てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

さらば雅俗山荘(2)

2008年03月18日 | 美術随想
蕪村とその弟子(一)
  
与謝蕪村『暗夜漁舟図』(左) 呉春『秋夜擣衣図』(右)

 逸翁美術館の数あるコレクションのなかでも、与謝蕪村らに代表される俳画はその中核をなしているようだ。

 与謝蕪村の名前は子供のころから知ってはいたが、俳人だという認識しかなかった。「春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉」「菜の花や月は東に日は西に」といった句はあまりにも有名だからだ。たとえ蕪村が絵を描いていたにしても、せいぜい趣味とか余技の程度ではないか、ぐらいに考えていたのである。たしかに趣味といえば趣味だが、現代でいう“仕事”の対語としての“趣味”とはまったくニュアンスが異なることにすら、ぼくは気づいていなかった。

 逸翁美術館に収められた名品のいくつかを観て、なるほどこれが俳画というものかと、眼を開かれるような思いをしたものである。それはまさしく、墨の濃淡と線とで紡ぎ出された俳句であった。

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 実はぼくも12歳のころ、子供ながらに俳句を詠んでちょっとした新聞の投句欄に送り、幸運にも何度か採用されたことがある。もちろん子供の句だということわり書きが付いての掲載だったが、一茶の句を読んでこれからも作りつづけてほしい、などと選者に激励されたものだった。

 しかしそのときのぼくは、一句詠みたくなるような風流な生活をしていたわけではもちろんなく、鳥や花を愛でていたわけでもない。ひたすら頭を回転させて、乏しいボキャブラリーを総動員して十七文字にでっち上げていただけにすぎないのだ。こんなことが長つづきするはずもなく、次第に投句の回数は減り、やがて俳句そのものをすっかりやめてしまった。例の選者はがっかりしたか、それともしなかったか、ぼくには知りようがないけれど・・・。

 俳画に描き得るような情景をともなわず、まるで小説のワンシーンのような散文的な叙情をいくらひねり出したところで、それは俳句とは呼べないにちがいない。逸翁美術館で出会った、蕪村の素朴で味わいのある俳画は、ぼくにそんなことを教えてくれたのである。

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 雅俗山荘で開かれた最後の展覧会は、与謝蕪村と、彼の弟子である呉春(ごしゅん、またの名を松村月溪)の作品からなっていた。逸翁が収集したものだけで、これだけ豪華な師弟競演が実現できるのだから、やはりたいしたものである。

 蕪村の『暗夜漁舟図』は、なかでも好きな一幅だ。これは俳画というよりも、もっと丹念に描き込まれた水墨画というべきかもしれないが、船に乗るふたり連れの飄々とした顔つきは、やはり俳画の世界から抜け出してきた人物にちがいない。

 月も出ていない夜であろう。網を水面にひたし、腰には魚籠(びく)をぶら下げた漁師の男と、船尾で棹をあやつる少年らしい人影の間に、魚を焼く煙がもうもうと立ち昇る。その煙は岩に生えた木々にまで達し、あろうことか、闇に沈んだ梢を昼間のように照らすのである(上図)。

 よくよく観てみると船は岩の向こう側にあり、なおも奥に向かって漕ぎ進んでいこうとしているところなのに、そこから上がった煙が岩のうえにかかっているというのは、理屈で考えるとおかしい。しかしそんな理不尽さを差し置いて、この情景は一瞬のうちに心に染み入っていく。

 これが優れた俳画たる所以だ。俳画も、俳句も、ものごとを説明するものではないし、してはならないのである。

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 呉春の『秋夜擣衣図』。こちらはうってかわって、半月のかかる明るい夜である。画面のすみずみにまで、月の光が満ち足りているように感じられる。

 しかしそこに描かれているのは、ひとり寂しく砧を打つ女の姿だ(上図)。ぼくは実際に砧の音を聞いたことはないのだが、その音は静まりかえった月夜に響きわたり、遠くの山にまでこだましたのではないかと思える。直接には描かれていないものまで、表現のなかへと取り込んでしまう。まさに俳句のなせるわざでなくて、何であろうか。

 それにしてもこの二幅の軸は、まるで師匠と弟子の合作によって描かれた一対の絵のようだ。描かれた情景は対照的であるが、互いに響き合っているようにも感じられる。遠くからのかすかな砧の音を聞きつけて、船上の漁師がふと振り返ったところにも見えるのである。

 蕪村から呉春へと、俳諧の心得がしかと伝えられていた証しでもあるだろう。

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