を中止にする旨の申し入れが暴力団からあった。理由は、「組員の子供がいじめに会う恐れがある。人権侵害だ」とのこと。
①について、人が人を殺すことが必要なのは正当防衛のみだ。「黙って殺されろ」と法が命じれば弱肉強食の暴力を法が認めることになり矛盾となる。
このため法は人が生きるために必要な人殺しを正当だと認める。しかし、死刑は正当防衛による人殺しではない。遺族に緊急性はない。死刑は国家権力を手段とする報復殺人であり、人命軽視の社会風潮に拍車をかけることになるから完全に違法となる。
②について、全国の小・中・高・大等の教育機関で徹底的に上映せねばならない。必修カリキュラムにするべきだ。なるほど、いじめは人権侵害だ。しかし、子供が親に対して、警察と学校教育で習ったことを根拠にして暴力団からの離脱を懇願していくように社会が運動していくのは正しい。
だいたい、暴力団の親の行動自体が子供にとっては「虐待」ではないのか。人間である子供たちと社会が暴力団を恥と感じ、組員を更生させる社会運動は正当だ。
つまり、最高裁の真意は、個人が死刑を法定する法律に違反する犯罪行為を実現した場合、死刑で処罰されても当然であり、それが罪刑法定主義だという所にある。
なるほど、国民主権の立法手続きで制定された法律に従って裁判するのでなければ、司法官が気分・感情で個人が処罰する恐れがある。極度の絶対主義・官僚主義のぶり返しになる。
だが、司法府には違憲法令審査権が認められているのは何故か。また、立法(法律)が万古普遍ではないのは何故か。それは「法」というものが単なる刹那的で狭い硬直的形式ではなく、歴史の法廷を要請しながら人間の自由を保障する力だという示唆だ。
では、死刑は人間の自由を保障する歴史の力だろうか。死刑は正当防衛ではない殺人にあたる。しかし、死刑囚は殺人を犯した。つまり、死刑とは国家権力を手段とする人間の殺し合いである。司法は報復・復讐ではない。それを否定するのが「法」、すなわち人間の歴史の力ではないか。
・では、事実において、人間の本能は何なのでしょうか。事実において、それは「食欲」「性欲」「睡眠欲」です。ゆえに、事実上、人間には「殺し合い」の本能など存在しません。
・したがって、人間観の本質を悲観主義・性悪説とする認識は完全に事実誤認となり、自らの力で正すことが必要となります。(民主主義)
・人間の本質は意識・言葉・労働を社会的に行為する社会的存在であり、反社会的存在ではありません。
・ゆえに、事実においては、人間が反社会的なのではなく、階級社会が反社会的なのです。
・そこから、事実において、社会的な人間が反社会的な階級社会を発展させていく、階級闘争が事実において人間らしい社会的な「権利のための闘争」となるのです。
・要するに、ポイントは人間と社会に対する事実認定であり、それは次の点になります。
①事実において、階級社会の存在を認めるかどうか。
②事実において、労働者階級・庶民を被害者として、他方、資本家階級(国家官僚・労働官僚を含む)を加害者として認めるかどうか。
③その上で、事実において、労働者階級・庶民が真理・真実を認識する方法・手段として「専門用語」が必要なのかどうか。(職業研究者の民主主義とは何か。科学専門家の民主主義とは何か。その究極において研究のための研究は民主主義かどうか。)
労働者階級・庶民が真理・真実の認識を「専門用語」に妨害されている、また、いわゆる高尚な職業専門家(特に大学教授と国家官僚)による「学問的営為」に妨害されていることを、事実として認めるのかどうか。