闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

モノ化していく身体をみて衝撃と感動

2008-05-12 10:20:07 | 雑記
週末にイベントは無事終了した。入りがおもったほどでなかったのが残念だが、宣伝が遅れたこと、連休明けでこの週末はみんな出不精になっていたことを考えれば、まあまあの入りだったとおもう。

当日のリハーサルはかなり波乱気味で、まずは出演者の滞在先でラストをどうするかみんなで打ち合わせ。出演者、監修者(彼ら同士の会話はポルトガル語で、まわりは誰もわからない)からいつかの案が出され、私も自分の考えを言って、いくつかテストしたうえで、落ち着くべきところに落ち着いた。
それが決まると、スタッフのイタリア人学生たちと合流。なにせ彼らは7日に日本に着いたばかりで、信じられないことに、実際に会場を見た人間は一人もいない(かく言う私も、会場内に入るのはこれがはじめてだ)。
無駄にできる時間は少しもないので、会場に入ると、イベントスペースのスタッフとの挨拶もそこそこに、すぐに舞台の設営を開始し、またイタリアからもってきたパワーポイントの素材を接続してチェック、それと同時進行で照明、音響などの設定とチェック。ともかく、はじめての外国での会場だというのに、すべてが次々にこなされていく手際の良さには関心。イベントのすべてを外国で企画し、会場の詳細を確認しながらそれに合わせていく余裕がないと割り切ったうえで、どのような会場であっても設営ができるよう、使用する材料を最低限のものに絞り込んで準備し、それをどんどん設営、接続していく。ものすごい優秀なスタッフたちだ。
そうした下準備を一時間ほどで済ませると、本番で使用する一種の人体模型が到着し、それを舞台の中央に据える。もう一度照明の確認。
そこで今度は本番前のゲネプロ。気付いたら、いつのまにか出演者の女性は全裸になっている。だがそんなことで驚いている閑はない。私も最初に日本人の観客にイベントの主旨を説明する役がわりふられているので、原稿を最終チェック。ゲネプロはとりあえずスムーズに済み、開場も数分遅れただけでトラブルもなくイベント開始。

イベントそのものは一種の総合的な身体論で、舞台上手に着席したイタリア人監修者が次々にスライドを投影しながら自分の身体論、自我論、無意識論、フェティシズム論などを説明し、芸術や身の回りの商業広告をとおし、現代社会のなかでそれがどのように視覚化されているかを具体的に示していく。下手では全裸になった女性が観客に自己の身体をさらすことで、監修者の身体論をリアルなものとして見せつける(ただし監修者のスピーチと女性の動きには、直接の関係はほとんどない)。そうした身体論と身体の顕示が同時進行している中央には人体模型が据えられ、冷たくそれらと対峙している。その存在感がものすごくいい。
イベントでは、最後に人体模型の実際の製作者が舞台に連れ出され、中央で身をこわばらせている女性を、あたかも人体模型を動かすように動かして、生身の身体をモノ化していく。

この最終場面を本番前にいろいろ打ち合わせたわけで、だから私は最終場面がどうなるかすでに知っていたのだが、それでもそのモノ化していく身体の場面には強い衝撃と感動を覚えた。まして、はじめてこの場面をみた観客には、ものすごいショックだったようで、みな興奮しながら帰っていった。

スタッフ、会場等のつごうで今回のイベントが一回しか公演できないのは、とても残念だったが、イベントにかかわったすべての関係者は、国籍を超えて、ものすごい達成感があり、打ち上げもものすごく盛りあがった。最初からトラブル続きのイベントだったが、公演が実行できてほんとうによかったと実感した。