てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

タワー狂想曲(2)

2010年04月04日 | その他の随想

太陽の塔(2008年12月20日撮影)

 塔といえば、まったく同じときに同じところに誕生して、その後は対照的ななりゆきをたどった二つの塔がある。1970年、大阪千里の万博会場に忽然と姿をあらわした「太陽の塔」と「エキスポタワー」がそれだ。

 太陽の塔は、建設されてから現在に至るまで、人の口にのぼることが絶えなかった存在である。万博当時、その両側に「青春の塔」と「母の塔」が寄り添うように建っていたことを知らない人でも、太陽の塔のことなら必ずといっていいほど知っている(母の塔は、“塔”と呼ぶには無理があるような低い建物だったが)。

 と、まるで見てきたことのように書いてしまったけれど、ぼくは万博の翌年に生まれているので、実物に接したことはもちろんない。だが子供のころ、親が現地で買ったボロボロの公式ガイドブックが家にあった。ぼくはこれから開催される大イベントを待ち焦がれるような気持ちでパビリオンの紹介を丹念に読み、イラストを眺めてはつかの間の未来都市(その時点ですでに過去であったが)に思いを馳せたのである。

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 なかでも強烈な印象を残したのが、やはり太陽の塔であった。これだけは夢と希望にみちた未来のほうを向いていないで、万博という前代未聞のお祭り騒ぎを渋い顔で睨みすえていた。浮かれ気分に水をさすような造形をよくぞテーマパビリオンにしたものだと、ぼくは呆れもし感心もしたが、今ではそれが大阪万博を代表する遺産として永久保存され、人々に親しまれているのだから不思議なものである。

 万博が終わって40年が経ち、“夢の跡”どころかすっかり市民の憩いの場として生まれ変わった記念公園に、まるで巨大化した土偶か何かのように太陽の塔は聳えつづけている。天を支えるように伸ばされた両腕は、引力に反して作られたこの構造物の維持がいかに困難であるかを物語っているようだが、万博開催当時この手はシンボルゾーンを覆いつくす大屋根を支えていて、なおかつ人々を塔の内部から屋根へと導く経路の役割も果たしていた。屋根がすっかりなくなり、実質的な腕の機能も必要ではなくなった現在、太陽の塔は“万歳する途中”とでもいうような曖昧なポーズをとったまま千里丘陵に建ちつづけているのである。

 ただ、あのどこか憎めない渋面は、日本が高度経済成長の頂点から陥落した21世紀の今でも健在だ。いや、今だからこそ多くのことを語りかけてくれるかのようにも思われる。太陽の塔が見つめてきた激動の時代は、われわれが夢見たような明るい希望だけに満たされてはいなかったことを告げているのかもしれない。


東京青山の岡本太郎記念館で撮影した太陽の塔の模型(2007年11月17日撮影)

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