(ミスト・ステーション@電鉄富山駅)
道床に引かれた配管から霧状の水が撒かれている電鉄富山の駅。冬の間はこうやって積雪を防止するようだ。「水を撒く」というのは、古くから使われている積雪防止の方法ですけれども、ずーっと流しっぱなしにしていると水道の料金ってどのくらいかかるもんなんですかね。そうそう、雪国って道路にもセンターラインの穴から水が飛び出してくる消雪パイプなんかが設置されているところが多いですけれども、あれも水源が地下水なんで、消雪用の地下水のくみ上げをし過ぎて地盤沈下が起こった・・・なんて話もあったりしますが。巻き上げた雪がこびりついた60形がゆっくりとホームに入線。駅の高架化を前に、現在の仮設のホームに移転してもう2年ほどになりますか。電鉄富山駅の立体化事業は稲荷町~電鉄富山間の700mに総工費200億円を要し、完成が2028年度を予定。「鉄道により分断された街を高架化することによって活性化を目指す」という富山市中心部のまちづくり計画によるものなのですが、コロナ禍を経て地鉄自身の立て直しと今後に向けた方策の立案のほうが急務になっているような気もします。
地鉄通いを始めて何年になったか。記録を見返すと初めて来たのが2012年だから、もう10年以上になる。なんだかんだ言って色々と変わりましたけど、10020形・14720形がまだ健在で、2014年の北陸新幹線開業を見越して京阪にダブルデッカーが入ってきて、新幹線開業効果に湧いたあたりが一番元気であったように思う。地鉄はその後の5年間のコロナ禍でもちろん売上高・収益面の双方で疲弊したということもあるけれども、新幹線の生み出した副次効果として、特急を走らせる必要がなくなったあい鉄の充実も見逃せません。はくたかの13往復、北越の5往復がなくなって、それだけ自由なダイヤ編成が可能になったとも言えるんですよね。あい鉄の利便性向上によって滑川・魚津方面の乗客の逸走傾向がより顕著になったですし、10年かけてじわじわとニーズが地鉄からあい鉄に遷移して行ったとも言えるのではないだろうか。
古き良き車両とレトロな駅舎は、地鉄の魅力のひとつでもあります。寺田の駅の出札口に残る牛乳屋さんの広告看板。こういう物件が平気な顔をして残っている。みんな飲んでゐる。戦後まもなく文化庁より公布された「現代仮名遣い」によって、「ゐ」は「い」と書くように改められたはずなのだが、その後の文字の浸透度を加味しても、少なくとも戦後まもなくに作られた看板なのだろう。ただ、こういった看板が残るほどに年季の入った100kmを超える鉄軌道路線を管理することは、現在の地鉄の置かれた状況では設備を維持する資金も労働力も重荷と見え、東新庄での脱線事故や見張りを立てていなかったことが原因の保線作業員の触車事故など、安全面でも懸念するべき事項が目に見える形で顕在化しています。駅舎などは、能登半島地震の復旧対策工事という名目を使いながらぼちぼちと修復しているんですよ。経田とか、西魚津、早月加積、浜加積辺りがリニューアルして新しくなりましたし、決して何もしていないわけではないのだけれども。
夜も更けて、雪凍る寺田のホームで。今回はあまり見る機会の少なかった京阪カボチャがやって来た。4月以降は終電の繰り上げも予定される中で、地鉄の厳しい道のりは続きます。3月の決算を控え、地鉄の社長が地元テレビ局からの取材に対し、「全線での運行を維持するのであれば、沿線自治体からの受託方式での運行が望ましい」という意向を表明しているんですが、鉄道事業の売上高が15~20億円で6~7億円の赤字が出てしまうってとんでもない状況ではありますね。地鉄ってコロナ前に連結で110億円くらい売上出してたみたいなんですけど、現状90億円前後をウロウロ。この戻りの悪さがほぼ鉄軌道事業とは思いたくないのですがねえ。各地の観光地、インバウンド需要は十分すぎるほど戻っているように思えるのだけど、昨年に限っては能登半島地震の影響を少なからず受けたかもしれませんね。黒部峡谷鉄道とかも部分運休してましたんで・・・あと、北鉄と共同運行していた高速バスの富山~金沢線を運転手不足で撤退しているのも大きいのかな。
それでも鉄路は続き、列車は走り、そして乗る人と動かす人がいる。地方都市が華やかなりし頃、鉄道と駅が町の顔だった高度成長の昭和の時代から、人口減少社会、過疎化、少子高齢化と令和の御世に日本の病理は進んで行くばかりだ。 家路を急ぐ人影疎ら、 底冷えが強いデルタの駅で、去って行くテールライトを見送る。冬の厳しさに耐えて耐えて、なんとか一輪でも花を咲かせる春を迎えて欲しいものだが。