闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

GAYな音楽

2006-10-30 14:10:21 | 楽興の時
昨日の記事を読み返してみて、GAYと音楽のかかわりあいのこと、自分の考えを少し補足しておいた方がいいという気がしてきた。

こと音楽にかぎらず、GAYとアートの受容の問題はけっこうややこしいが、アートというのは、GAYだからGAYがつくったものに感動するといった単純なものではないという。
たとえばクラシック音楽の世界では、チャイコフスキーはおそらくGAYだったといわれるが、だから私はチャイコフスキーの音楽が好きで、それに特別強く反応するかといえばそんなことはない。チャイコフスキーよりはやはりブラームスの方が好きで、これはどうしようもない。ただし、自分がチャイコフスキーよりブラームスが好きということを押し売りするつもりもない。私がたまたまブラームスのことを書いたのは、それをとおして、このブログを読んでくれている人に、私を理解して欲しいと思っている、ーーただそれだけのことだ。
演奏家のことももしかすると同じかもしれない。ワルターやクレンペラーの演奏は、あるしつこさをもっており、それが嫌だという人がいるのは認めざるをえない(二人にくらべれば、セルの演奏はもっとストレートだ)。
では芸術上の価値判断はすべてが相対的で、そこにはそれぞれの人の好き・嫌いがあるだけかというと、そうではないような気がする。昨日はそれを、ユダヤ人の問題や、GAYの問題に惹きつけて考えてみたのだが、今もう一度考えても、ユダヤ人演奏家がかかえている問題はGAYの内面の問題と、とても近いところにあると思う。

ところで、昨日の記事を読みかえしてみてもう一つ自分で気がついたのは、結局、私が好きなのは職人芸的な演奏ではないかということ。ドイツ系の演奏家が、演奏行為を自己表現、もしくは芸術活動ととらえているとすると、ユダヤ系の演奏者はそれをまず「わざ」としてとらえているような気がする。そして、「わざ」が拙かったら、いくら恰好のいいことを言ってもしかたがないじゃないかというのが、結局、彼らの主張のような気がする。だからこれは、好き・嫌いというより、もう少し深いところで、聴き手の考え方とかかわることではないかとも思える。
そういう意味ではブラームスの音楽というのも、芸術的というよりは職人芸的だと思う。たとえばブラームスに「悲劇的序曲」という曲があるが、これはブラームスのまわりで悲劇的な事件が起こったことを機に作った曲ではなく、悲劇とはこういうものではないかというイメージをかたちにした曲だ。
だからそこに真実はないと言ってしまえば、真実などかけらもないのだが、音楽とはほんらいそうしたものではないだろうか。つまり、音楽は、絵画や文学作品のように、つくり手のまわりで起こっていることを忠実に写し取ることを使命とするのではなく、それはあくまでもイメージなり雰囲気を問題にしているのだと思う。だから究極的には技巧・技巧ということが音楽の本質とかかわってくる。
ブラームスはそのことをとてもよくわきまえた「プロ」の薫りがする作曲家だ。そしてそんなところ、モーツァルトととてもよく似ていると思う。