昨日一時間ばかり、鳥取ダルクのお話を聞く機会をえた。ダルクは今、全国に70余りの施設があるそうだ。 僕が知った時には3か所か4か所くらいやったから それだけ必要としとる人たちがようけ居られるということや。
何年か前から鳥取ダルクはフェーズ制を取り入れている。ダルクの中でこんなプログラムを取り入れているところはほとんどない。 こういったプログラムがどんな効果があるのかきちんと測定されて(こんな言い方がええんかどうかは別にして)いってほしいなあ。そうして行ったらさらに多くの人たちの力が生み出されると思うわ。
朝日新聞のネットでこんな記事があったんで無断紹介
鳥取ダルク代表 千坂雅浩さん
鳥取ダルクの目の前に広がる浦富海岸を歩く千坂雅浩さん=岩美町牧谷 |
◆覚醒剤の罪悪感 長女抱けず
浦富海岸(岩美町)を見下ろす丘に立つ、薬物などの依存症患者の社会復帰を手助けするリハビリ施設「鳥取ダルク」。2005年にでき、その翌年から責任者を務める。
父は仙台市の中学教諭。厳しく育てられた。強い男への憧れから、中学卒業後は陸上自衛隊員の養成学校に行きたいと父に相談したが、反対された。高校に入ったが、たばこやシンナーに手を出し、けんかや恐喝を繰り返した。身も心も強くないことは自覚していた。けんかの前、必ず鎮静剤を飲み、不安を抑えた。
高校は自主退学し、働き始めた。20歳の頃、違法なポーカーゲームの賭場で働き、賭場の先輩に勧められ、初めて覚醒剤を打った。体が宙に浮いたように感じ、何でもできるんだという全能感に包まれた。その後も打ち続けたが、仲間が警察に捕まり、怖くなってやめた。
飲食店で働き、26歳で結婚したが、妻が出産で実家に帰った際、寂しさから覚醒剤に手を出した。生まれた長女を罪悪感から抱けず、次第に家から足が遠のき、妻から離婚を切り出された。覚醒剤を打ち続け、34歳の時、交際中の女性にそのことを告白。仙台ダルクを教えられた。
今も仕事に疲れた時、覚醒剤を使いたい衝動に駆られる。「依存は治癒できないが、折り合いをつけて生きてゆくことはできる」。日々、依存と向き合っている。
◆悲しい依存症 必ず回復する
――責任者になって間もなく10年目に入ります
依存症は悲しい病気だと改めて感じています。自分で自分の人生をコントロールできない。生きづらくなり、それを物質で埋めるのにも限界がある。
2005年の開設から延べ130人ほどが鳥取ダルクに入所しました。多くは苦しみながらも、少しずつ安らぎや自由を得ていきました。その様子を見守っていくことが何よりのやりがいになっています。
――入所者と接するうえで心がけている点は
心の弱さをさらけ出すことですね。ありのままの姿で生きていくことへの抵抗は、自分のリハビリを通して薄れていきました。依存症はだれにとっても隠したい部分ですが、それを言葉にすることで初めて、入所する「仲間」と一緒になって、回復に向けて歩いていけるようになります。
――依存症の怖さはどんなところですか
一番なりたくない自分になってしまうことです。うそをつき、周りの人たちを傷つけるし、それを止めることができない。生きる希望を失うほど辛いことなんです。それでもあきらめないでほしい。苦しんでいる人は、必ず回復することができるはずです。
○取材後記 柏樹利弘○
リハビリに何度も挫折した経験を振り返りながら「打ちのめされた。それでも生きることをあきらめたくなかった」と千坂さんは話した。薬物依存の怖さを語る言葉の一つひとつが経験に基づいていて、重みがある。比較的安く、ネット通販などで入手しやすい危険ドラッグが流通しているため、薬物に依存してしまう危険性は以前より高まっている。だれもが抱える心の弱さが薬物依存を生み出しているのではないか。自分と向き合うことの大切さを知った。
【ちさか・まさひろ】
1960年、仙台市生まれ。恐喝や暴力事件を起こし、市内の高校を中退。職を転々とする中で覚醒剤依存を深めた。茨城、秋田、福岡などのダルクでリハビリをする傍ら、スタッフとして勤務。2006年、ダルクの関係者の指名で鳥取ダルクの責任者に。09年には岡山ダルク(岡山県瀬戸内市)の立ち上げに努めた。自らの体験を交え薬物依存をテーマとする講演を県内外でしている。