笛吹き朗人のブログ

器楽は苦手でしたがサラリーマンを終えた65歳から篠笛を習っています。篠笛を中心に日々のリタイア生活を紹介します。

「十六」の面ただよふ春憂ひ

2022-02-04 17:10:30 | 日記
写真は、能「敦盛」に使われる能面で、「十六」と呼ばれます。

敦盛は、平清盛の甥で、笛の名手と言われていました。

義経の鵯越えで有名な、一の谷の戦いで、熊谷直実に討たれた時の年齢が、16歳だったので、あわれを誘いました。

その戦いの時が、2月7日(旧暦)です。

能では、「敦盛」があり、2月の演目となります。
後シテの所作が優雅です。

「後シテの優雅な所作や春の能」

篠笛では、「青葉の笛」と言う曲目があります。

写真の面は、友人のNさんの作を頂いたものです。

佐渡の能舞台で一度、本物の能「敦盛」で使われました。

敦盛の霊を慰めるため、毎年2月の前半には、函から出して飾っています。

タイトルの句は、一昨年の春、詠んだものです。

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私は、千葉県東金市出身の落語家、柳家吉綠さんを応援しています。

http://ja.Wikipedia.org/wiki/柳家吉綠
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成田山の追儺式に行きました。

2022-02-04 00:42:36 | 日記

今日は、節分です。

節分は、元々は、春夏秋冬の気候の移り変わり目(立つ日)毎にあったのですが、何時からか、立つ日だけが四つ残り、節分は春だけになりました。

(ちなみに、立つ日の前の18日間を「土用」と言って、土に関わることをしないとして来ましたが、現在では立秋の前の土用だけが残り、「鰻を食べる」となったいます)

古くは、立春から新しい年が始まるとされていたので、節分は年末の大晦日に当たります。

そこで、1年の難を払い(追儺)、新たな年の福を願うということで、追儺式イコール豆まきが行われたのです。

朝一番に、玄関の外側に、柊・豆殻・鰯の頭を飾りました。

朝食の後、今日は、一人吟行を兼ねて、成田山に行きました。

例年ですと、本堂の前に舞台が作られて、相撲取りや芸能人が沢山並び、福豆も蒔かれるのですが、今年は舞台も福豆も無しとのことでした。

11時過ぎに成田駅に着き、参道を行くと、猿回しをやっていました。
猿回しも年末の季語です。
しばらく名演技を見て、境内に着くと、第1回目の豆まきが終わったところでした。
海老蔵が来ていたようです。

まずは、本堂にお参りし、梅を期待して裏の公園を散策しながら、句を詠みました。

梅は、まだまだでしたが、うららかな日和で、浮見堂も雰囲気があり、何句か出来ました。

昼食代わりに、茶店で甘酒を飲みましたが、大変美味しいものでした。
広告の裏紙に手書きで書かれた注文票は、印象的でした。

梅林には、芭蕉の句碑「丈六に陽炎高し石の上」がありました。
江戸時代の下総では、流山にしばしば一茶が来て、俳句を指導していますが、成田・成東・東金辺りでは、蕉門の俳句が盛んだったようです。(芭蕉は、鹿島神宮に参拝した際に、行徳・八幡・木下などを通っているが、その他には、下総に足跡は無いようです。しかし、蕉門の俳人が沢山いたため、県内各地に芭蕉句碑が建立されたようです。)

第二回目の追儺式が、13時30分から始まりました。

若手の僧侶数名が吹く法螺貝に先導されて、高安と栃乃花の二人の力士、インド・ネパール・タイの駐日大使館関係者、参加費を払った一般人が参道から本堂に入って、追儺の護摩焚きが行われた後、本堂の回廊に並び、豆まきが行われました。

成田山では、鬼でさえ改心させることが出来るとして、「鬼は外」は言わず、「福は内」だけを唱えました。

家に帰ってから、夕方、我が家の豆まきをしましたが、「福は内、鬼は外」と唱えました。

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私は、千葉県東金市出身の落語家、柳家吉綠さんを応援しています。

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