ひとりの夜

伝えたい言葉を並べるだけのごくごく私的なところです。

一年振り…

2012-04-12 21:55:55 | Weblog
あの日…いつも片道15分の道を右往左往しながら二時間かけて辿り着くなんて予想もしなかった。

あの日…迫り来る暗闇にそれ程不安を感じる事なく居れたのは事態を把握していなかったから。

暗闇の中でラジオから耳を疑うような事ばかり次々と発せられ息を飲んだ。

尋常じゃない事態

自分が『被災者』という立場なのだと初めて気付く。

実際には『被災』なんて沿岸部に比べたら取るに足りないものだったのかもしれない。
住む所も職場も命も存在していたのだから。

ライフラインが全て止まり一日…二日と経過する中できっと二~三日なのだろうと甘く考えていた。
一週間が経過する中で、全国から災害復旧に来てくれた多くの他県ナンバーの車輌を見る度に頭の下がる思いで職場に向かった。

職場は被災し避難してきた方も含め、有り得ない過密ぶりと物資の不足で三日分の備蓄はすぐにでも底を尽きそうな気配。
100人に対して市から支給された菓子パンはわずかに10袋。
あの惨状をしのぐだけが精一杯の日が何日続いたのか記憶も定かではない。
今…目の前の職務をこなす私達も皆被災者で、勤務時間中に世間は限られた食糧と燃料を長蛇の列を作り求め歩いていた。私達はその列に並ぶ事すら出来ずに帰路につく。
ライフラインも食糧も燃料もない自宅に。

友人も同じく怒涛の業務を行っていた。沿岸被災地からの犠牲者の搬送…火葬葬儀。
次々と本当に次々と…休む間もなくだったと思う。精神的な重圧も疲労も相当なものだっただろうと…頭が下がる。

たくさんの家が命が財産が失われ、家族が友人が大切な人が失われた事。
考えられない場所まで到達した津波の恐怖、教訓…
原発・放射能の安全性…
帰る場所に帰れない多くの人々、安全性を求めて引っ越してゆく人々。留まる人々。

まだまだ、まだまだ…
これから復興が始まるところで、瓦礫の山があるうちは街も整備出来ないし人も戻れない。
放射能汚染された山に里に街にいつ戻る事が出来るのか。

まだまだ、まだまだ…本当に全然まだまだで。
宅地に田園に船が打ち上げられたままで、破壊されたままの家屋もまだまだあって。

一年が経ち…追悼式典があり…復興の兆しが見えてきた、なんてまだまだで。

誰かにどうにかして欲しいと願う人ばかりではないはずだけど、行政批判をする気もないけど、自分も含めてまだまだ何か出来る事があるように思う。

まだまだ、まだまだ…なんだと痛感した。
一年経った気仙沼にて…
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