産経新聞奈良版・三重版などに好評連載中の「なら再発見」、今回(12/7付)の見出しは「伊勢斎王ゆかりの地 古代の風を肌で感じて」、執筆者はNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」の辰馬真知子さんである。執筆陣では唯一の女性であり、原稿のチェック(校閲)も担当していただいている。
「伊勢斎王」は、一般に「斎宮」として知られている。Wikipedia「斎王」によると《斎王(さいおう)または斎皇女(いつきのみこ)は、伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王または女王(親王の娘。(中略) 伊勢神宮の斎王を斎宮、賀茂神社の斎王を斎院とも称し、斎宮は古代(天武朝)から南北朝時代まで、斎院は平安時代から鎌倉時代まで継続した》。では、記事全文を紹介する。
今年は伊勢神宮の式年遷宮に沸いた一年だった。
伊勢神宮と奈良の関係は深い。ご祭神の天照大神は、もと宮中でお祭りされていたのを第10代崇神(すじん)天皇の時代、倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)にお遷しした後、現在の伊勢の地に落ち着かれた。その途中に立ち寄られた場所を「元伊勢」と呼び、奈良県だけでなく各地に点在する。
※ ※ ※
7世紀の壬申(じんしん)の乱で、天武天皇は伊勢の方を向いて天照大神を拝み、戦を制した。以来、国をあげて伊勢神宮をお祭りすることになった。
朝廷を代表して伊勢の地で祭祀(さいし)を行ったのは斎王(さいおう)という未婚の女性皇族だった。正式な制度となった最初の斎王は大来(おおく)皇女。天武天皇の娘で、悲劇の皇子、大津皇子の実姉だった。
「日本書紀」には天武2年、大来皇女が泊瀬斎宮(はせいつきのみや)に入り、約1年半の間、そこで精進潔斎(けっさい)した後、伊勢に旅立ったとある。
泊瀬斎宮と伝わる場所のひとつが、長谷寺(桜井市)から泊瀬川を山に約5キロ入ったところにある小夫(おおぶ)天神社だ。天照大神を祭り、倭笠縫邑の伝承地でもある。
斎宮山の麓に鎮座し、美しく掃き清められた境内には、5世紀末の顕宗(けんそう)天皇の記録にも記されている、樹齢1500年といわれる巨大なケヤキの木が堂々とそびえ立ち、悠久の時を見守っている。
この神社からほど近い修理(しゅり)枝の集落に、大来皇女がみそぎをしたと伝わる岩瀬「化粧壷(つぼ)」がある。今は田畑に囲まれているが、化粧川のせせらぎのわずかな岩淵に神々しいたたずまいをみせ、清らかな皇女の面影を今に伝える。
斎王の務めは天皇の在位中ずっと続き、大来皇女は約13年もの間、都から遠く離れた伊勢の地で過ごした。大来が任を解かれて都に帰ってきたのは、最愛の弟、大津が謀反の罪で処刑されたひと月後だった。
奈良時代の斎王だった井上(いがみ)内親王は後に皇后となるが、皇太子とともに幽閉され、失望のうちに生涯を閉じた。任を解かれての帰京は希望に満ちたものであっただろうに。
※ ※ ※
天理市森本町の森神社。国道沿いにありながら、今でも森閑とした空気に包まれている。古い由緒をもつこの社の境内地を菩提仙(ぼだいせん)川が流れる。
その清流に沿って鎮座する境内社姫大神(ひめおおかみ)社は、平安時代の作法書によると、解任された伊勢の斎王が帰京前、名張、都祁(つげ)に続き禊(みそぎ)をした場所であるという。
都が京都に遷るまで、いつの時代からここが斎王の禊場になっていたのかは不明だが、ケヤキの古木がうっそうと茂る姫大神社の禊場に下りてみると、斎王たちがどんな気持ちで都に戻ってきたのだろうかと、胸に迫るものがある。
さまざまな時代の斎王に思いをはせて、古代の風を肌で感じることができる場所である。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 辰馬真知子)
女性ならではの感性で、伊勢斎王を紹介されている。斎王としてよく知られているのは、本文中にあった大来皇女や井上内親王だが、どちらも不遇の生涯だったので、「伊勢斎王」には悲しみのイメージがつきまとう。あとは『伊勢物語』第69段。伊勢の国での業平と伊勢斎王との一夜のロマンス。このエピソードのために、『伊勢物語』という名前がついたという有名な話である。
その「伊勢斎王」ゆかりの地が県下にこんなにあるとは、初めて知った。ぜひ訪ねてみたいと思う。辰馬さん、良いお話を有難うございました!
「伊勢斎王」は、一般に「斎宮」として知られている。Wikipedia「斎王」によると《斎王(さいおう)または斎皇女(いつきのみこ)は、伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王または女王(親王の娘。(中略) 伊勢神宮の斎王を斎宮、賀茂神社の斎王を斎院とも称し、斎宮は古代(天武朝)から南北朝時代まで、斎院は平安時代から鎌倉時代まで継続した》。では、記事全文を紹介する。
今年は伊勢神宮の式年遷宮に沸いた一年だった。
伊勢神宮と奈良の関係は深い。ご祭神の天照大神は、もと宮中でお祭りされていたのを第10代崇神(すじん)天皇の時代、倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)にお遷しした後、現在の伊勢の地に落ち着かれた。その途中に立ち寄られた場所を「元伊勢」と呼び、奈良県だけでなく各地に点在する。
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7世紀の壬申(じんしん)の乱で、天武天皇は伊勢の方を向いて天照大神を拝み、戦を制した。以来、国をあげて伊勢神宮をお祭りすることになった。
朝廷を代表して伊勢の地で祭祀(さいし)を行ったのは斎王(さいおう)という未婚の女性皇族だった。正式な制度となった最初の斎王は大来(おおく)皇女。天武天皇の娘で、悲劇の皇子、大津皇子の実姉だった。
「日本書紀」には天武2年、大来皇女が泊瀬斎宮(はせいつきのみや)に入り、約1年半の間、そこで精進潔斎(けっさい)した後、伊勢に旅立ったとある。
泊瀬斎宮と伝わる場所のひとつが、長谷寺(桜井市)から泊瀬川を山に約5キロ入ったところにある小夫(おおぶ)天神社だ。天照大神を祭り、倭笠縫邑の伝承地でもある。
斎宮山の麓に鎮座し、美しく掃き清められた境内には、5世紀末の顕宗(けんそう)天皇の記録にも記されている、樹齢1500年といわれる巨大なケヤキの木が堂々とそびえ立ち、悠久の時を見守っている。
この神社からほど近い修理(しゅり)枝の集落に、大来皇女がみそぎをしたと伝わる岩瀬「化粧壷(つぼ)」がある。今は田畑に囲まれているが、化粧川のせせらぎのわずかな岩淵に神々しいたたずまいをみせ、清らかな皇女の面影を今に伝える。
斎王の務めは天皇の在位中ずっと続き、大来皇女は約13年もの間、都から遠く離れた伊勢の地で過ごした。大来が任を解かれて都に帰ってきたのは、最愛の弟、大津が謀反の罪で処刑されたひと月後だった。
奈良時代の斎王だった井上(いがみ)内親王は後に皇后となるが、皇太子とともに幽閉され、失望のうちに生涯を閉じた。任を解かれての帰京は希望に満ちたものであっただろうに。
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天理市森本町の森神社。国道沿いにありながら、今でも森閑とした空気に包まれている。古い由緒をもつこの社の境内地を菩提仙(ぼだいせん)川が流れる。
その清流に沿って鎮座する境内社姫大神(ひめおおかみ)社は、平安時代の作法書によると、解任された伊勢の斎王が帰京前、名張、都祁(つげ)に続き禊(みそぎ)をした場所であるという。
都が京都に遷るまで、いつの時代からここが斎王の禊場になっていたのかは不明だが、ケヤキの古木がうっそうと茂る姫大神社の禊場に下りてみると、斎王たちがどんな気持ちで都に戻ってきたのだろうかと、胸に迫るものがある。
さまざまな時代の斎王に思いをはせて、古代の風を肌で感じることができる場所である。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 辰馬真知子)
女性ならではの感性で、伊勢斎王を紹介されている。斎王としてよく知られているのは、本文中にあった大来皇女や井上内親王だが、どちらも不遇の生涯だったので、「伊勢斎王」には悲しみのイメージがつきまとう。あとは『伊勢物語』第69段。伊勢の国での業平と伊勢斎王との一夜のロマンス。このエピソードのために、『伊勢物語』という名前がついたという有名な話である。
その「伊勢斎王」ゆかりの地が県下にこんなにあるとは、初めて知った。ぜひ訪ねてみたいと思う。辰馬さん、良いお話を有難うございました!
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