テスラ研究家・新戸雅章の静かなる熱狂の日々

エジソンも好きなテスラ研究家がいろいろ勝手に語っています。

山野先生のこと

2018-08-02 23:33:31 | Weblog
 7月30日(月)、飯田橋のホテルメトロポリタンエドモンドで開催された「山野浩一さんを偲ぶ会」に出席してきました。
 ご逝去されてはや一年。SFの創作と評論、競馬の血統評論の両分野で多大な功績を残され、その影響は今もSF内外、競馬界に脈々と受け継がれています。SFでは、日本初のニューウェーブSF誌「NW=SF」を刊行し、伝説的なSF文庫として語り継がれる「サンリオSF文庫」の総監修者も務められました。「日本SFの原点と指向」で、SF界の重鎮をなで斬りしてみせ、SF評論の誕生を宣言されたことも鮮烈に記憶に残っています。
 亀和田武氏、川又千秋氏など、生前から先生と関係の深かった諸氏のあいさつを聞き、また久ぶりの再会となった志賀隆生と旧交を温めながら、あらためてその功績を思い起こさせていただきました。

 次の文章は当日刊行された追悼ファンジン「SFファンジン」に掲載した追悼文「山野先生のこと」を若干手直しして、再掲するものです。山野先生との出会いと、その後の薫陶はほぼ尽くされていると思います。少し長いですが、2回に分けて。

「山野先生のこと」

「新戸くんは小説書かなかったよね」
「いや、書けなかったんですよ」

 山野浩一先生に久しぶりにお目にかかり、そんな会話を交わしたのはたしか横浜で開催された「ワールドコン2007」のときだった。かつてスぺキュレイティブ・フィクションの創作をめざすNWワークショップに参加しながら、一作も書かずに去ったことをおっしゃられたのである。
 先生のひとことは、長い間心にひっかかっていたことを思い出させた。たしかにあの頃の私は、SF小説を書こうあがいていた。
 山野先生の主宰する「NWSF」のワークショップに初めて参加したのはたしか一九七三年頃だった。きっかけは自分の主宰する同人誌「SF論叢」のインタビューでお宅にお邪魔したことだった。
 当時、山野先生のお住まいは東京の京王井の頭線永福町駅の近くにあった。同人仲間の志賀隆生とともにマンションを訪れると、山野先生のほか、「NWSF」の編集長の山田和子さん、翻訳家の大和田始氏と野口幸夫氏がいた。ほかに競馬関係者の出入りがあったような気がするが、よく覚えていない。

「SF論叢」の創刊号に山野浩一インタビューを載せようと提案したのはたしか私だった。「SF論叢」は、「綾の鼓」というSF同人誌のメンバー数人で始めたSF評論誌だった。
 当時、私たちの間では、SF界には批評が不足しているというのが共通認識になっていた。作家の数より評論家のほうが多いくらいの純文学などに比べて、評論家といえるのは石川喬司さんなど数えるほど。これではSFの発展は望めない。この状況を打破するためには批評誌が必要だと、青二才どもが高ぶった気持でいたのである。
 ただ、同人仲間のSF観は千差万別、とくに当時、イギリスで起こったSFの改革運動「NW運動」に対しては評価がまっぷたつに割れていた。
 仲間の大半はよきSFファンだったので、神のように崇めるアシモフやハインラインを否定するようなNWの論調には批判的だった。私もSFマガジンを隅から隅まで読むようなコアなファンだったから、全面的に共鳴していたわけではなかった。それにもともと政治嫌いで、学生運動や新左翼運動にも懐疑的だったから、それと呼応するようなNW運動にも懐疑的だったのである。ただ文学志向は強かったので、運動の理念自体やその中心的存在であったバラードの作品には刺激を受けていた。
 山野先生のお話を聞きたいと思った最大の理由は、一九六九年、「SFマガジン」誌に掲載された「日本SFの原点と指向」にあった。それまでの私は小松左京の影響もあって、SFを「SF対文学」という対立軸でとらえていた。しかし山野先生の論は、日本SFの借り物性を批判しつつ、SFにおける科学志向と文学志向、SFと思想の問題を内在的に論じていた。そのインパクトは強烈だった。
 小松左京の評価については全面的に賛同できなかったが、そこには真剣に考えるべき問題があると感得されたのである。
 第一回の人選は山野先生しかないと思い定めた私は、皆の反対を押し切ってインタビューを申し込んだ。先生は快く引き受けてくださったが、仲間の反対は根強く、結局、当日参加したのは私と志賀隆生の二人だけになった。(続く)