青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

弥生・養老渓谷

2024年12月11日 17時00分00秒 | カレンダー

(石神暮色@小湊鐵道・上総大久保~養老渓谷間)

弥生三月、小湊鐵道。春になるとアクアラインを渡って、束の間の里山風景に包まれに行くことは定番のルーティーンなんですが、房総半島の里山も、私がカメラを握り始めて20年も経ちますとですね、だいぶ変わってきていますよね。コロナ前から上総牛久以南が特に顕著でしたが、小湊自慢の里山風景に翳りが見えています。田んぼが減り、畑が減り、雑草が跋扈して、空き家が増えて・・・20年前にこの風景を支えていた元気な60代が、現在80代。当たり前だけど、亡くなる人もいるのだろうし、離農して後継ぎがいなかったり、農家を捨てて老人ホームへ入ったりと、さまざまな事情によって人口がだんだん減っているんだなあという印象がありましたけど、コロナ禍以降はそれが加速度的に広がっている感じがするんです。年寄りに「コロナの5年」ってのは何かを手仕舞ういいきっかけになってしまったというか。対する小湊鐵道自身も、全線がコロナによって減便されてダイヤもそのままなんだけど、そもそも運転士不足でダイヤが戻せないんですよね。目玉商品の里山トロッコは牽引機がエンジンの重大故障で長期運休中なのですが、その代替役を担うはずだったキハ40を使った土日の観光急行が運転士不足で運行休止になっているし・・・小湊は収益の柱であったバスも要員不足が甚だしくて、度重なる減便減便で公共交通としての体を成さなくなっている悪循環。小湊鐵道グループ、首都圏に近いことが売りでもあり弱みでもあって、風の噂では給与体系のいい同業他社や運輸業界に人員が流出してるとも聞きますね。どこも人員確保をするのに給与を引き上げているけど、それができる会社とできない会社があるのは資本主義の論理。行政から低廉に運賃を抑えられている公共交通ならではの悩みと言えましょうか。

なんかつまんない話をしてしまったが、春の夕暮れの石神の菜の花畑。昼間の喧騒はどこへやら、この時間まで粘ってカメラを振り回しているのは私だけだった。
うすぼんやりした黄色の絨毯の上を、最終の中野行きのキハが通り過ぎます。

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如月・中塩田

2024年12月09日 17時00分00秒 | カレンダー

(塩田平、冬の夜@上田電鉄・中塩田駅)

2月。1月とか2月のうちは、クルマのタイヤもスタッドレスに変えて、どこかの路線の雪景色でも・・・というのが通例。そこら辺を狙って、「北陸フリーきっぷ(能登復興割)」を使って新幹線の敦賀開業直前の北陸路に行ったりしたんですよね。北陸だからね、それなりに雪景色なんかも見れるかなって思ってたんですけど、福鉄もえち鉄も雪なんか全然なかった。旅自体はそれなりに楽しかったんだけど、さすがにそこはかなりの拍子抜け・・・ということで、2月のアタマに長電に行ったついでに立ち寄った塩田平の冬景色を。長電も、山ノ内界隈にちょこっと雪があっただけでもの足りないことこの上なかったのだが。いやいや、北陸と甲信越でこんなに雪がないのなら、もうスタッドレスいらないんじゃないのかと。総体的な話をすれば温暖化ということなんだけど、本当の雪景色を見るのも楽じゃなくなってきましたねえ。2024~25の冬はエル・ニーニョでそれなりに寒く、降雪も多いという長期予報ですが、どうなりますでしょうか。

「上田ブルー」とも言える、独特の緑がかった薄水色。別所温泉・八木沢・そしてここ中塩田に残るレトロな駅舎は、「上田丸子電鉄」時代の面影。
あの頃と同じ色をした電車が、そっと夜のホームに滑り込みます。

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睦月・川間

2024年12月07日 10時00分00秒 | カレンダー

(川面に映る青空や@東武野田線 南桜井~川間)

早くも12月なので、恒例のカレンダー企画をぼちぼち始めてみることにするのだが、2024年はどうでしたかねえ。まあ、そもそも1月1日から能登半島の巨大地震が起こってしまったし、各地の自然災害は続いて東北や中国地方で鉄路の寸断は続くし、少子高齢化の中でのインフレと雇用状況の悪化で経営自体がままならず、いすみ鉄道は脱線事故に起因した全面的な路盤回収の必要があって長期運休中だし、やはり脱線事故から全線のレール補修で長期運休を余儀なくされた弘南鉄道は、長年存廃論議に揺れていた大鰐線の廃止を表明しましたよね。単なる乗客減の赤字困窮というこれまでの形とは異なり、働く側からのインフラの瓦解みたいなものが目立ってきて、鉄道を維持するための新たなフェーズに入って来たなあ・・・という感じも致します。JR東日本も、12月に入って2025年春以降の大規模な値上げを発表しましたが、とかく喧伝されるのが少子高齢化&コロナによる収益の先細りと、高騰するインフラ維持コストと従業員確保のための人件費増という四重苦。そもそも、JREなんかは社長自らが「いかに鉄道に依存しない収益体制を作るか」と言ってはばからないですからねえ。JR東日本も久留里線の末端区間の廃止を表明しましたけど、これは災害などの外的要因に因らない初めての廃線なんだそうですね。そういう「今までになかったこと」は、来年以降もボ-ダレスに次々と現れて来るであろう鉄道業界。「なくなる」とか「終わる」の話はこの趣味の常なので、したいことはさっさとしておいたほうがいいようです。

さて、2024年1月は・・・年末に撮りに行って消化不良だった東武8111Fを改めて追っかけて江戸川の鉄橋まで行ったんだっけかな。野田線も、新車の80000系の投入が発表されてますし、東武本社も「野田線は新車を入れて5両に減車」というのが基本計画なので、8111Fはあくまでそれまでの時間稼ぎでしょうからね。いついなくなってもいいように、しっかり撮り残しのないように撮っておくほうがよさそうです。

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武甲、足早なブルーモーメント。

2024年12月05日 17時00分00秒 | 西武鉄道

(武甲暮色@西武秩父線・横瀬~芦ヶ久保間)

秋の夕暮れは早く、秩父盆地を青みを帯びた光が支配する頃。ブルーモーメントを突いて、スカーレット&ベージュのカラーリングがやって来た。はざがけの稲穂が残る、秩父盆地の晩秋の風景である。武甲の山を見上げれば、石灰石の採掘のためにベンチカットで切り崩された山肌を露わにしていて、この日はそれなりに天気が良かったのだけど、ついぞ頂上は姿を現しませんでした。武甲山は北面(横瀬町側)の採掘現場には立ち入ることが出来ないんですけど、横瀬町を流れる生川(うぶかわ)上流の登山口から南側の斜面を伝って頂上へ登ることは出来るそうだ。武甲山は、秩父盆地のどこからでもまんべんなく見ることが出来るけれども、それと同様に武甲山の頂上からの展望はそれはそれは素晴らしいものらしい。平均的なハイカーで登山口から2時間半前後の登山ということですが、E851カラーであれば、夏場の午後なら武甲山側からも順光になるだろうから、この生川の築堤なんかは大三元レンズで頂上から狙ったら映えるだろうなあと思うのであります。

まあ・・・クルマで行けるお手軽俯瞰を楽しむのがせいぜいの私には、縁のない事でございましょうが(笑)。

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在りし日の 高麗の思い出 白き道。

2024年12月03日 17時00分00秒 | 西武鉄道

(小春日和のカーブを切って@東吾野駅)

「ジャンボくん」ことE851カラーの特別車両が、第7高麗川橋梁のカーブを渡って東吾野の駅に滑り込んでくる。高麗川に綾なして続く奥武蔵の鉄路は、何度も何度も高麗川の流れを渡っては峠道を詰めて行くのだが、高麗駅の先の第1高麗川橋梁から正丸駅の手前の第15高麗川橋梁まで、西武線にはなんと15もの橋梁がある。正丸峠に源を発する高麗川は、下流の坂戸市で越辺川に合流し、川越市で入間川に合流し、最終的にはさいたま市の北部で荒川に合流する一級河川で、荒川水系の一部。早朝からのお務めだったのか、早くも帰り支度のハイカーが陽だまりで電車を待つ東吾野の駅。まだまだ盛りには程遠い奥武蔵の紅葉だけど、山へ登ればいくばくでも色づいているのだろうか。

突然現れたE851カラーに興味深そうな親子連れ。お父さんがしきりにカメラを構えていたあたり、鉄道ファンの親子だろうか。親から子へ伝える郷土の歴史とその色である。ただ、こういったケースではお父さんだけが興奮して喜んでいるばかりで、子供は「?」となっていることもままあるものです。私がそうでしたからよく分かります。割とお父さんの好みで息子の趣味関連を英才教育して、お出掛けなんかのダシに使う、というテクニックはあると思うんだよな(笑)。

西武鉄道のセメント輸送の残滓を訪ねつつ、「ジャンボくん」を沿線のモチーフと合わせるべくロケハンをしてみる。この4017FがE851のカラーを纏うとなった瞬間、思い浮かべてしまったのは東横瀬の風景じゃなくてこの高麗駅のセメントサイロと引き込み線のことでした。満載のセメント貨物を持ったE851が、一回飯能方面に乗り越してから推進運転でこのサイロの脇まで貨車を押し込んでいたのだそうで・・・今は引き込み線の跡地は高麗駅脇の月極め駐車場になっていますね。ちなみに何年か前までは、セメントサイロにもちゃんとスリーダイヤと「三菱マテリアル」の文字が書かれていて、目に見える形で遺構として残っていたんですけどね。いつの間にかスリーダイヤのロゴと書き文字が白く塗りつぶされていた。

西武秩父から返してきた「ジャンボくん」を高麗のセメントサイロと合わせて。最盛期は、東横瀬から高麗駅のサイロまでは毎日3往復のセメント便があったそうで、セメントは東横瀬から高麗駅のストックポイントに運ばれて、そこからトラックに積み替え周辺に輸送されて行ったものと推測されます。そして、高麗駅の周辺には飯能の名峰・天覧山から尾根が続く多峯主(とうのす)山の北側を切り開いたこま武蔵台、横手、永田台と西武グループが開発した三つの大規模ニュータウンがあって、この高麗駅のストックポイントからも造成用の擁壁や構造物を作るための原料が現場に投入されたのではないだろうか。西武秩父線が開通したのが1969年(昭和44年)、こま武蔵台の分譲開始が1977年(昭和52年)。造成工事期間を含めて、何となく時間軸としては合っているような。

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