青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

レイクサイドライン・バタデン。

2023年08月30日 17時00分00秒 | 一畑電車

(出雲の母なる湖@宍道湖)

二日間の日程で借り出したレンタカーを使っての宍道湖ドライブ。宍道湖の大きさは東西17km・南北6kmの長方形の湖で、大きさでいえば日本第7位。あまり大きい湖を見慣れていない目には、これで日本の7番目なの?と思うほどの大きさなのだが、お隣の中海の方が大きさ的には大きいのだとか。中海の境水道を通して日本海と繋がっているせいで、水質は僅かに塩分を含む汽水湖となっているのはご存じの通り。その絶妙な海水と淡水の混じり具合が、多彩な生物のゆりかごとなり、そして太古の時代から、豊かな水産物の恵みを沿岸の人々にもたらして来ました。特にスズキ・シラウオ・コイ・ウナギ・シジミ・ワカサギ・モロコエビは「宍道湖七珍(しっちん)」と呼ばれ、季節ごと出雲の郷土の味として通人に親しまれています。

さて、一畑電車の撮影初日は、まず松江しんじ湖温泉から出雲方面へ。撮り進めて行きながら、気が向いたら電車に乗ってみようか・・・くらいの気ままなノープラン旅。いつもならフリーきっぷを買って乗り撮りすることが多いのですけど、今回は折角借りたレンタカーの機動力を生かさにゃ損ですからね。ファーストショットは、シジミの貝殻散らばる小さな船溜まりで。宍道湖で漁をする漁師さんたちの小さな船と、ぬめる船溜まりの水に映る一畑電車の2100系は、元・京王の5000系。従来の3扉から2扉に改造されているのがポイント。このドアだけを一畑電車のシンボルカラーであるオレンジに塗装したデザインは「楯縫」号なんて名前が付いているそうだが、この「楯縫」とは、出雲国にあった旧郡名のことなんだそうで。

夏の日差しを浴びて見事に輝くレイクブルーの宍道湖。一畑電車の北松江線は、松江しんじ湖温泉駅から電鉄出雲市までの33.9km。その約半分を、宍道湖の北岸に沿って走ります。まっこと一畑電車は、松江から布崎あたりまでは実に風光明媚なレイクサイドラインなのですが、宍道湖と線路の間には基本的には国道421号が走っていて、細かいことを言うと「本当に水際を走るシーンがほぼない」ことは残念ではあります。レイクビューの構図を作ろうと思うととにかくクルマが入るあたりが、なんか江ノ電の鎌倉高校前っぽい。さすがにあそこまでクルマの数は多くないけどさ。

レイクビューアングルで、国道を走る車を交わしながら元・東急1000系の「しまねっこ号」を。一畑の東急1000系は、福島交通とか伊賀鉄道で見られる中間車改造型。とってつけた顔がのっぺりしているのがなんともなあ・・・という感じ。一畑電車のラインナップ、譲渡車については京王5000、東急1000というある意味「地方私鉄が導入する車両のスタンダード」とも言える車両で構成されており、極めて手堅いと言った感じを受けますね。

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夏出雲、神々の住む国へ。

2023年08月28日 17時00分00秒 | 一畑電車

(旅立ちの夜に@東京駅八重洲口)

のんびりと7月の播州の鉄道旅を綴っているうちに、もう次の旅が始まっていた。8月、人並みながら夏休みをいただいた私、どこへ行こうか思案投げ首。昨年は京都丹後鉄道で夏の一日を過ごしたのだが、今年はさらにもう少し山陰の向こう側、出雲方面へ足を延ばしてみることにしました。去年はクルマで行ったんだけども、今年はガソリンがとにかく高いこと、そして距離も京丹後よりさらに延びることもあったので、JRバス中国が運行する夜行高速バス「スサノオ号」で行って現地でレンタカー借りることにしました。え~?出雲なら「サンライズ出雲」なんじゃないの?というのもあるんですが、夏休みの土曜の夜の東京発なんて直前で取れるわけなかろうが(笑)。JRバスらしく、サイドにあしらわれた伝統のスワローマークがカッコいい。

この「スサノオ号」、TDLを起点とし、東京駅八重洲口から松江・出雲市駅を経由して出雲大社前まで走る路線で、2階建てバスで運行されています。夜行高速バスで2階建てって初めて乗るけど、日本じゃなくてスウェーデンのスカニア社が製造する「J-InterCity DD」というバスらしい。3列シート、フットレスト、リクライニングはフルリクにすると座面が前に出るので一般の高速バスよりもより寝やすい傾斜まで倒しこむことが出来るのが良かったですね。勿論椅子にはUSB端子付き。例によってさすがに高速バスで熟睡・・・というわけにもいかず、細切れの睡眠になってはしまうのだけど、夜通し運転していることを考えたら、ね。

東京駅八重洲口20:20発。東名・新東名・伊勢湾岸・新名神・名神・新名神・中国・米子・山陰道と経由すること840km、松江駅前には定刻やや早めの7:15到着。途中休憩はお休み前の東名鮎沢PAとおはようの蒜山高原SAのみ。料金は片道14,000円なんですが、ちなみに新幹線+岡山乗り換え伯備線で22,000円くらいなのでどんなもんでしょう・・・東京~大阪だとバスによっちゃあ新幹線の半額以下になったりもしますが、山陰方面へ向かう夜行高速バスは数が少ないのでこのくらいでしょうかねえ。ちなみにサンライズもB寝台ソロで22,000円くらい。まあ、サンライズが取れたら乗ってみたいけども、松江9:29・出雲市9:58はちょっと遅いかもな。夜行高速バスは、地方都市の駅前に朝早く到着することに利点があるので。

朝の松江駅前。島根県の県庁所在地の玄関口にあたる駅ですが、駅前に建つスローガンにお土地柄を感じる。竹島に関しては終戦のドサクサだとか李承晩ラインだとか色々と歴史的に物議を醸している場所ではありますが、個人的には江戸時代に遡る鬱陵島と竹島の間における渡航禁止問題(竹島一件)をして鬱陵島と竹島の帰属は両国で平和的に分離されているという説を推したい。基本的に日本の固有の領土として疑いの余地のない土地ではある。

駅前のレンタカー屋で車を借り受けるのが8:00~なので、それまでどっかマックでもないかと思い辺りを見回すのであるが、山陰最大の都市(だよね?)とはいえ松江駅前にそんなシャレオツな都会のファストフードショップはない。仕方がないので、駅の1Fに入っているセブンイレブンで食料を調達し、待合室で山陰中央テレビを見ながら簡単に朝食を済ます。ふと駅構内の案内放送に耳を傾けると、7時台の岡山行き「特急やくも」の入線案内が。最近、最後の国鉄型特急車両として381系の人気も日増しに高まっているらしく、最近復活した国鉄特急色のリバイバル編成を撮りに遠方はるばる撮りに来る人間も多いと聞くので、まあワンチャンあるかもしんないから暇つぶしに見に行ってみんかあ・・・なんて入場券を買ってホームに上がったら、そのものずばりの国鉄特急色が登場したのであった。

貫通路のある岡山側よりも、ノーマルな出雲市側のほうが馴染みのある「国鉄特急顔」という感じがするのと、381系って独特な振り子台車の形状が特徴あってカッコいいですよね。ボルスタアンカーが横に大きく突き出てるの。運転席横の「JNR」マークも凛々しく、「八雲」があしらわれたヘッドマークといいこれは正しく「L特急やくも」だなあと。それこそDC時代からの伝統の陰陽連絡特急、松江から岡山までは2時間半ちょっと。

国鉄特急色のやくもにホクホクしたところでレンタカーの借り出しの時間。簡単な説明を受けてハンドルを握る。弊ブログ、そんなにJR系にキョーミがないので(笑)、宍道湖と中海を結ぶ大橋川を渡って、松江の中心市街地へ。市役所や歓楽街を抜けて、やって来たのは一畑電車の松江しんじ湖温泉駅。その名の通り、温泉街のホテルや旅館立ち並ぶ一角にあるガラス張りのきれいな駅舎。以前は松江温泉駅と名乗り、高い塔屋を持つ二階建ての立派な駅舎が建っていたそうだ。ちなみに、一畑電車の松江しんじ湖温泉駅とJR松江駅はだいぶ離れていて、歩いて行くのはあまり現実的な距離ではない。結構本数は走っているので、バスが無難だと思う。

一畑電車は、松江しんじ湖温泉から宍道湖北岸を通り、電鉄出雲市と出雲大社前を結ぶ総延長42.2kmの山陰唯一の地方私鉄。その始発駅である松江しんじ湖温泉に湧く湯は、77℃の単純アルカリ性の高温泉。駅前には観光客用に足湯なども整備されていましたが、この日も朝から暑い宍道湖湖畔。誰も足湯など浸かっている人はいないのであった。

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うつろう、正しき、日本の四季よ。

2023年08月26日 17時00分00秒 | 北条鉄道

(復活の交換駅@法華口駅)

国鉄北条線から北条鉄道に至るまで、起点の粟生から北条町までの13.8kmに交換設備が一つもなく、全線1閉塞で運行を続けてきた北条鉄道。片道30分程度の道程とは言え、全く交換場所もないので列車の増発も出来ないし、北条町発/粟生発もそれぞれ列車間隔は詰められて約一時間くらいが限界。日中はそんくらいの間隔でもいいけど、朝のラッシュ時間も一時間間隔では、さすがに乗客の利便性が図られているとは言えない状態にありました。そのため、2020年に同線のほぼ中間に当たる法華口駅に交換設備を整備。列車の増発が可能になっています。

元々、国鉄時代は交換駅だったらしい法華口の駅。今でも相対式のホームの跡が残されているのですが、交換設備は現駅舎のホームの途中からレールを分岐させて、北条町寄りに改めて新設されました。交換設備と閉塞に連動した信号システムは簡易的に作られていて、列車を運行する場合はICカードを2つ(北条町~法華口・法華口~粟生)用意し、この法華口の駅でお互いの運転士が受け渡し用に作られた専用通路を使ってカードを交換。それぞれが交換したカードをICカードリーダーにかざします。ICカードによる通信を北条町駅の指令所が確認して、それぞれの方向の信号を青にする事で、進路が開いて進行が出来るようになっています。

通常時は日中にここで行き違いはありませんが、この日は「カブトムシ列車」の運行があったため、法華口での交換シーンを何度も見る事が出来ました。カブトムシ列車の運転士氏が手に持っているのがおそらくICカード。ここまで走って来た北条町行きの運転士氏から「粟生~法華口間」のICカードを譲り受け、鉄柱に取り付けられた読み取り機に読み取らせるのですが、この閉塞方式は「票券を持っている列車しかその区間に入れない」といういわゆる「票券閉塞式」(この場合はICカードが票券)の一種。本来であれば、現場の駅係員がお互いの運転士の通票を受領して、駅係員を介して受け渡しを行うのですが(小湊鐡道の里見駅でやってるタブレットによる票券閉塞式がそのパターンですね)、北条鉄道では無人駅の法華口駅に運転要員を置くことはせず、票券の確認作業を「それぞれの運転士が受け渡したICカードを読み込ませ、北条町駅の指令所で確認する」ことで処理する形にしているそうです。この方法を「票券【指令】閉塞式」というそうで、日本ではここでしかやっていない閉塞方法なのだとか。

めでたく交換設備の復活した法華口駅。ホームは移設されましたが、それまでの駅舎はそのまま使われていて、ここも古いながらも美しい、いかにも日本のローカル線だなあ!と思うような端正な佇まいの駅舎が現存しています。駅員さんこそおりませんが、駅舎の中には「Mon Favori(モン・ファボリ)」という名前のパン屋さんが入店していて、地域の活性化に一役買っています。勿論鉄道を使わない人でも、駅前の駐車場に車を停めてパンを買う事も可能。

キレイにリフォームされた駅舎と、パンの香り漂う待合室。駅務室はパン工房と陳列棚、出札口はレジになりました。次の列車までの待ち時間、折角なので買って食べてみましたが、米粉を使用しているのか、今流行りのモチモチ感が強くて風味がよいパンであった。播磨下里でゆで卵、法華口で焼きたてパン。ローカル鉄道を巡る旅は、目で見て愛でるだけでなく、風土を味わう口福の旅。地域の交流の拠点として、鉄道利用の促進のために、まずは駅を訪れる理由を作り出すこと。最近はJR東日本と日本郵政が駅の活用を目的に連携協定を結んだなんて話もありますが、荒廃した無人駅を無くすための草の根の活動は、意義ある取り組みでしょうか。

真夏の空に雲浮かぶ中、真一文字に草の道を走りゆく播州の小鉄道、北条鉄道。短い路線ながらも、その沿線風景とホスピタリティは、豊穣たるもの。加古川線沿線の盲腸線って、高砂線と鍛冶屋線が廃止、三木鉄道が三セク転換されたけど廃止で、結局残ってるのって北条鉄道だけになってしまいましたからねえ。これからも末永く存続に向けた取り組みと活動が実を結ぶよう、その動向に注目したい路線になりました。何より、思いっ切り夏を吸い込めたのが良かったなあ!って思いましたね。

日本の正しい夏があった北条鉄道。四季が薄れゆく昨今だからこそ、夏が過ぎれば正しく秋があり、正しく冬が来て、そして正しく春が来ること。四季の巡りの尊さに、思いを馳せます。

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白砂利の 瞼に見えた 白昼夢。

2023年08月24日 17時00分00秒 | 北条鉄道

(書き文字に歴史ありて@播磨下里駅)

北条鉄道ぶらぶら旅。お次は網引から三つ戻って播磨下里駅。ここの駅もたいそう古い播州鉄道時代からの年代物の木造駅舎が残されている。そしてその駅の壁に掛けられている駅名標の年代モノっぽいところは凄い。何度も書き直されては使われているものと見えて、下に右書きの駅名が透けて見える。右書きって事は相当昔なので、これも開業当時からのものなのかな?と思ったのだけど、この播磨下里駅、開業当時は播鉄王子(ばんてつおうじ)駅という名前だったそうな。なにそのカッコいい駅名。ハンカチ王子とか青汁王子みたいじゃん(笑)。

播磨下里の駅前。砂利敷きの車寄せに渋焦げ色の木造駅舎。自動販売機が少し無粋ですが、この時期コイン一つで水分が摂取出来るシステムというものはたいそうありがたいものです。焼けつくような真夏のトップライトが燦々と降り注ぐ駅前広場は、白い砂利に光が跳ね返って非常に照り返しがキツく、暑さでぼうっとする頭の中で白昼夢のように見える。先ほど網引の駅で、鶉野飛行場と特攻隊のお話なんかについてスマホでポチポチと調べていたものだから、こんな暑い夏の日はどうしてもこの駅からも兵隊に取られて出征して行った人が居たであろうシーンだとか、駅前にラジオを置いてみんなで首を垂れながら聞いた終戦の玉音放送だとか、そういう「どこかで見たような太平洋戦争モノの何か」が走馬灯のように頭の中を去来して、タイムスリップに陥ったようになったのでありました。

播磨下里駅前広場の奥にある農家のお店「ぬくもり亭」。北条鉄道を応援する有志の方々によって運営されているようで、近郷近在の農産物や雑貨、お店の中では持ち帰りのスナックフードや軽食も取れたりします。駅前にボーっと突っ立ってるとどうにも倒れそうなくらいの暑さなので、次の列車が来るまでお店に避難させてもらってアイスコーヒーなんぞをいただく。何か食べてみようかな?と思ったのだが、まだお昼ご飯の時間には早過ぎるので、卓上のゆで卵を一つ貰って食べてみるとこれが滅法美味い。壁に貼られた案内書きを見てみると、どうやら近所の養鶏場で獲れたタマゴで作っているものらしいのだが、半熟のゆで加減と塩味のつけ加減といい絶妙であった。たかだかゆで卵でそんなに感動する事もないと思うのだが、もし播磨下里の駅に立ち寄ることがあるのなら、ゆで卵を食べて欲しい(笑)。

今は1面1線の単式ホームだけの播磨下里の駅ですが、ホームの反対側にはホームらしき石積みが残っていて、かつては列車の交換も出来たのだろうか。それとも、小規模な貨物を積み下ろす貨物ホームの跡だったりするのだろうか。なんとなーくホームの向こう側の平地にかつては農業倉庫とかあったっぽいですね、という感じ。過去の文献を紐解くと、播州鉄道時代から北条線は播州織という織物や沿線の農産物の出荷がメインの貨物輸送が行われており、そう思うと、行き止まりの側線と貨物ホームに、有蓋車が1両2両繋がれて放置されているような景色が見えて来た。なべて私の一人の旅は、考察・推察・妄想で成立しているのだなあと思う。

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鎮魂す ああ白鷺の 大翼や。

2023年08月22日 17時00分00秒 | 北条鉄道

(緑のトンネル@田原~法華口間)

北条鉄道、粟生から北条町の約15kmを、機織り型でウロウロ。線路際に展開するにはあまりにも暑く、そして当初に目論んでいたレンタサイクルが借りられなかったという誤算もあり、ある意味腰を据えて駅撮り&車内撮りに勤しむこととする。起点から終点まで一貫して平板な北播の平野を走る北条鉄道、車窓のアクセントは乏しいのですが、ほんの一瞬、法華口の駅から田原の駅の間で涼やかな森のトンネルを抜ける。大きな川も渡らず、大きな山も越えない北条鉄道ですが、ここが唯一、沿線で一つだけのトンネルじゃないかな。

夏の日差し降り注ぐ網引駅のホーム。加古川側の起点である粟生の駅から一つ目の駅。車輪が削ったレールの鉄粉がしみ込んだ赤茶けたバラストとホームが、強い日差しに焼き付いている。網引と言われて、海辺でもないのに何の網を引くのか?と思うような駅名だが、昔々、この辺りに魚がよく獲れる沼があって、網を引く漁師の姿が引きも切らなかったことによるそうだ。六甲山系から西側の播州平野は、降水量が少ないせいで灌漑用のため池の類が非常に多い。そんな池や沼で獲れる魚、フナだのコイだのくらいしか思い付かないけれど、そういうものでも昔は農村の貴重なタンパク源だったのでしょう。

むわっとした夏の風が吹く駅のホームの片隅で、老人がゆっくりと煙草に火を付けて、美味そうに吸っている。夏の太陽は照ったり翳ったり。その光に合わせて駅前の大きなイチョウの樹の影が、駅前のアスファルトに現れたり消えたり。この立派な大イチョウ、雰囲気からしたら大正4年に播州鉄道として開業した当時からのものだろう。私鉄の播丹鉄道として開通した加古川線は、国鉄に買収されるまで厄神からの三木線、粟生からの北条線、野村からの鍛冶屋線といくつもの支線を伸ばしていましたが、現在残っているのは北条鉄道だけ。

そんな網引の駅前に立っている小さな看板が、78年前の出来事を静かに伝えています。昭和18年、「姫路海軍航空隊」の訓練用として、現在の法華口駅の北方に当たる静かな北播の農村に鶉野(うずらの)飛行場が開かれました。時は戦局に日本軍の敗戦の色濃く、本土決戦も視野に入りかけていたであろう昭和20年の3月、テスト飛行を行っていた局地戦闘機「紫電改」が、この網引駅付近で築堤に引かれていた北条線のレールを引っ掛ける形で墜落。墜落直後の剥がれたレールに、粟生方面に向かっていたC12牽引の旅客列車が突っ込み脱線転覆、死者12名、負傷者104名を出す惨事となったのでありました。「紫電改」は、太平洋戦争末期に川西航空機で製造された本土防衛のための戦闘機ですが、日本海軍では最も優れた戦闘機として評価の高い戦闘機でした。飛行場に隣接していた川西航空機鶉野工場は、戦後の財閥解体により航空機部門が「新明和工業」、自動車部門が「明和自動車工業」に分社化。明和自動車工業は、後にダイハツ工業に吸収されたものの、新明和工業は国産航空機であるYS-11の製造をはじめ、今でも飛行艇や航空機の部品を自衛隊や民間航空会社に提供しており、日本の航空産業の中核を担っています。

姫路海軍航空隊では、太平洋戦争末期に「白鷺隊」という特攻隊が組織されました。特攻作戦・・・なんて言うと、鹿児島の知覧や鹿屋、福岡の大刀洗など、九州方面が主力のイメージがあったのですが、その特攻隊を組成したのは、この白鷺隊のように全国から集められた航空連隊でした。この北条線の事故からおよそ一ヶ月後の昭和20年4月、特攻に参加した白鷺隊は、九州や台湾の飛行場から作戦に順次投入され、60数名の隊員がその命を落としています。

夏の青空が広がる網引の駅。こんな北播の片隅にも、戦争の爪痕と歴史が眠っています。

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