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どちらの祇園さん? 牛頭天王(ごずてんのう)と素戔嗚命(スサノオノミコト)信仰

2011年07月20日 | 奈良にこだわる
当ブログ7/14付の「津島神社の祇園祭」は、ご覧になった方から、いろんな反響の声をいただいた。「奈良県に祇園祭があるって、初めて知った」「やっぱり夏は、祇園祭やね。ぜひ田原本の津島神社へ行こう」等々。
※写真はすべて7/17(日)、津島神社とその周辺で撮影

しかしそのなかで「祇園祭って、祇園神社(祇園社)とか八坂神社のもんやないの? なんで津島神社で祇園祭なん?」という疑問の声もいただいた。これは良い質問である。なので「そうなんや!」と納得していただけるよう、以下に解説することにしたい。まず、田原本町(奈良県磯城郡)の津島神社境内の由緒書き(町の制作)によると

祭神 素戔嗚命(すさのおのみこと)・櫛名田姫命(くしなだひめのみこと=素戔嗚命の妻) 由緒 神仏分離以前には祇園社という。江戸時代には領主平野家の尊崇をあつめ、平野家の本貫地 尾張国津島にあった津島社も祭神を牛頭(ごず)天王とするため、明治2年社名を津島神社と改めた。(中略) 毎年7月には、疫病退散と五穀豊穣を祈願して、江戸時代から続く祇園祭が、盛大におこなわれる。

これだと、もとのご祭神は牛頭天王で、いつの間にか素戔嗚命に変更されたように読める。また『日本歴史地名大系』「津島神社」([現]田原本町祇園町)によると、

旧村社。祭神は素盞嗚(すさのお)命・誉田別(ほんだわけ)命・武甕槌(たけみかづち)命・経津主(ふつぬし)命・天児屋根(あめのこやね)命・比売(ひめ)大神。当社の棟札写(田原本藩日記)に「天治二年巳年九月十五日建之」とある。もと祇園社と称した。

近世初期に平野長泰が入封した際、郷里尾張の津島神社(現愛知県津島市)と祭神を一にすることにより崇敬した。延享三年(一七四六)の寺院本末帳(内閣文庫蔵)は境内の黄檗宗神(じんぐう)寺を記し、神宮寺は感身(かんじん)院とも称していたが、明治の神仏分離で廃され、現社名に改めたという。七月一七日から三日間、祇園祭が行われ、田原本町の各町内には立山が設けられる。かつては境内の浄瑠璃舎で浄瑠璃が奉納されていた。


つまり、祇園社(田原本町)の祭神「素戔嗚命」と津島神社(愛知県)の祭神「牛頭天王」は同一視されている(習合している)ので明治2年、田原本の祇園社の名前を津島神社に改めた、というのである。これには明治維新が関係している。天皇を中心とした国家体制ができたことで「天王」の名(「天皇」に通じ畏れ多い)をはばかってご祭神を牛頭天王から「素戔嗚命」に変更し、社名も津島神社に改称した(「祇園社」のままだと、ご祭神が牛頭天王と誤解されるから)というものである。しかしお祭りの名前だけは「祇園まつり」のまま残された。



手元の『神社参拝ポケット図鑑』(主婦の友社刊)の「神様の系統と信仰」の章には、「牛頭天王(ごずてんのう)信仰」(祇園信仰)が紹介されている。《牛頭天王はもとはインドの神様だったが、日本に渡来して後、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と同一視されるようになった。疫病、災厄除けにすこぶるご利益のある神様で、京都の八坂神社が総本社。やはりこの信仰で有名な愛知の津島神社と合わせ、両方で約5,600の分社を持っている》。

これは短いが端的な説明である。つまり、祇園信仰とは、牛頭天王信仰であり、素戔嗚尊信仰なのである。Wikipedia「牛頭天王」によると、京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座する神》《インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、祇園神という祇園信仰の神である》《神仏習合では薬師如来の垂迹であるとともに、スサノオの本地とされた。現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた》。



祇園信仰(牛頭天王信仰)には、3つの流れがある。Wikipedia「祇園信仰」から引用すると、
Ⅰ.《京都祇園の八坂神社と本社とする場合は、八坂神社(八阪神社)、弥栄神社、祇園神社、素盞嗚神社(素戔嗚神社)、感神社》。
Ⅱ.《播磨の広峯神社を本社とする場合は、広峯神社(広峰神社)》。
Ⅲ.《愛知の津島神社を本社とする場合は、津島神社、天王神社と称する傾向にある。ただし、例外も多く、強く体系化されているわけではない。津島神社は津島信仰として祇園信仰の中でも独自の位置づけにある。このほか、氷川神社や熊野神社もスサノオを祭神とするが、祇園信仰との関連は非常に薄く、出雲の須佐神社も祇園信仰との関わりは薄い》。

なお《牛頭天王は元々は仏教的な陰陽道の神で、一般的には祇園精舎の守護神とされる。簠簋(ほき)内伝の記述が著名である。中国で道教の影響を受け、日本ではさらに神道の神であるスサノオと習合した。これは牛頭天王もスサノオも行疫神(疫病をはやらせる神)とされていたためである》。



ちなみにWikipedia「津島信仰」も紹介しておく。《津島信仰(つしましんこう)とは、愛知県津島市にある津島神社を中心として東海地方を中心に分布する神道の信仰である。スサノオ・牛頭天王に対する信仰であり、祇園信仰の一種ということになるが、津島信仰独得の信仰も見られる》。

《名古屋ではスサノオ・牛頭天王は「お天王さま」と呼ばれた。「津島代参講」と呼ばれる講が各地に作られ、講の代表者が津島神社に代参して神札を受け、講の構成員に配布した。時代が下ると、町内に津島神社を勧請して小祠を作るようになり、さらには、各戸の屋上に牛頭天王を勧請して祀る「屋根神様」の信仰が生まれた》。

愛知県の津島神社では、夏に「津島天王祭」(重要無形民俗文化財)というお祭りが行われるが「祇園祭」と称しているわけではないようだ。しかし田原本の津島神社は、もとは祇園社(京都祇園の八坂神社が本社)だったので、夏祭りも「祇園祭」と呼ぶのだ。

以前、当ブログの「田原本町は歴史のワンダーランド!」で紹介したように、津島神社のほか田原本町内には、鏡作(かがみつくり)神社や多(おお)神社などの著名な延喜式内社が鎮座し、また弥生時代の代表的遺跡である唐古・鍵遺跡(国の史跡)もある。ぜひ、いちどお訪ねいただきたい。

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2 コメント

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神社はトリビアがいっぱい! (Matty)
2011-07-20 16:49:25
先日の棚機神社・今日の祇園の謎解き、興味深く読みました、私も謎解き大好きですから。
話は逸れますが、京都の八坂神社の本殿に昇殿参拝させてもらったとき、丁寧に宮司さんが案内してくださり、祇園社について詳しく教えていただいたことがありました。明治までは円山公園も含めて感心院(仏教)祇園社(神道)が一緒にあって、全員が比叡山系の僧侶だったそうです。まるで興福寺・春日社のようですね。きっと神仏分離にあたっては、全員が神官(国家公務員)になられたのでしょうね。
祇園祭(すみません、京都版です)のトリビアをひとつ。現在は鴨川の納涼床は5月~9月ですが、本来は神輿洗い(7月10日 スサノヲの神輿だけ代表で四条大橋に行幸します)の時に鴨川の神様をお招きし、28日に川に再度お戻りいただくまでの間だけのものだったそうです。昔の人は神様を畏怖していたのですね。本来そうあるべきでしょうね、神社を知るといろんなことが見えてきて面白いですね。
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床(ゆか) (tetsuda)
2011-07-20 21:07:46
ソムリエ美酒部会長のMattyさん、コメント有り難うございました。

> 先日の棚機神社・今日の祇園の謎解き、興味
> 深く読みました、私も謎解き大好きですから。

面白いでしょう? 私もどんどん引き込まれます。また、ネタを探しておきます。

> 現在は鴨川の納涼床は5月~9月ですが、本来は神輿洗い(7月10日
> スサノヲの神輿だけ代表で四条大橋に行幸します)の時に鴨川の神様をお招き
> し、28日に川に再度お戻りいただくまでの間だけのものだったそうです。

そうでしたか。床(ゆか)が5月から始まるのは、おそらくここ10年くらいのことだと思いますが、こんな背景があったのですね、勉強になりました。

なお、よく鴨川の「川床(かわゆか)」「床(ゆか)」を、「かわどこ」「とこ」と読んだり、「山鉾(やまほこ=山&鉾)」のことを「やまぼこ」と読んだり、「大文字送り火」を「大文字焼き」という人がいますが、これはやめてほしいですね、京都の人に失礼です
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