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纏向古墳群

2009年02月13日 | 奈良検定
2/11(水)、纏向(まきむく)古墳群を訪ねた。この周辺地域が「纏向遺跡」である。当ブログで以前にも紹介したことがある。掲載直後の奈良検定2級にこの遺跡のことが出題され「おかげて1点助かった」と喜んでいただいた。
※前代未聞の纏向遺跡(当ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/a8cebb76d8546fd12f89fc530c78d47e

纏向遺跡は、奈良検定公式テキスト(P256)によると《三輪山の北西に位置する纏向遺跡は東西2キロも南北1.5キロに及ぶ3、4世紀の遺跡である》《墳墓としては方形周溝墓、木棺・土器棺墓のほか遺跡内所在の纏向古墳群・箸墓古墳の存在も重要である》《遺跡の規模と内容から大和政権成立時の宮都の可能性が高く、考古学的に古代国家の出現過程を最もよく示す遺跡として重要である》《なお一部では邪馬台国説もある》。すごい遺跡なのだ。

最近は学術調査も始まった。《「卑弥呼の邪馬台国」求め―来月から本格発掘》との見出しのついた毎日新聞の記事(1/31付)によると、《奈良県桜井市教委は30日、ヤマト王権の本拠地で、女王・卑弥呼がおさめたとされる邪馬台国の最有力候補地、同市の纒向(まきむく)遺跡(2世紀末~4世紀初め)について、来月から中枢部を本格的に発掘調査すると発表した。集落部分の学術調査は初めて。71年以来160回の調査をしたが、開発に伴う小規模なものが多く、総調査面積は遺跡全体の約5%だ。市は今年度400万円の調査費を確保。「幻の邪馬台国」の手がかりは果たして見つかるのか--》。

《卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳(全長約280メートル)をはじめ、前方後円墳が誕生した場所で、九州から関東まで各地の土器が持ち込まれていたことなどから、邪馬台国やヤマト王権との関係が取りざたされてきた。従来は場所を特定しやすい古墳の調査を優先してきたが、史跡指定に一定のめどが立ち、集落部分の解明に踏み出すことになった》。

《今年度は、78年度の調査で神殿風の特殊な建物跡が見つかったJR巻向駅近くの空き地約450平方メートルを2カ月かけて調査。見つかっていない中心建物の発見を目指し、規模や構造を明らかにする。調査地周辺の約1100メートル四方は方形の地割りが残る高台。付近から祭祀(さいし)に使われたとみられる土器を納めた土坑が多数確認された。この建物周辺が一定期間、遺跡の中心だった可能性が高いとされる。谷奥昭弘市長は「卑弥呼の国・邪馬台国の実体をつかみたい」と意気込み、寺澤薫・県立橿原考古学研究所総務企画部長は「卑弥呼は纒向にいたと考えられる。建物は祭祀の場で、調査地の東側は居館もあったかもしれない」と期待を寄せる》。
http://mainichi.jp/kansai/news/20090131ddn012040042000c.html


纏向矢塚古墳(冒頭の写真とも)

さて、私が訪ねたのは、今回の発掘現場からは少し外れた4つの古墳群である。纏向古墳群と総称される4つの古墳は、纏向石塚、纏向矢塚、東田大塚、勝山である。奈良検定対策としては「石矢で大勝」と覚えれば良い。テキストには《箸墓古墳に始まる大型前方後円墳よりさらに時期的に古いものと考えられる》とある。

これら4つの古墳を私がたどった順に紹介することにしたい。古墳の説明は、桜井市観光情報サイトから引用する。
http://www2.wagamachi-guide.com/sakurai/ListIseki.asp

まずは東田大塚古墳である。《全長約96mの纒向型の前方後円墳である。後円部は現在畑地化しているが、本来は3段の段築があったようである。周濠は幅20mのものが確認されている》。墳丘がよく残り、とてもきれいな形をしている。《発掘調査により3世紀後半の築造であることが確認されている。また、以前にこの古墳から石製の机が出土したとの伝えがある》。


東田大塚古墳

次は纏向石塚古墳。《纒向型前方後円墳は、箸墓等の前方後円墳が定型化される以前のものとされ、極端に前方部が低く、全長:後円部径:前方部長の比率が3:2:1の比率をもつ事が特徴とされている》《最古の土師器を出土する纒向型前方後円墳の典型と考えられるようになった全長96mの前方後円墳であり、3世紀初頭の築造とする考えと、3世紀後半の築造とする考えがある。なお、出土した桧板の年輪からみた年代は、西暦177年+αである》。ここで古墳巡りの一団に出くわした。纏向古墳群はすべて回ったようで、箸墓をめざして歩き始めていた。


纏向石塚古墳

勝山古墳は《東向きで、全長約110m、後円部高さ約7mの古墳時代初頭の前方後円墳である。周囲には築造時の濠の痕跡を残す「勝山池」が存在している》。勝山池は、今は水を抜かれていた。《池の改修に伴う発掘調査では、幅約25mの周濠が確認され、中からは木製品や土器などが多量に出土している。出土土器より3世紀前半の築造と考えられている》。


勝山古墳

纏向矢塚古墳の周辺では、発掘調査が行われていた。纏向遺跡の本格調査に伴うものであろうか。冒頭の写真で見学されている方は、「ふたかみ史遊会」(二上山博物館)の一行である。私同様、桜井市江包(えっつみ)・大西のお綱(つな)祭りを見物した後、こちらに回られたようだ。


纏向矢塚古墳(以下同様)



《西面する全長約96m、高さ約5mの古墳時代前期の前方後円墳で、墳丘の築造規格が纒向石塚・纒向勝山・東田大塚・ホケノ山などの古墳と同じ規格を持つ纒向型前方後円墳の一つと考えられている》《周濠部の発掘調査では幅23mの濠が確認され、中からは多くの土器が出土している。埋葬施設は未調査のため詳細は不明》。





今は古墳ブームなのだろうか、短い時間のうちにたくさんの人とすれ違った。講師つきの団体ツアーだけでなく、個人で回っている人も多い。「纏向発掘」のニュースを見て来られたのだろうか。

桜井市民から「市内にはたくさんの史跡があるが、残念ながらほとんどが土の下に眠っている」という話を聞いたことがある。確かに、桜井市観光情報サイトに掲載された「遺跡・文化財」は55件もあるが、寺跡や廃寺などが目立つ。逆にいえば、それだけ歴史が古いのである。

55件の遺跡・文化財は、奈良検定テキストでもおなじみの重要なものが多いので、これからじっくり見て回ることにしたい。
http://www2.wagamachi-guide.com/sakurai/ListIseki.asp

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2 コメント

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纏向型 (tetsuda)
2009-02-14 11:45:29
畳薦さん、コメント有難うございました。

> 私が見学した時は見学者などはいませんでした。表示がなければ唯のこぶ、
> 観光資源化するにはもっとアトラクとするものがいる。カルチャーツーリズム
> の対象には成るけれども・・・・巻向型の復元は一つぐらいはして欲しい。

馬見丘陵公園では古墳が復原され、現代に住む私たちでも古代の墳墓がどのようなものだったのか、よく理解することができます。

纏向遺跡には箸墓がありますが、近寄ることすらできません。前方部の短い「纏向型前方後円墳」の1つくらいは復原して、草創期の古墳がどういうものか、見せていただきたいものですね。
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草創期古墳 (畳薦)
2009-02-14 07:48:45
 ここは例によって原付で巡りました。夏場であったので草木がもっと繁茂していて・・・・古墳の形も定かではなかった。しかしながら今考えれば、草創期前方後円墳とすればあきらかに平地に立地しているのが
前期の古墳とは違う所か。
 私が見学した時は見学者などはいませんでした。表示がなければ唯のこぶ、観光資源化するにはもっとアトラクとするものがいる。カルチャーツーリズムの対象には成るけれども・・・・巻向型の復元は一つぐらいはして欲しい。
返信する

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