笛吹き朗人のブログ

器楽は苦手でしたがサラリーマンを終えた65歳から篠笛を習っています。篠笛を中心に日々のリタイア生活を紹介します。

吉田松陰について(「花燃え」を見る参考に)

2015-01-06 22:01:18 | 日記
 このメモは、今から10年くらい前に、幕末・維新のことを勉強している際に、大学の同窓会紙に投稿したものです。

 今回、NHKの大河ドラマで吉田松陰ゆかりの話が取り上げられるというので、ご参考までに、ブログに転載します。(一部修正あり)





 明治維新を学ぶにあたり、私は通史をベースにしつつ、人物に着目してみようと思った。最初に「明治維新の思想的背景」となる人はだれかな?と考えみた。

 坂本龍馬、西郷隆盛、高杉晋作など様々な人が上げられるが、その先にあるのは「吉田松陰かな?」という思いに至った。
そこで、吉田松陰に係る様々なものを読んで見て、それまでの松陰像を大きく変えることとなった。

 通常言われているのは、「松下村塾で、木戸孝允、高杉晋作を初め久坂玄瑞、伊藤博文など多くの維新の英雄を育てた教育者」とされている。
僅か1年ばかり松下村塾で教えた中から多くの明治維新の志士が輩出したと言うことは、教育者として極めて影響力が有ったのだと思う。

 しかし、私は松陰の本質は家職の「兵学師範」としての兵法家であると思うし、その行動の若さぶりも面白いと思った。
 各地の兵法学者を訪ねては本を借りて読み、議論をし、現地を見ると言う勉強法は今に言う「現地・現物・現実」主義で、極めて実践的なものである。(当時は、印刷技術などの関係で、本を読むには、原本または書写した本のあるところに行かなくてはならない。松陰の旅の多くは、この書物を求めてである)

 松陰は、3度罪を得ている。

 1回目は、江戸に留学した時期のこと、しきりに押し寄せる外国船(軍艦)に対し、各地の海防はどうなっているかを自分の目で確かめようと、東北(水戸、白河、会津若松、新発田、新潟、佐渡、秋田、弘前、小泊、今別、平舘、青森,小湊など約3ヶ月半)を視察に出かけた際、同行の友人との出発日をまもるため藩の正式許可を得ないまま江戸を離れたことにより、江戸に戻るや国許に送り返され、士籍を削除された。
ーーーなお、この際、水戸には1か月間滞在し、会沢精子斎に彼の著書「新論」(世界の情勢と海防の必要性を説いた本)を借り、彼とも議論をしたことで、水戸藩の「尊王攘夷」思想の影響を強く受けたといわれている。

 2回目は、その後、藩主に彼の才能を見越して許され、十箇年間の諸国遊学の許可を得て江戸に戻り、佐久間象山に師事していたときのことである。
 時あたかも2度目に来航したペリーの黒船に接し、「このような巨大な船を作る国からこの国を守るには、相手の国に行き、その技術を身につけて帰り、取り組むしかない」と考えた。
 ペリーが幕府が示した開港予定地の下田に居るのを追っかけて、夜陰に乗じて小船で近づき「連れて行ってくれ」と頼んだが、幕府とのトラブルを恐れたペリー側から追い返され、捉えられた上で萩に帰され、獄に入れられたものである。(この時、獄の中で囚人に学問を教え、また出獄後は、叔父の後をついで、松下村塾で教えるようになった)

 3回目は、井伊直弼が朝廷の許可無くハリスと日米通商条約を結ぶとともに安政の大獄を進めたことに対し水戸藩の反井伊の動きが伝わると、すでに、僧・黙霖の影響で「統幕攘夷」の考えになっていた松陰は、「水戸が井伊を打つなら、我々は間部を打とう」として、京都の鎮圧に上ろうとしていた老中・間部氏の暗殺を企て、武器の貸与を藩政府に願い出たが、逆に獄に入れられた。
 時あたかも、幕府から藩へ「松陰を取り調べる必要が出た」との命令があり、江戸に送られた。評定所での取調べにあたり、幕府が考えていたこと<梅田雲品と謀をしたのではないか? 宮廷に倒幕の落し紙をしたのではないか?>が自分の予想と違ったことから、「いや、自分はそんなことではなく、もっと大きなことをやろうとしていたんだ」とばかりに、自分の考えと目論見をありのままに自白したため、30歳にして小伝馬町の牢で処刑され、小塚原の露と消えた。

 その処刑の前日、親への遺書とは別に、「身はたとひ、武蔵野の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」の書き出しで自分の思いを「留魂録」の名のもとに書き残した。それをまわし読みした教え子達は、幕府への怒りを強め、倒幕の思いを強めたことだろう。(ちなみに、用心深い松陰は「留魂録」を2通つくり、1通は長州藩士に渡ったが、もう1通は牢名主に託した。明治になってから、解放されたこの人が旧長州藩士の政府役人に届けた。前者はその後は行方不明になり、現在残っているのは後者である)

 万巻の書物を読み、議論好きな一方で、日本各地を自らの目で見てまわり、禁を犯してでも外国に行ってみようとする行動力がある一面で、それぞれの<大計画>はあまりに杜撰であり、「若さ」を感じる。

 なお、「松陰」という号は、京都3条大橋に御所に向かって伏す銅像がある高山彦九郎を崇拝するようになった時期から、高山の戒名をとって名乗ったそうである
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