青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

太刀洗、ゼロの翼のその先に。

2024年09月24日 10時00分00秒 | 甘木鉄道

(祈りの空へ@筑前町立太刀洗平和記念館)

太刀洗の駅前から国道500号線を渡ってすぐ、大刀洗飛行場跡地の一角に「筑前町立大刀洗平和記念館」があります。戦前は「東洋一の飛行場」として、「西日本最大の陸軍の航空拠点(ガイドマップより)」としてその名を轟かせた太刀洗陸軍飛行場は、現在の甘木鉄道から大分自動車道までの間、東西2km・南北2km程度の広大な敷地に、付帯する航空廠、航空機工場、教練施設などを備えた一大軍事施設でした。1919年(大正8年)の開場からのここ太刀洗の飛行場の歴史を紐解くと、日清日露戦争による大陸への権益の確保、そして1910年の韓国併合により、大陸への「空の前線基地」が必要になったことが汲み取れます。太刀洗は「大陸に近く、近くに山脈などの障害物が少なく、気候の安定した平野(筑後平野)の中心にあること」などの好条件を持ち、航空技師たちによって長年の候補地探しの末に決まったものなのだそうです。1937年の日中戦争開始から世相が軍事色を強めるにつれ、中国大陸・朝鮮半島・南沙方面への重要な拠点となるとともに、太平洋戦争に突入して以降は搭乗員の訓練地として優秀なパイロットの錬成や航空機の生産に務め、戦線の後退に伴っては沖縄本島とその他の島嶼群、ひいては九州を中心とした本土を防衛する役割が課されて行く事になります。1945年(昭和20年)3月の大刀洗大空襲によって大規模な破壊を受け終戦に至るまでの僅か四半世紀の間でしたが、世界が戦争に明け暮れる激動の時代の中で、日本西方の防空の要としてその存在感を示しました。

館内は、展示物の詳細はプライバシーとかありますんで難しいのですが、展示されている戦闘機だけは外観のみの撮影が可能となっています。太刀洗の記念館に保存されている「零式艦上戦闘機三二型」。いわゆるゼロ戦は、南太平洋のマーシャル諸島のジャングルの中で見つかったものを、福岡市の民間団体が日本に里帰りさせたものだそうです。その運動性能の高さと操縦士の練度の高さで欧米列強の空軍を震え上がらせたゼロ戦ですが、その運動性能の高さは部品の一つ一つまで徹底的に軽量化をはかった機体にありました。「超軽量・高速・旋回性(敏捷性)」を設計思想の中核に据えた機体は運動性能には優れていましたが、それゆえ防御力に乏しく、太平洋戦争末期は鹵獲した機体からその弱点を見つけ出した連合国軍の戦闘機の餌食となったのでありました。まあそれにしてもゼロ戦のコックピットの狭さよ。大空高く、そして孤独な闘いであったのだろうなあ。

そして、太刀洗と言えば太平洋戦争末期は南方戦・沖縄戦における特攻の出撃基地となったこともあって、同じ九州では鹿児島県の知覧や鹿屋の航空基地とともに、多くの戦死者とその資料が遺されています。まずは展示場に鎮座する陸軍九七式戦闘機乙型。日本陸軍の戦闘機の中では安定した性能と操縦性の良さを持っており、中島飛行機を中心に3,000機以上が生産された主力機だったそうです。この機体は、満州から知覧への飛行中にエンジントラブルを起こして博多湾に墜落してしまったもので、その機体の残骸が湾内の埋め立て工事の際に見つかり、多くの人の尽力によって引き上げられて現役当時の姿に復元されたものなのだそうです。この機体を操縦していた操縦士は不時着後に漁船に助けられ九死に一生を得るも、再度特攻の出撃命令を受け、知覧から飛び立って沖縄で戦死してしまったそうだ。知覧はずいぶんと昔にクルマで九州を旅行した際に訪れたことがありますが、やはりここ太刀洗でも展示物の中心は特攻隊員の辞世の書というものが多い。死に場所を求めるような文章であったり、郷里に残した家族の無事を案ずる書であったり、幼い子供が読みやすいようにとカタカナ書きで全文を綴ったものだったり。銃後との通信手段が手紙以外になかったこともあろうけれども、何とかしてその思いの丈を、伝えるべき人に伝えたいという気持ちだけは80年余の年月を超えてヒシヒシと伝わって来る。それにしてもどの書も達筆であると同時に文章のしたため方も見事な教養に裏打ちされたものが多く、やはり軍隊の中でも戦闘機の操縦士になるクラスの人たちは頭脳も明晰であったんだなあ・・・と思わせる。

太刀洗の駅に、次の甘木行きの列車が来るまでの一時間。正直、展示物の物量を考えたら一時間ではなかなか掘り進めない重さのある資料の数々を眺め、読み、その重さを胃の腑に落とし込む。「特攻」という作戦の是非、命を落とした隊員の英霊化への批判、英霊などではない、軍部によって犬死にさせられたのだという批判、当時の天皇制と苛烈な作戦に隊員を追い込んだ軍部への批判、戦争を巡るその他諸々の事象というものは、個々の持つ政治スタンスやイデオロギーによって解釈が異なり、事後の評価と合わせて今も様々な議論がある。簡単な賛美も、簡単な批判も許されない難しさを抱えた「特攻」という作戦は、個人的には「爆弾を積んだ戦闘機で敵艦に体当たりをする」という作戦の単純さがゆえに、その実行は相当な時間の教育の果てというか、言ってしまえば「洗脳」に近い思想教育による強制的な納得と、ある意味の諦観を持って実行された戦術であったと思う。

太刀洗の飛行場は、沖縄戦を前にした1945年(昭和20年)の3月の末、大量のB-29による2回の大空襲により波状的な爆撃と機銃掃射で飛行場一帯は灰燼に帰したといいます。大刀洗大空襲は一方的な米軍による地上軍事施設への猛攻撃でしたが、一部は民間人の居住地にも降り注ぎました。1,000人以上の死者の中には、終業式を終え、複数の学校から集団下校中の子供たちの中で炸裂した爆弾と、それによって奪われた多数の命も含まれていたことも付け加えておきます。

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79年目の、空を見上げて。

2024年09月22日 10時00分00秒 | 甘木鉄道

(西鉄開業100周年記念号@西鉄小郡駅)

朝から暑い太宰府で子供たちの学業祈願を済ませた後は、改めて急行電車に乗って大牟田方面へ。ただし、そのまま真っ直ぐ大牟田方面に向かうことはせずに、西鉄小郡駅で下車してみました。福岡県小郡市の中心駅で、駅は2面4線の緩急接続タイプ。ここまでは天神からの区間列車があったりして、運転上の節目になる駅でもあります。駅から西に1kmと少しで佐賀県の鳥栖市。このあたり、並行して走るJR鹿児島本線は鳥栖付近でいっとき佐賀県をかすめ、長崎本線を分けて再度福岡県側に戻りますが、西鉄電車はここから先、味坂駅の南側で佐賀県まであと100mくらいの場所を走りつつ「意地でも佐賀県には入らんばい!」とでも言いたげな感じの絶妙なコース取りで南下して行きます。駅を出て行く天神行きの急行電車は3000形の5連。2024年は前身の九州鉄道から数えて西鉄開業100周年のメモリアルイヤー、記念ラッピングの「ガタンコ・ゴトンコ号」が発車して行きます。

西鉄小郡駅のすぐ北側、100mくらいの場所で、大分自動車道と単線非電化のレールが西鉄電車をオーバークロスしています。これが旧・国鉄甘木線を三セク転換した甘木鉄道。築堤の上に設けられた小郡駅。国鉄時代は「筑後小郡駅」という名前でもう少し離れた場所にあり、ちょっと乗り換え駅としては使い勝手がいいとは言えない関係にあったものを、三セク転換を機に現在の位置までずずーっと500m移転。お互いに歩いて5分程度の位置関係に整え直し、大きく利便性を改善したのでありました。そう言えば、西鉄大牟田線は鹿児島本線と2回、久大本線と1回、筑豊本線と1回、そしてこの甘木線と1回と5回の国鉄線との交差シーンがあるんですが、どこにも明確な「乗換駅」は作られてはいません。筑豊本線は「原田線」と呼ばれる閑散区間ですからまあ仕方がないにしても、鹿児島本線とは福岡市内の井尻~雑餉隈間(南福岡付近)や久留米市南部の聖マリア病院前~津福間で交差していて、ここに乗換駅でもあったら便利なのでは?というのは普通の感想なのだが・・・徒歩連絡でも有効な位置に駅を作らなかったのは、福岡都市圏の中で明確にお互いをライバル視しているのもあるのだろうし、そもそも昔から、「天神」に行く人は西鉄電車へ、「博多」へ行く人は国鉄へという住み分けがあって、利用する目的が違う路線なんだとも思います。

築堤の小郡駅に駆け上がって来る甘木鉄道のディーゼルカー。国鉄時代は1日僅か7往復の閑散ダイヤで、朝8時台の列車が出て行ったら次が夕方の16時台という結構とんでもないダイヤで走っていた。そんなに需要がなかったのか、それとも当時の国鉄らしいヤル気のなさなのか。三セク転換以降、新生・甘木鉄道は徹底的な地元密着と利便性の向上のため筑後小郡駅を移設し4駅を増設、交換駅を増やして車両を増備。その積極姿勢が奏功したのか沿線の学生や通勤客の利用が定着し、現在は40往復/日、朝7時台は15分ヘッドで走って来る優良三セクのひとつ。福岡周辺には、このように潜在需要がありながらテコ入れをされず、流れに任せて旧態依然としたままの路線がそこそこあって、この国鉄甘木線や初日に見て来た国鉄勝田線(吉塚~筑前勝田間)なんかがその好例。筑肥線の旧線(博多~姪浜間)なんかもそれに当たるでしょうか。筑肥線は福岡市営地下鉄との相互乗り入れ、甘木線は三セク化で事態の改善を図ることが出来ましたが、勝田線は早々に廃線となってしまったんですよね。

小郡からはしばらく、宝満川を渡るまでは大分自動車道と併走して小郡市内の高架線を走る甘木鉄道。このあたりも三セク転換以降の小郡市内の立体交差事業という感じがするが、途中に設けられた大板井駅は大分自動車道の「高速小郡大板井バス停」に隣接していて、公式でも高速バスへの連絡が推奨されている。ダイヤを見ると、西鉄バス・日田バスの共同運行便である「福岡~日田線」の高速バスが30分に1本の間隔で発車していて、天神・博多方面へ40分で結んでいる。料金は1,040円と甘鉄・西鉄経由の650円と比べると若干割高感はありますが、時間帯によってはバスの方が早い場合もあったりするようで、着席して乗り換えなしで天神・博多まで直行はシチュエーションによってはアリなのでは。

甘木鉄道のNDCは、田園の中に工場地帯が混じり込むような半農半工業の風景の中、晴れたり曇ったりの筑後平野を東へ進んで行く。小郡の駅から乗車して約15分、大刀洗の駅で青い色のキハを降りる。平日の午前中、どのくらいの人が降りるのかなと思ったら、案外と車内の半分くらいの人が甘木まで行かずにここ大刀洗で降りて行く。彼らに続いて構内踏切を渡り駅前広場に出ると、かつての駅舎だったと思しき木造の建物の上には何故だか飛行機が乗っかっててびっくり。これは旧駅を活用した「大刀洗レトロカフェ」という施設らしいのだが、上に乗っている航空機は、ここがかつて「東洋一の飛行場」と呼ばれ、九州・沖縄や大陸方面の防空と本土防衛の最前線基地としてだけでなく、航空隊の訓練施設や、航空機の生産を通じて日本の航空技術の発展に多くの足跡を残した大刀洗飛行場があったことによります。

今年で戦後79年目。油照りの夏、この大刀洗の街に、記憶の糸を辿りにやって来ました。

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太宰府の夏、いずれにしても夏。

2024年09月20日 17時00分00秒 | 西日本鉄道

(日本で一番暑い夏@太宰府駅)

太宰府駅を正面口から。天満宮を模した雰囲気のある駅舎である。現駅舎は2019年にリニューアルされたもので、それまでは赤瓦屋根の渋い大柄な駅舎が建っていたようだ。ここまで来たらちゃんと天満宮にお参りに行かないとね・・・ということで駅のコインロッカーに重い荷物を預けて参道へ向かう。それにしても朝から鬼のように暑い。今年の夏、よく「太宰府」という地名を気象情報でも耳にする機会が多かったと思うのだけど、2024年の今年、太宰府市は「35度を超える猛暑日」の日本記録を更新し続けていて、何と9月15日の時点で延べ57回を記録しております。まさに今年は「日本で一番暑い」街だったのでありますが、熊谷とか舘林とか多治見じゃなくて急に大宰府が「暑さ」でクローズアップされたのは何故なのだろうか。一説によると、背振山地と三郡山地(福岡平野と筑豊地方を隔てる山地)に囲まれたすり鉢状の地形のせいだとか、アメダスの観測点が変わったせいだとかいろいろ言われていますが、真相は定かではありません。9月になってもまだまだ暑い日本列島ですから、別に記録はここで終わりということでもないようなので、どこまで記録が伸びてしまうのか・・・一年の約6分の1が猛暑日ってのも異常な話だ。

陽炎揺らめく天満宮の参道。石畳に猛烈な夏の陽射しが照り付けて、閃光のように跳ね返ってくる。まだお土産屋さんは何も開いていない時間ではあったが、それが逆に慎としていて神秘的でもある。この日も普通に最高気温が36℃を超える猛暑日だったようで、暑いのは知ってたから朝8時くらいに参拝に行ったんだけど、それでも既に30℃超えてたんじゃないかな・・・と。額から流れ出る汗をタオルで止めて参道を歩く。朝もはよから打ち水に勤しむ太宰府の民。あまりにも熱心過ぎて私の姿が見えていなかったのか、水を引っ掛けられそうになったのはご愛敬だ。

太宰府天満宮。藤原時平により菅原道真公が奸計にかけられ、京の都から遠く九州の大宰府に流された挙句、彼の地で客死してしまった道真公の無念を祀った・・・というのが一般的なイメージでしょうか。幼き頃から漢詩を嗜み、学問を究め、時の権力者すら畏怖したというその頭脳の明晰さで時の権力者に仕えた道真公は、没後に学問の神様として「天神様」の称号を受け、この太宰府を総本山に全国へと信仰を広めました。ちなみに、私は太宰府天満宮というと、さだまさしの「飛梅(とびうめ)」という曲を思い出してしまうんですよね。その曲の冒頭、「心字池に架かる三つの赤い橋は 一つ目が過去で 二つ目が今・・・」というくだりがあるのだが、鳥居をくぐってその心字池にかかる一つ目の橋を見たら、「ああ!これがさだまさしの『飛梅』の!」となって、その歌詞が頭の中で強烈にフラッシュバックしたのでありました。

太宰府天満宮の本殿。本殿・・・?とちょっと進んで横に回ってみると、何のことはない、現在太宰府天満宮は2027年(令和9年)に行われる式年大祭のために、去年の5月から約3年に亘る本殿の大改修工事を実施しているのだそうだ。お参りできるのは手前の仮設の神殿までで、正面から見た時に足場とネットが組まれた本殿の姿を隠すように屋根の上に不自然な植栽が載せられていると言う訳だ。本殿の工事は124年ぶりだというのだから相当な大工事なのだが、意外に私はこの手の「改修工事中」に付き合わされることの多いタイプで、何年か前に伊勢神宮に行った際は「式年遷宮」だとかで本殿が見れなかったし、3年前に道後温泉も行ったときは本館が大規模工事中で入浴できなかったし、去年の夏は出雲で国鉄の旧・大社駅が大規模修繕中で姿すら見れなかった。重要文化財ものの建築物の大規模修繕ってのは年単位で時間がかかるのも珍しくはないので、別に私だけがそういう訳でもないのかもしれんが、なんか多いよね。調べてないだけ、と言われればそれまでなんだけどさ。なんか締まらないなあ・・・

若干拍子抜けしたような感じから気を取り直して参拝を済ませ、学問の神様ですから子供たちの学業のご利益を賜りたくお札なんかを授け、お守りをいただく。梅の花があしらわれた紙包みを恭しく仕舞って、心字池に架かる三つの橋を渡って参道を戻る。太宰府のみならず、天満宮・天神様と言ったら「梅の花」であるのだが、これは、菅原道真公が生涯に亘り梅の花を愛した故事にちなむ。道真公が太宰府に流される際、自宅の庭の梅に向かって詠んだ「東風吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なきとて 春な忘れそ」の句はあまりにも有名ですよね。ようは「東の風(春風)が吹いたら、主人の私がいなくてもちゃんと花を咲かせて、その香りを(太宰府まで)届けておくれ」という別離の歌なのだが、梅の花は道真公を慕って京の都から一晩で飛んできて、太宰府に花を咲かせた・・・というのがその後に伝わる「飛梅」の伝説。さだまさしの「飛梅」という歌は、男女の別れ間際のすれ違いや心情の機微というものを太宰府と道真公のエピソードになぞらえて綴った切ない春の失恋ソングで、「あなたがもしも遠くへ行ってしまったら 私も一夜で飛んで行くと言った」という一節に、飛梅伝説のエピソードが織り込まれている。グレープを解散してソロとなったさだまさしの初期の名曲である。

駅までの帰り道、行きには開いていなかった梅ヶ枝餅のお店が開いていて、声をかけると一つ持ち帰りで焼いてくれた。さだまさしの「飛梅」では、「きみ(女)が一つ、ぼくが半分」を食べた梅ヶ枝餅。普通は逆だろう?と思うのだけど、そこらへんに二人の間に吹くすきま風というか、「ぼく」の方が関係が終わりに近いことに気付いていて、食べるものも喉を通らない感じが表現されていて繊細である。かくいう私は一緒に食べる相手もいないので、一人で一つ梅ヶ枝餅を頬張る女性側の立場でかぶりつくと、香ばしい焼き立ての餅の中から熱い餡子が飛び出てきて手も口の中も一緒に大火傷しそうになった。いやもうホント、熱いのは気温だけで十分だわ・・・

二日市へ戻る太宰府線の車内で冷房に当たって、やっと人心地着いた気になって振り返るのは暑くて熱い太宰府の夏、いずれにしても夏。

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梅香る、西鉄最古の参詣路線。

2024年09月18日 17時00分00秒 | 西日本鉄道

(ちっちゃなころから悪ガキで@西鉄久留米駅)

二日目の朝の西鉄久留米駅。前日は、二日市温泉の博多湯に寄った後、夜遅くの西鉄久留米駅まで行き、駅チカの商店街の居酒屋で軽く飲んだ後駅前のホテルに入って早々に寝てしまった。久留米の街も観光すればそれなりのものがあるのだと思うのだが、今回は寝るだけの街になっちゃったかね。朝起きて着替えを済ませ、ホテルの無料朝食の夏野菜カレーをゆっくりと食べて西鉄久留米駅前へ。昨夜は暗くてよく分かんなかったけど、なかなか立派な駅ですね西鉄久留米の駅。もとより西鉄大牟田線において、久留米市は福岡市に次ぐ沿線第二の都市で、人口は約30万人弱。駅としても天神・薬院・大橋に次ぐ第4位の乗降人員を誇っていて(2023年度29,261人)、街外れにあるJR久留米より西鉄久留米の方が利用者数が圧倒的に多く、ダブルスコア以上の差がついているそうな。2Fに駅が入る商業ビル「エマックス・クルメ」は地上4階建て。西鉄ストアをはじめ、ドラッグストアに100円ショップと生活に密着したテナントが並んでいます。その他は博多鳥皮や久留米ラーメンのご当地グルメもありますが、あとはスタバ、タリーズ、ゴンチャといかにも「っぽい」テナントが入っていて、さして面白みはありません(笑)。

ところで、個人的には「久留米」と言うと我々世代ではチェッカーズなんですけども認識間違ってませんかね?(笑)。藤井フミヤはお父さんが国鉄マンで、本人も久留米の高校を出てからデビューするまで国鉄の鳥栖駅に勤めていたのは有名な話でしょうか。全くどうでもいい話であるが、会社の若い子とカラオケに行ったとき、彼らのデビューシングルである「ギザギザハートの子守唄」の一節、「ちっちゃなころから悪ガキで 15で不良と呼ばれたよ」を「週5で不良と呼ばれたよ」と思い込み、「週5で不良と呼ばれてるよっぽどのワル」という理解をしていた子がいて笑ってしまったのを覚えている。この曲が世に出た1983年ってまだ週休二日制が導入されてなかったから、「週5」という概念がなかったのではないか(笑)。そんなどうでもいい話を思い出しながら、早朝の西鉄久留米駅の改札を抜ける。「筑紫まで追い越されません」って表記は面白いね。関東だと「筑紫まで先にまいります」になるので。そういういちいち細かいところに目が行くの、我ながら面倒くさいスタンスで生きているなあと思う。

西鉄久留米6:20発、急行西鉄福岡(天神)行きでサクサクっと二日目を始める。西鉄電車、朝の女性専用車は一番大牟田寄りに付いていますが、今の時間はまだ適用外なのでご心配なく。そして西鉄の弱冷房車はこれも編成の一番大牟田寄りに付いていて、イレギュラーがなければ女性専用車=弱冷房車という取り扱いになっているようです。一般的に女性の方が「冷房は寒い」っていう人が多いと思いますし、これはいい取り組みですね。この急行は5000形の3+4=7連ですけど、西鉄は優等列車でも5+2=7連や3+3=6連とか、異形式連結の4+2=6連があったり、2+2+2のブツ6連があったり。そもそも種別ごとの両数が揃ってないのもあるし、なかなかバリエーションも多彩。以前は4+4=8連もあったようなのだけど。

西鉄久留米から急行電車で25分、昨日は温泉に入るために途中下車した西鉄二日市へ。ここから太宰府線に乗り換えて、太宰府天満宮に行こうと思ってるんですよね。勿論、折角なんでも乗れるきっぷを持っておるのだから、この際西鉄を完乗しておきたい!という気持ちもある。というてもまだ朝早いので、そんなに急いで太宰府に行ったってしょうがない。てなわけで朝の平日のラッシュ時間帯、バンバン走って来る福岡方面行きの通勤列車を集めて行こうと思います。まずは3000形の5連「旅人」。太宰府周辺の観光情報でラッピングしている。西鉄の普通列車、地域の流動によって2~6両まであってこれも両数が一定しない。3000系自体も2・3・5連の固定編成があって、組み方のバリエーションが多彩ってのもある。

6000形4連+7000形2連の混結でやって来た急行西鉄福岡(天神)行きと、最新鋭の9000形の急行花畑行き。西鉄の9000形、同じ川重製造ということで京阪13000系とかあのあたりのデザインが流れ込んでいる感じがする。前面ガラス下部を曲線で処理しているところとか。西鉄の通勤系電車って、現役では最古参の5000形から始まって6000→6050→7000→3000→9000と続いているのですけど、3000形のところで遺伝子がプツッと途切れてますよね。それまでの鋼製車にアイスグリーンの塗装という流れから、ここでオールステンレス車体&無塗装を受け入れてるからなんですけどね。京急なんかはステンレスを受け入れてもフィルムシールでボディにカラーリングを施したりしましたが、9000形は西鉄の車両にはちょっとピンとこない臙脂色のカラーリング。アイスグリーンじゃないのね・・・。そして3000形の2+2+2のブツ6急行西鉄福岡(天神)行き。6両編成の列車の全車両に運転台がくっついている変態仕様。こういうのは座席が少なくなるからラッシュだと詰め込みが効かなくなるんで、関東だと東武しかやらないですねえ(偏見)。

ひとしきり朝ラッシュの西鉄電車を眺めた後、西鉄二日市駅の大宰府線ホームへ。線内折り返しの5000形4連がのんびりと運用に就いていた。昭和50年から製造が開始されて、今でも西鉄では最大勢力の車両数を誇る形式ですが、既にデビューから50年。最近になって廃車となる編成もちらほら出ており、総計で118両まで増備された車両数も現在では100両をちょっと欠けるくらい。これからは「新時代の通勤型車両」としての位置付けで開発された9000形が増備されていくでしょうから、徐々にその両数は減って行くものと思われます。両数があるから一気にラストランってこともないと思うけど、東急の8500系とかも何となくぼんやりしてたらいつの間にか営業編成がいなくなってしまったからねえ・・・そういうのってあるよね。

太宰府行きの5000形4連は、まばらに過ぎるお客を乗せて西鉄二日市の駅を出ると、いかにも支線だなあ!という感じでキイキイと車輪を軋ませながら右に曲がり、中間駅をひとつ止まったか止まらないかくらいの雰囲気でフワっと通り過ぎた後、あっさりと終点の太宰府駅に到着した。正味10分もない短い支線の旅である。こういう「目的」のはっきりした路線にありがちなあっさりとした短さっていいよね。関東で言うところの西武狭山線みたいな。もとより、この太宰府線が太宰府天満宮の参詣路線として馬車軌道で開通したのは明治35年(1902年)のことで、天神大牟田線を西鉄の前身である九州鉄道が建設したのが大正11年(1924年)の話。現在は支線扱いはされていますけど、路線としては太宰府線の方がだいぶ先輩に当たるんですよね。

太宰府の駅は、全国の天神様の総本宮である太宰府天満宮の最寄り駅でありますので、ホームの柱は緋色に塗られ、天満宮にゆかりの梅の花があしらわれた垂れ幕がホームを飾ります。筑紫野は太古の昔から国府(太宰府)が置かれた西国九州の国家の中心地、考古学の好きな方には見どころは多く、天満宮の他にも各種名所旧跡には事欠かない街です。それゆえに太宰府線は参拝客や観光客が中心の客層・・・と思われがちなんですが、どっこい周辺は福岡都市圏のベッドタウンでもあり、筑紫台高校(旧筑紫工業高校)などを擁する学生の街。この時間は上りの電車に乗って福岡方面へ出勤する人や、夏休みですが学生の姿もあり、日常の生活路線としても重要な路線となっています。ラッシュ12~14分間隔、日中13~17分間隔という微妙に異なるダイヤで、短い路線を一生懸命、忙しなく日がな往復しています。

五月雨式に乗って来るホームの乗客たち。
時期を確かめて車掌さんが吹鳴一斉、二日市行の電車が発車して行きます。

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トラディショナルに魅せられて。

2024年09月16日 08時00分00秒 | 西日本鉄道

(バスを待つ、君と繋がる熱帯夜@西鉄二日市駅前)

西鉄福岡(天神)から夕方ラッシュの特急に乗り、混雑した車内から暮れて行く筑紫野の街を眺める。そのまま久留米まで乗っていても良かったのだけど、西鉄二日市の駅で途中下車。駅西口の西鉄バスのバスのりば、行き先ごとに手書きの看板が掛かっていて、なんともひと昔前の雰囲気が感情に訴えかけてくるねえ。ところどころ消された行き先に「かつての栄華」を偲ぶ部分もあるのだけど、西鉄バスってのは西日本最大のバス会社ですから、これでも路線は十分に維持されている方とも思う。もとより九州、たびたび災害によって寸断される鉄道より今や高速バスが都市間輸送の主力となっている感もあって、九州の高速バスが乗り放題の「SUN-Qパス」なんていう企画券も旅の強い味方。そして路線バス部門に目を移せば、福岡都市圏を旅しているぶんには、だいたい西鉄バスがどこでも連れてってくれるという強力な安心感がある。

夜になっても蒸し暑いバスのりばにやって来た西鉄バス。西鉄二日市とJR二日市の二つの駅を繋いで市街を循環するルート。西鉄とJR、同じ名前を持っていても駅がだいぶ離れていて、特に西鉄二日市とJR二日市、西鉄久留米とJR久留米なんかはちょっと歩くのが面倒なくらいの距離がある。小岩と京成小岩、佐倉と京成佐倉くらいの位置の齟齬があるので、利用される人は注意した方がいいのかもしれない。JR二日市に行きたいんだったら、むしろお隣の紫駅から歩いたほうが近いのだが、紫駅は普通電車しか止まらない駅なので利便性が薄いのが泣きどころ。こちらだとJR西船橋→京成西船くらいの感覚で乗り換えることが可能なんですけどね。とりあえずすべて京成で例えてみた(笑)。

西鉄二日市駅からバスに乗って10分、やって来たのは二日市温泉の温泉街。温泉大国・九州の中でも二日市温泉は特に長い歴史を持つ温泉で、開湯は奈良時代ともいわれる古湯。「博多の奥座敷」と呼ばれる温泉場には、今でも5軒程度のホテル・旅館が軒を連ねていますが、道路を挟んだ向かい合わせに「博多湯」と「御前湯」という共同浴場があって、ここを中心に二日市温泉の中心街が形成されています。共同浴場の「博多湯」は1860年(万延元年)の創業。中の造りは岩風呂の内湯一つながら、特に掛け湯から硫黄の香りと新鮮な金気がプンプン薫って思わず顔がほころぶ。浴槽にも新鮮で適温のぬる湯をガンガン掛け流していて、良泉をシンプルな湯使いで味わえる最高の施設でした。九州には別府・雲仙・指宿を始めとして湯布院・黒川・長湯に小浜・嬉野・武雄など、ありとあらゆる泉質の有名温泉地がありますから、あえて二日市温泉でもないのかもしれませんが、博多の近くにこんないい温泉があったんだねえ。バスの時間があってあまりゆっくりできなかったが、天神から来る価値はあります。

博多湯で汗を流し、市内循環線の最終バスで西鉄二日市の駅へ戻る。久留米の宿に向かっても寝るだけなので、駅前のコンビニで缶チューハイを買い、チビチビと飲りながらしばらくやって来る電車を撮影することに。西鉄二日市の駅は太宰府線が分岐する特急停車駅で、4面5線の非常に広い構内を持ちます。夕方のラッシュも引けた頃合い、広いホームの端っこに人の姿は少なく、安全な場所で静かにやって来る西鉄大牟田線の電車を愛でる。地元の方はいつも見ている電車ばかりで、さしたる珍しいものでもないんでしょうが、こちとらはるばる神奈川県から西鉄電車を見に来た訳ですから、やって来る車両それぞれに発見と驚きがあって興味は尽きない。そして、5000系7連特急西鉄福岡(天神)行きの尊さといったらどうだろう。昭和50年デビューのこの車両、物心ついたころから図書室の「カラーブックス・日本の私鉄(保育社)」ほかの書物を読みふけり、色々な大手私鉄の車両を憧れを持って眺めていた私。その時代の西鉄の電車と言えば、特急車の2000形と通勤型の5000形がそれぞれのイメージリーダーという感覚が強くあるのですよね。左右非対称のパノラミックウインドウに、川重らしい円筒案内型の重厚な台車。そして西鉄カラーのパステルなアイスグリーンをキリリと引き締める鮮やかなボンレッドの帯!これぞ西鉄通勤車のトラディショナルスタイルではないだろうか。

この車両に魅せられて、二日間追い掛けてしまったのは言うまでもありません。

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