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田中利典師の『修験道という生き方』新潮選書(6)/あきらめることが、悟りに通じる

2022年10月29日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は、ご自身のFacebookに、新潮選書『修験道という生き方』(宮城泰年氏・ 内山節氏との共著)のうち、利典師の発言部分をご自身で加筆修正されたものを〈シリーズ『修験道という生き方』〉のタイトルで連載されている。心に響くとてもいいお話なので、私はこれを追っかけて拙ブログで紹介している。
※トップ写真は、般若寺(奈良市般若寺町)のコスモス(2022.10.5 撮影)

第6回の今回のお話は「あきらめる…」。修験道は「体を使って心をおさめる」宗教だといわれる。山伏修行で体を酷使して8時間、10時間、12時間と歩いていると、頭がからっぽになって、文句も愚痴もすべてのことをうち捨てる、あきらめるしかないという境地になる。仏教の最高真理のことを真諦(しんたい)と言うが、悟りというものは「あきらめる(諦める)」ことから生じるのではないだろうか…。では全文を師のFacebook(10/9付)から抜粋する。

シリーズ『修験道という生き方』⑥「あきらめる…」
私は宮城猊下のように山が格別に好きだというわけではないですから、山伏修行をするときも、半分くらいはいわば、嫌々で行っているんですよ。山伏修行はほんまにつらいですからね。

そんな不遜な気持ちで山に入ると、最初の二時間くらいは我慢我慢で歩いているのですけれどね、それが八時間も十時間も超えると、もうすべてをあきらめるしかない、捨て去るしかないという境地になる。奥駈修行のときなどは一日に十一時間から十二時間も歩きますからね。歩かなければ今日の宿には着かない。

いろいろと頭に浮かぶこと、考えることもあきらめ、文句も愚痴もすべてのことをうち捨てるという、あきらめ。あきらめて、あきらめて、あきらめ尽くして歩いている状態を、一年に何回か経験するわけです。山の修行のすごさはじつはそこにあるように思います。

「何でこんなことしているのだろうか」と、そんなことなどを思っている間はまあいろいろとつらいのですが、あきらめる以外なくなってくると、苦痛さえもとれてくる。

いろんなことをあきらめられないのが私たち人間。仏教がいうところの凡夫なのでしょうけれど、凡夫だからゆえにいろいろな苦痛が襲ってくる。

あきらめるというのは、漢字で書くと「諦める」とも書きますよね。真諦(ものの真理)という、ものの本質を見極めることが本来の「諦める」ことなんですが、もしも悟りというものがあるとすれば、それはあきらめることから生じてくるのではないでしょうか。

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哲学者内山節先生、聖護院門跡宮城泰年猊下と、私との共著『修験道という生き方』(新潮選書)は3年前に上梓されました。ご好評いただいている?著作振り返りシリーズは、今回、本書で私がお話ししている、その一節の文章をもとに、加筆修正して掲載しています。
私の発言にお二人の巨匠がどういう反応をなさって論議が深まっていったかについては、是非、本著『修験道という生き方』をお読みいただければと思います。
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