安政5年(1858)8月の改印がある「江戸百」98景、
「両国花火」(りょうごくはなび)。
隅田川での船遊びは、諸国の大名が始めたもので、夏の夜、
涼を求めるためとはいえ、その内容は時代とともにエスカレート
していき、また、それが町人にも浸透していく。屋形船を一日
チャーターするだけでも、最低クラスで5両(30万円ほど)
かかるのである。其角がその思いを句に詠んでいる。
「一両が花火間もなき光かな」
両国の川開きに花火が上がったのは、享保18年(1733)
5月28日。その前年、日本全国で米の凶作やコレラの流行で
大飢饉が起こり、多くの死者を出した。そのため、八代将軍・
吉宗が慰霊と病退散を祈り、水神祭を行った。
その祭りに両国橋辺りの船屋や料理屋が、幕府の許しを得て
花火をあげた。これ以降、川開きには花火がつきものとなった。
当時の花火師は、鍵屋弥兵衛。“かぎやー”のかけ声は、
花火師の屋号だったのである。この後、鍵屋から分家した
玉屋も出てくる。しかし、鍵屋は1843年、花火で大火事を
起こし、江戸追放となってしまった。
絵は、空に“ポカ物”と呼ばれる花火の大輪が描かれている。
江戸の頃は、現在の花火と違い多色ではない。轟音と共に
打ち上げられる勇壮な光景と、その音と、そしてはかなく
消えていく哀れさを、わび・さびとして感じとったのだろう。
広重のこの絵は、見事、その心情が現れていると思う。
(台東区柳橋1丁目1番地辺り)
「両国花火」(りょうごくはなび)。
隅田川での船遊びは、諸国の大名が始めたもので、夏の夜、
涼を求めるためとはいえ、その内容は時代とともにエスカレート
していき、また、それが町人にも浸透していく。屋形船を一日
チャーターするだけでも、最低クラスで5両(30万円ほど)
かかるのである。其角がその思いを句に詠んでいる。
「一両が花火間もなき光かな」
両国の川開きに花火が上がったのは、享保18年(1733)
5月28日。その前年、日本全国で米の凶作やコレラの流行で
大飢饉が起こり、多くの死者を出した。そのため、八代将軍・
吉宗が慰霊と病退散を祈り、水神祭を行った。
その祭りに両国橋辺りの船屋や料理屋が、幕府の許しを得て
花火をあげた。これ以降、川開きには花火がつきものとなった。
当時の花火師は、鍵屋弥兵衛。“かぎやー”のかけ声は、
花火師の屋号だったのである。この後、鍵屋から分家した
玉屋も出てくる。しかし、鍵屋は1843年、花火で大火事を
起こし、江戸追放となってしまった。
絵は、空に“ポカ物”と呼ばれる花火の大輪が描かれている。
江戸の頃は、現在の花火と違い多色ではない。轟音と共に
打ち上げられる勇壮な光景と、その音と、そしてはかなく
消えていく哀れさを、わび・さびとして感じとったのだろう。
広重のこの絵は、見事、その心情が現れていると思う。
(台東区柳橋1丁目1番地辺り)