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二本松城と二本松少年隊 in 福島県二本松市霞ヶ城公園

2024年09月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

二本松市郭内、標高345mの「白旗が峰」に築かれた城郭と、麓の居館からなる梯郭式の平山城「二本松城」。所在地の名を冠し「白旗城」とも、また「霞ヶ城」とも呼ばれ、日本百名城の1つに数えられています。

二本松城の歴史は古く、室町時代初期の暦応四年(1341)、室町幕府より奥州探題に任ぜられた『畠山高国』が塩沢・殿地が岡に最初の居を構え、地名を二本松と改称。畠山氏七代当主『二本松満泰』が嘉吉年間(1441~1443)にこの地に二本松城を築城。戦国時代に二本松氏が滅び、会津若松城主蒲生氏郷の支城となるも、上杉配下の下条忠親の支配に置かれ、再び蒲生配下の梅原と門屋が二本松城代にと目まぐるしく変遷し、城主の交代が繰り返されました。寛永二十年(1643)、白河小峰城より10万700石で入城した『丹羽光重』は二本松藩の藩庁としての偉容を備えるため二本松城の大改修を行い、本丸に石垣を積み三重の天守を築造。以後、この地は明治維新まで丹羽氏の居城となりました。

慶応四年(1868)の戊辰戦争において、二本松藩は奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟に参加し新政府軍と戦う為に藩兵の大半が白河口に出向いた・・その隙をつかれ、老人子供だけが残された二本松城下に殺到した新政府軍によって、僅か一日の戦闘で落城。

この戦いにおいて特に語られるのは、幕府側として戊辰戦争に出陣した12歳から17歳の「幼年隊幼年兵」。本来、戦への出陣は17歳からと定められていましたが、二本松藩には危急の際には年齢を2歳加算する入れ年という独自の制度があり、15歳隊士の参加が特例として認められていました。これにさらに入れ年を願い出て結成されたのが幼年隊幼年兵でした。彼らが二本松少年隊と名づけられたのは、14歳で出陣した『水野好之』が、戊辰戦没者五十回忌に作成した「二本松戊辰少年隊記」からです。

箕輪門を背景に、鉄砲・刀を手にした鉢巻たすき掛けの少年兵の姿は、戦の是非に関わりなく胸を締め付けられます。我が藩を!我が城を守る、その思いは、当時に生きていない人間には決して分かり得ない、まさに武士として当然の命懸けの覚悟だったのです。

城を失う事は、すなわち彼らの生活の全てが失われる事であり、一族もろとも滅亡することにつながる・・それゆえに少年たちは、一命を賭してでも城を守らねばと奮い立ち、自ら戦う事を願い出たのです。

見送る母の思いもおそらく同じだったでしょう。「二本松戊辰少年隊記」によれば、「岡山篤次郎は出陣に際し、母に頼んで戎衣(戦場での着物)をはじめ、手ぬぐいにいたるまで「二本松藩士 岡山篤次郎 十三歳」と書いてもらい出陣した。「母が屍を探すときにわかりやすいように。字が下手だと敵に笑われる。」との理由からだ。」

平和な時代しか知らない人間が、知った顔で彼らの行動を浅はかだ、哀れだとか、命令を下す人間を非人道的だと批判する事は、決して許されない事です。それは命を賭して戦った彼らに対してこの上なく非礼な事ではないでしょうか。

「二本松少年隊 成田才次郎 戦死の地:重傷の身で西谷門から城へ向かう途中に長州兵と出会い、一瞬の油断をみて、敵将の白井小四郎を突き刺した後、その場で絶命。出陣に際し、敵に会ったら突けと教えた父の言葉を健気にも守った末の戦死だった。享年十四歳」

二本松駅に建てられた「霞城の太刀風」。戊辰戦争に出陣した二本松少年隊士成田才次郎が、二本松藩伝統の「突き」で長州の将・白井小四郎を倒した史実に基いて制作。「二本松戊辰少年隊記」によれば、「才次郎は父から「敵を見たら斬ってはならぬ。突け。ただ一筋に突け、わかったか。わかったら行け、突くのだぞ。」と、教え諭され出陣した。この突きは、初代藩主・丹羽光重公以来の二本松藩伝統の剣法です。」

「大城代 内藤四郎兵衛 戦死の地:城門を開いて敵勢に斬り込み、獅子奮迅の末、壮絶な戦死を遂げた。」

「二本松藩士自刃の碑」 丹羽和左衛門(六十六歳:城代) 安倍井又之丞(六十五歳:勘定奉行)自刃の碑
「慶応四年(1868)七月二十九日、戊辰戦争による二本松城落城に際して、共に自刃した両人の供養碑。丹羽は床几に腰をおろし、軍扇を膝の上に広げ、割腹したのち内臓を軍扇の上につかみ出し、前屈みになって絶命」現地案内より

七代藩主:丹羽高寛公が、家臣の儒学者:岩井田希夷(昨非)に藩政改革と綱紀粛正の指針として、一夜のうちに刻ませた「戒石銘碑(かいせきめいひ)」
「爾俸爾禄(汝のほう 汝のろくは)  民膏民脂(民のこう 民のしなり)  下民易虐(民はしいたげやすきも)  上天難欺(上天は あざむきがたし)  《詞意:お前(武士)たちの棒給は、領民の汗と脂の結晶なのである。つねに感謝をし、領民をいたわなければならない。これに反し、領民を苦しめれば、必ず、天の怒りに触れるであろう》

「二本松城跡 箕輪門のアカマツ」。目通り幹囲が2~2.5メートル、樹高9~12メートルあり、樹冠が傘状をしているのが多く長い枝を石垣下に垂れています。記録などから樹齢は350年を越える推察されます。

市指定有形文化財「洗心亭」

城内に唯一残る江戸時代の建造物。「墨絵の御茶屋」と呼ばれた茶亭であったといわれ、天保8年(1837)に阿武隈川河畔に移築され藩主の釣茶屋として利用。明治40年(1907)、元の所在地とみられる現在地に再移築されました。

【 清水のめは  松に生るゝ 風のあり  加藤 口寸】昭和18年(1943) 建立

戊辰戦争後の明治6年(1873)、この地に、日本最初の民間機械製糸の草分け「二本松製糸株式会社」が創立。銅像は製糸工場創始者「山田脩 翁」

訪問日:2015年6月24日


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2 コメント

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考えさせられます (うばゆり3)
2024-09-11 08:36:49
おはようございます。

>平和な時代しか知らない人間が、知った顔で彼らの行動を浅はかだ、哀れだとか、命令を下す人間を非人道的だと批判する事は、決して許されない事です。それは命を賭して戦った彼らに対してこの上なく非礼な事ではないでしょうか。

私、同様なことを太平洋戦争などでも思うことがあるのです。
ただし、今後、どこの国でも戦争は駄目と言いたいのですけれどね。
でも、また、それが現実になれば・・・・

昨日草刈りしたら疲れましたので、今日は家事に移行です(^^♪
返信する
Unknown (だんちょう)
2024-09-11 20:28:16
こんばんは。
こういう所って若いときは
全く興味がないけど
年を重ねると行って見たくなりますねェ
返信する

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