闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

声による表現の最先端を聴く

2008-09-28 22:59:08 | 楽興の時
今日(28日)は、川村龍俊さん主宰の現代音楽連続コンサート「WINDS CAFE」(第141回)で、バリトン/ヴォーカル松平敬さんのリサイタル「バベルの声」を聴いた(於:四谷カノンホール)。曲目はグレゴリオ聖歌、カーゲル「バベルへの塔」(日本初演)、ケージ「FOUR SIX」、ルシエ「バリトンと正弦波のための音楽」、シュヴィッタース「原ソナタ」。グレゴリオ聖歌を含めてはじめて耳にする曲ばかりだったが、曲も演奏も刺激的で、非常におもしろかった。

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冒頭に歌われたグレゴリオ聖歌は、「アヴェ・マリア」「めでたし海の星 Ave maris stella 」「めでたし女王 Salve Regina」の3曲で、松平さんの声だけのア・カペラ演奏。会場のカノンホールは50人も入るといっぱいになるような小さなホールなので(今日は満席で補助椅子が追加された)、透明感のあるバリトンの声が心地よく響く。
しかし、曲の美しさに酔っていることができたのはこのグレゴリオ聖歌だけで、あとはすべて辛口でコンセプチュアルな現代音楽。
2曲目の「バベルへの塔」は、今年の9月18日に亡くなったカーゲル(1931-2008)が2002年に作曲した曲で、18の言語に訳され、18の異なるメロディーをつけられた旧約聖書の言葉「さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにしよう。etc.」から、演奏者が任意の3~6の言語(&メロディー)を選び出し、任意の順序で演奏するというもの。カーゲルによって選ばれた18の言語の恣意性とそれぞれの言語の理解不能性が、バベル状態を象徴している。ちなみに本日松平さんによって選ばれたのはヘブライ語、英語、日本語、スワヒリ語、ハンガリー語、イタリア語の6つの言語(&メロディー)で、それぞれの言語につけられたメロディーの違いがおもしろい。日本語のメロディーは、おそらく一つ一つの単語の意味を十分把握できずに作曲したのではないかとおもわれる無機的なものなのだが、英語とイタリア語、なかでもイタリア語のメロディーは、歌われている言葉とメロディーの一致や乖離が不思議な効果をつくり出す。
3曲目の「FOUR SIX」(本当のタイトルは表記が違うのだが、私のPCではこのようにしか表記できないので仮にこのように表記しておく)は、ケージ(1912-1992)が亡くなる直前に作曲した比較的長い曲(演奏時間約30分)で、4パートのための連作の6番目にあたるところからこの名称があるという。本日は、松平さんが第一パートを受け持ち、他の3パート(電子音、SPレコードの音、自然音)はあらかじめ録音された音源をそれに充てて組み合わせた。
実は、ケージの本格的な曲、それも30分もあるような長い曲を聴くというのは、私にとっても今日がはじめての体験だったのだが、4つのパートが互いに協調し合って一つの全体像をつくりあげていくというのではなく、各パートが互いにさまたげ合うというのが、ケージらしいところだろう。曲(?)は、どこまで聴いても前進も発展もなく、ひたすら互いが互いをさまだけ合う。ところがそれを数十分聴いていると、しだいに耳が慣れてきて、実際に演奏されて耳に届くのは4つのパートの音楽(結局はすべて一種の雑音)だが、どこかになにか別の音楽が隠されていて、演奏されている4つのパートはそれを隠そうとしているのではないかという錯覚が生じてくるから不思議だ。すると、グレゴリオ聖歌から「バベルへの塔」を経て「FOUR SIX」へと至るプログラムが、見えないもの(聴こえないもの)をどのように表現するかを核として緊密に結びついていることがわかる(フランスの哲学者デリダならば、それを「痕跡」と呼んだかもしれない)。
さて第二部は少し雰囲気が変わって、単に抽象的というより、演奏することの身体性がかかわる曲がとりあげられる。
4曲目の「バリトンと正弦波のための音楽」は、ルシエ(1931年生)が作曲した、バリトン(人間の声)とゆっくり周波数を変える電子音が音程関係によって生み出す唸りをテーマとした、音響実験に近い音楽。ただしここでも、「差音」という、実際に演奏されていないにもかかわらず人間の耳に感じられる一種の錯覚の音が問題とされている。
最後の曲(?)「原ソナタ」は、シュヴィッタース(1887-1948)の音響詩の古典的名作とのことで、何語でもない意味のない言葉による詩を、あたかもそれがなんらかの意味をもっているかのように読み上げかつ歌うという作品。30分ほどの大作だ。この作品も、どう聴いても意味がない音の連続(例えば、「Dedesnn nn rrrrrr, Ii Ee mpiff tilff toooo」)が、松平さんの優れた表現力によって、しまいにはなにかしらの意味を伝えようとしているのではないかという幻覚を生じさせ、不思議な盛り上がりをみせる。
結局、本日演奏された5曲(プログラム)をとおし、意味や感動というのは言葉のなかに最初から準備されているのではなく、たとえ無意味な音の連続や騒音でも、それをある程度聴いていると、人間はその無意味さのなかに意味を見いだそうとする不思議な存在だということをまざまざと感じさせられた。またそれと同時に、芸術表現とりわけ音楽の根底には、そうした無意味さの意味が横たわっているのではないかという根源性をも強く感じた。

はじめて聴いた曲ばかりなので、私には演奏の善し悪しを述べる資格はないが、松平さんはそれぞれの曲に真摯に取り組み、その可能性を最大限に引き出していたとおもう。また彼の声はいわゆる美声ではなく、響きに色彩感のない非常にニュートラルな声なのだが、その声質も曲とうまく合っていた。