青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

全てはレールをつなげるために。

2024年06月20日 22時00分00秒 | 銚子電鉄

 (通票ヨシ!@仲ノ町駅)

通票閉そくでの運行が維持されている銚子電鉄。仲ノ町から笠上黒生の間では四角の通票、笠上黒生から外川の間は三角のスタフを使用しています(仲ノ町から銚子は自動閉そくのため通票・スタフともなし)。そのため、仲ノ町は棒線駅でありながら地上職員との間で通票の受け渡しが実施されます。GWでは、増発した臨時スジに充当されていた南海カラー。大勢の観光客と、増結に南海カラーが入るということを目ざとく掴んだ鉄道ファンでいっぱい。角ズームは、銚子電鉄でも南海時代同様に22000系のナンバーを貰い、銚子方から22007-22008の番号が付番されています。

銚子電鉄、オーナー会社であった内野屋工務店による横領事件と使い込みによる資金枯渇で経営危機を迎えてから既に20年弱が経過しているのですが、東日本大震災、新型コロナとその後も経営的には幾多の荒波もあったと思われるのですが、そのたびに主軸である「ぬれ煎餅」の全国的な販促や、「まずい棒」やイワシのつくだ煮などの食品事業、レトロ電車や駅名のネーミングライツなどの何がしかの話題性のある打ち出しと、売れるものは何でも売って一円でも稼ごうとするそのがっつき根性で何とかしています。鉄道事業を片手間にして、エキナカ事業や不動産開発、テナント事業にうつつを抜かす鉄道会社が跋扈するなか、本来であれば「鉄道会社は多角化せずにまずは本業である鉄道事業を大事にしろや!」なんて思うことも多いのですけど、銚子電鉄に限ってはそこらへんのノーボーダーなところはむしろ頼もしい。別事業で稼ぎ出す資金が、鉄道事業の明日のレールを繋いでいるからだ。壁に掛かった大きなチリトリ。これは、ぬれ煎餅の醤油ダレが入っている一斗缶で作っているもので、長らくの銚子電鉄名物である。ここへ来て売りものになっているとは知らんかったが、売れるものは何でも売るという銚子電鉄らしさここに極まれりという逸品。しかも今回導入の南海カラーだからな。思わず財布からお金を出しそうになってしまった。電車で来たことを考えて自重してしまったのだが、クルマでの訪銚だったら購入していたかもしれん(笑)。

初めて来た頃は伊予鉄流れのデハ801が、鼻詰まりがするような大きなツリカケ音を響かせ、キイキイと制輪子を鳴らしながら到着していた岬のとっぱずれ。あの頃とそんなに変わらないローカルムード満点の、外川の駅に佇む22000系。銀座線が桃太郎電鉄のラッピングになったり、伊予鉄からやって来た京王が走ったり、笠上黒生で脱線事故があったり、そしてコロナで減便となったり・・・色々と社会の趨勢と環境が変わる中で、今度はあの頃の懐かしきグリーンを纏った南海電車が走るというサプライズ。方向幕じゃなくてぜひ南海電車らしい「丸看」を掲げて、銚子~外川を往復して欲しいものです。

そうそう、南海の新車に続いて、銚子電鉄さん、ぬれ煎餅の工場に新しい機械を入れたらしい。積極的な設備投資は結構な事である。ただ、あんまり良い機械入れてしまうと昔売ってた「はねだし」みたいな規格外品は出なさそうでちょっと寂しいかなあ(笑)。 不揃いの形の濡れせんべいに、これまたムラに醤油が染み込みすぎて鬼しょっぱいヤツが入ってたりするんだけど、それを軽く炙ってマヨ&七味が最高にビールのアテで。美味かったんだよな。

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鷹の羽ばたき、岬へと。

2024年06月16日 20時00分00秒 | 銚子電鉄

(グランド照らす太陽の・・・@銚子電鉄・仲ノ町駅)

GW前半戦は福島に行って阿武隈急行と福島交通を探訪して来たのだが、GWの後半は受験勉強と部活でほぼ全てを潰す勢いの子供から、唯一開いた一日に「どこかへ連れて行って欲しい!」というオーダーを受けたので日帰りで銚子電鉄に。銚子に行くのもだいぶ久し振りの話である。成田回りで電車で行ったのだが、カシマスタジアムでJリーグの試合があったようで、成田から佐原まで鹿島サポでもみくちゃになった。さすがのGWである。というか、銚子って遠いんだったっけ。千葉からでも二時間かかりますからねえ。209系の固い椅子にお尻が悲鳴を上げる頃合い、ようやく到着した銚子の駅。弧回り手形を買って仲ノ町に出れば、2024年・銚子電鉄の期待の新車「シニアモーターカー」こと銚子電鉄22000形(元南海電鉄2200系)が出区準備に入っておりました。

元々は南海高野線の橋本から先の極楽橋まで、山岳区間を走る初代ズームカーこと21000系の増備用として作成されたこの車両。湘南二枚窓の丸みを帯びたデザインの初代からは一線を画し、標準型の箱型車体は初代に対して「角ズーム」と呼ばれました。高野線運用から降りた後は、2連ユニットで製造された強みを生かして多奈川線や汐見橋線などのローカル支線運用に就いていたのですが、伊予鉄からの譲渡車の老朽化によって代替車両を探していた銚子電鉄へご縁があっての譲渡となりました。今回譲渡を受けたのは2202-2252号の2連1編成。関東の私鉄で関西私鉄の車両が走ること自体が非常に珍しいことですが、その外装もグレーとブルー&オレンジのラインを基調とした南海色から、南海でのデビュー当時と同様の濃淡のグリーンの塗り分けに戻しています。関西私鉄のオールドファンは感涙モノの塗装変更でしょうなあ・・・それゆえに鉄道マニアの関心も非常に高く、2024年3月にロールアウトしてからは、多くの鉄道ファンを銚子に向かわせる原動力となっています。

ちなみに、今回銚子電鉄へ譲渡された南海2200系の2202-2252号車ですが、南海時代に汐見橋線で乗ったことがあります。記録を見ると、2015年(平成27年)8月とあるので既に9年前のこと。夕暮れ迫る汐見橋の駅から岸里玉出まで、大阪のダウンタウンを少ない乗客たちと揺られたことが印象に残っている。南海の汐見橋線、便宜的にこう呼ばれてはいますが実際は南海の高野線の一部。高野線由来の角ズームが静かに余生を過ごすには相応しい「都会の中のローカル線」という雰囲気であったのだが、よもや千葉県の銚子で再び会うことになるとは思わなんだ。都会の中のローカル線から、岬を目指すローカル線へ。製造年は1969年(昭和44年)で、御年55歳と既に若くはない身。通常の会社なら、そろそろ昇給も止まり子会社への出向なども考える時期ではあるのだが、降って沸いたような別会社への転籍話。いやはや、さすがに本人も南海に骨を埋めるつもりだったと思われるのだが。

銚子方助手席側に置かれた「NANKAI」のユニホームレプリカ。ビジター用だね。デビッドとか門田とかがクリーンアップだった時代のイメージだわ。「グランド照らす太陽と 意気と力をこの胸に・・・」と、思わず「南海ホークスの歌」を高らかに歌い上げたくなってしまうねえ・・・この角ズームも、高野線をブイブイいわしてなんば~高野山への大運転へ繰り出していた時代は、意気揚々となんばの駅に滑り込む際に大阪球場のカクテル光線の輝きを見ていただろうか。当時の南海、二軍の球場と選手の合宿所が高野線の中百舌鳥にあったので、ひょっとしたら選手もこの車両を使って球場への移動なんかをしていたのかもしれない。私がライブで見ていた南海ホークスは、その大半が杉浦監督時代の晩年なんだけども、南海が身売りを決めて福岡へ旅立ってしまってから35年以上過ぎているのだから、もう「プロ野球チームとしての南海」をリアルタイムで知っている人も少なくなってきている。「レイルウェイズ」というのは、三浦友和が出て来る電車の運転手のお話ではなくて、南海・阪急・近鉄が雑に十把一絡げにされた最強混成チームのこと。代打いしみね、代打かどたは反則なのであった。

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とっぱずれ 未来明るく 進む道

2020年01月13日 20時00分00秒 | 銚子電鉄

(名物ワンタンメン@銚子・大塚支店)

銚子に来て観光客らしく海鮮モノに手を出しても良かったのだけど、久し振りに食いたくなったのが双葉町にある大塚支店のワンタンメン。ラーメンと言うには細すぎるソーメンのようなパツパツの麺に、2つか3つ食ったら少食の人ならそれだけで腹が一杯になってしまうほどミチミチに肉の詰まったワンタンがすっきりとした醤油スープの上に浮かんでいる。これも10年ぶりくらいに食ったのだけど、あーこれこれ感があった。舌が覚えていた。

大塚支店と言っても本店がどこにあるのかは知らない。少なくとも支店は銚子信金の本店の路地裏にある。銚子の中心街、駅前のメインストリートはまあまあそれなりに栄えているように見えますけど、路地裏は人っ子一人歩いていないし、モルタルのビルの入り口はほぼすべてがシャッターを閉じていてお寒い状況。まあ日本の地方都市のほぼ大半がこうなっているのが現状なのだろうけど、銚子の場合は街として古いだけに余計にそれが目立つ。大塚支店は盛況でしたんで、そこだけ人の動きがありましたけどね。

昔日の栄華を偲ぶ街を走る銚子電鉄。醤油タンクをバックに仲ノ町で並んだ営業用の全車両。3編成6両体制ではまた重要検査が入った時などは予備車がなくなってやりくりに苦労しそうですが、雑多な旧型車が多かった時代に比べれば多少は体質改善が図られたと言えるのでしょうか。日中を減便して1編成で賄えるようにしたのも、乗車する客数の実情に合わせたダイヤってのもあるかもしれないけど、運用数を減らして車両や軌道の消耗を抑えるということも目的になっていると思われます。

その中で、趣味的にも湘南窓のデハ2000型は魅力が大きく、今の時代には得難いデザインだなあと思いますよね。令和のこの時代に、まるでスカ線の国鉄70系を思い起こさせるようなカラーリングとフォルム。今の電車は運転台の操作機器もタッチパネルに集約されてますけど、どれがどれだか分からなくなるほどの夥しい計器類はいかにも操縦者の教育と熟練を要する機械という感じがします。マスコン周りの金属の光沢も美しい。スカ線のクハ70なんて実物はさすがに見た事はありませんが、そういうものに郷愁を感じてしまう世代ではあります。

デハ2000の側面方向幕。字体がしっかり京王っぽくなってるのが細かいですな。「金太郎ホーム」というのはこの編成の車両スポンサーで、千葉の花見川区にある建設業者らしい。それにしてもとことんまでスポンサードを募る鉄道会社ですよね。そんな社風を逆手に取り、「もう売るものがないので”音”を売ります」なんて触れ込みで今度は音楽配信サービスにまで手を出している。電車を走らせるためなら何でもやるという逞しさ、日本広しと言えどここまで出来る鉄道会社が果たしてどこまであるだろうか(笑)。

外川の街を出て、犬吠へ向かうデハ2000。湘南窓になっている銚子側の顔は順光になる場所が少なく、撮影場所を選ぶのに苦労します。どうしても湘南顔がオヒサマの当たらない北側になってしまう事が多いですね。午後の仲ノ町か銚子駅、あとは西海鹿島の周辺くらいでしょうか。

冬の低い日差しに輝く湘南フェイス。仲ノ町駅にて。スポンサーの「金太郎ホーム」にあやかったわけでもなさそうですが、塗装は金太郎の腹巻模様。その真ん中にキリリと表情を引き締める黄色いサボがよく似合っています。

江戸の時代から豊かな漁場に恵まれ、水産物の水揚げや水運に恵まれた地の利を生かした醤油製造などの産業で、周辺地域のヒト・モノ・カネを集約したのが銚子の街。今や旧市街は没落し、郊外にイオンが立って商圏が変わってしまいました。再開発の進まない中心街を嫌って、川を渡った反対側の波崎や鹿島のほうに住民が移り、広く整備された道路のロードサイドに量販店が栄えているというのも、非常に典型的な地方都市の構図。そんな銚子の街の背骨の位置を、弧を描くように走る銚子電鉄。通勤通学客の需要が漸減していく中で、観光需要を呼び込んで行かなきゃいけないんだろうけど、犬吠埼の観光というものも目新しいものがなく陳腐化しているようにも思う。そう思うと、銚子で一番の観光ってなんだかんだ言って銚子電鉄なんじゃないのと。弧回り手形を買って、乗って降りてブラブラするのが一番面白いんじゃないかなあって思うよねえ。

夜の外川にて折り返し待ちのデハ2001。窓からこぼれる車内の明かりでホームのアスファルトが浮かび上がります。そう言えば、10年前にはホームに黄色い点字ブロックなんてありませんでしたよね。波打った舗装のホームに、アロエが生い茂っていたはずです。10年は一昔、なんて言いますけど、自分が銚子を訪れなかった10年の間に、車両以外にもコツコツと設備の改修が行われていたんですね。それもこれも、鉄道を動かすためには何でもやって来た会社の一つの結果なのでしょう。そんな会社の未来はいかばかりか。東の空が一番早く明け行くとっぱずれの街の鉄道に、光あらんことを祈ります。

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紺碧の海原を遥かに

2020年01月11日 22時00分00秒 | 銚子電鉄

(午後の日射し降り注ぐ@君ヶ浜駅)

南欧風の駅のゲートが名物だった君ヶ浜の駅。本来は、上にギリシャの神殿よろしく屋根が掛けられていたのですが、老朽化により落下などの危険が発生したため、取り外されて現在に至ります。10年前からそうなんだけど、直す気はないらしい。この駅もネーミングライツで「ロズウェル」の名前がついているようなのですが、かの有名な「ロズウェル事件」(米軍が墜落したUFOを回収したと言われている事件)から取られているらしい・・・なんで君ヶ浜でUFOなのかと思うのだけど、銚子は「UFOで町おこしをしている」からなんだって。初めて聞いたわw

野良猫がのんびりと日向ぼっこをする君ヶ浜の駅。海岸へは徒歩10分ほど。お正月は「本州で一番早く昇る初日の出」をウリに、ご来光を拝みに来る客で大変混雑するのが君ヶ浜。銚子電鉄も臨時ダイヤを組んで、朝4時台からJRの初日の出臨を受けての初日の出輸送にフル回転します。元旦が銚子電鉄の一番のかき入れ時であり、まさに「一年の計は元旦にあり」を地で行く会社でもあります。以前は形式もゴチャゴチャな旧型車をありったけ繋げて初日の出輸送に臨んでいましたが、今は元京王車の導入で収容力が大きくなったことから、通常の2連運行になっているようです。

駅周辺は、朝にも撮影したキャベツ畑。遠く犬吠埼灯台を見るこのアングルも、銚子電鉄ではおなじみのものです。銚子の海岸の中でも屈指の美しい砂浜を持っていた君ヶ浜の海岸ですが、最近は砂浜の浸食がひどく海水浴場としては整備されていません。海水浴は少し北の海鹿島か、犬吠埼灯台の先にある長崎の海水浴場くらいか。夏場の海水浴輸送も銚子電鉄の大事な収益源だった時代もありましたが、そもそも海水浴というレジャー自体が下火になっている昨今ではあります。

君ヶ浜の坂道を降りて来るデハ2000系の外川側のお顔。まんま京王5000系ですけど、前述の通りサハへ増設した運転台を取り付けた結果このようなカオになりました。片方が湘南顔の京王2010で片方が京王5000という統一感のなさ。どっちかに寄せろよと思わなくもない。それにしてもこの昭和的な水色と紺色の色使いはレトロ感があって実に渋いですな。垢抜けなさと野暮ったさの表現が絶妙というか。

午後は愛宕山にある「地球の丸く見える丘展望台」へ。キャベツ畑を走る銚子電鉄の車両。君ヶ浜のタブノキの林と、その先に広がる紺碧の大海原。実に銚子らしい光景ですね。今年の銚子の初日の出は太平洋上に雲があって上手いこと拝めなかったようですが、初日の出輸送は無事に終わったようですからひとまずおめでたい事です。午後になって銚子上空はまだら雲が来襲し、展望台からの俯瞰もヤキモキさせられましたが、2本目で一応の成功カットを収める事が出来ました。

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昔日の交換駅

2020年01月07日 17時00分00秒 | 銚子電鉄

(暮れの賑わい@銚子ウオッセ21)

魚屋の店先に並ぶ大ぶりのマグロやメカジキのサク。銚子と言えば国内有数の規模を持つ銚子漁港水揚げの海産物を思い浮かべる方も多いかと思いますが、銚子ポートタワーの下にある「ウオッセ21」は、暮れという事もあり多くのお客さんで賑わっていました。ただ、銚子の場合は漁港の近くに一般向けの小売店がそうある訳ではなく、観光地然とした魚市場としては整備されていません。近隣では、那珂湊の魚市場や日立のおさかなセンターの方がよっぽど店の数も品揃えもしっかりしている印象がありますが、ともあれこの時期の銚子のメカジキが脂乗ってて美味いんだ。メカジキなんて台湾あたりの冷凍ものしか知らない人、何となく煮付けてパサパサしてるのしか食ったことない人、だいぶ人生損してるから今すぐ銚子に行って生のメカを買ってぜひ刺身でやってくれ。下手なマグロよりよっぽど美味いので。

銚子電鉄から「ウオッセ21」にアプローチするなら最寄り駅になるのが笠上黒生駅。ですが、港の方に歩いて20分くらいかかるので最寄り・・・と言うにはちと遠い。銚子の駅前からバスに乗る方がいいのかもしれない。銚子と外川の中間にあるこの駅は銚子電鉄では唯一の交換駅で駅員も常駐しておりますが、スカルプケアの会社(メソケアプラス社)のネーミングライツにより「髪毛黒生(かみのけくろはえ)」駅となり、薄毛の方々への聖地として啓毛、いや啓蒙活動に努めております(笑)。どうせならサッポロビールと提携して「笠上サッポロビール黒生駅」とかにしてくれれば良かったのに。夏はホームにビアガーデンとか作ったりしてね。

暖かな光の射し込む笠上黒生駅の待合室は、銚電の駅らしい黒板の時刻表と旅客運賃表。この黒板、確認出来るところでは仲ノ町、本銚子、笠上黒生、外川にあると思うのだけど、誰が書いているのだろうか。細かい文字をとても丁寧な楷書で書き上げていて、いつも感心してしまう。駅の出札窓口の下には、かつてのオーナー企業であった内野屋工務店の社長を模したとされるゴリラのキャラクターのヘッドマークが侘しく置かれている。この社長による銚子電鉄の名前を利用した個人的な借財とその金銭の業務上横領が、車両検査費用にも事欠く苦境の発端であったが、債権者から銚子電鉄の会社の口座を差し押さえられたというのだから穏やかではない話。

笠上黒生の駅は以前はほぼ全列車で交換が行われたものですが、現在は10時~16時のデータイムが減便され1編成による折り返し運行となりました。よって朝夕しか交換風景を見る事は出来ず、寂しくなったなあと思わずにいられません。車内には料金収受のためのアテンダントの女性が1名乗務していますが、2編成を運行している時間帯は銚子~笠上~銚子の行路となるので、交換の合間を縫って電車を乗り換えます。銚子電鉄は銚子駅に出札窓口がなく、JRからそのまま乗り換えて来る客がほとんどなので、銚子側の守りを固めないと運賃を取りっぱぐれるという事なんでしょう。

かつての笠上黒生での交換風景。801と1001の交換。昔は1両での運行でしたので、上下列車の運転台の頭を突き合わせて停車し、線路上の駅員を介してスタフの交換が行われていました。現在は全て2両編成の運行になりましたので、駅員がホームで下り電車の運転士からスタフを受け、ぐるりと構内踏切を渡って上り電車の運転士に渡すという流れに代わっています。

笠上黒生の駅では何年か前にポイントでの脱線事故があって、その復旧と原因究明のために暫くの間運行が休止されていた記憶があります。駅の脇にはうず高く積まれた古枕木が置かれていて、保線の方々の奮闘が感じられますが・・・昨今、地方私鉄での脱線事故が増えているように思うんですが、だいたい原因が軌道変位(線路の幅が広がってたりする事ね)だったりして、どこも運行を維持するための保守経費が厳しいんだろうなあと思いますよね。地方のローカル私鉄の経営の厳しさって、軌道保守やき電の管理に一番如実に表れてくるような気がしますしねえ。公共交通機関はもっと積極的に上下分離方式の議論を進めても良いと思うんですが、相変わらず日本は公共交通を私企業の自助努力に帰結させてしまう事が多い。ここらへんは莫大な借金をこしらえた国鉄の亡霊なんですかねえ。

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