青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

思い出は 遥か松虫 風の中。

2022年06月18日 15時00分00秒 | 阪堺電軌

(一瞬の静寂@住吉鳥居前電停)

賑やかな住吉界隈、休日の午後。クルマや人波が一瞬途切れた静寂、我孫子道から返して来たモ161が住吉鳥居前の電停にやって来た。住吉さんの森の緑も鮮やかな季節、深い緑のボディが黄色味を帯びた若葉と良いコントラスト。遠目からでも分かる車内の混雑に、この古典車両の人気の高さが伺い知れるのであります。

大きな一灯ライトを輝かせてやって来た天王寺駅前行き、住吉電停からモ161に乗り込む。味のしみた板張りの床。勿論、デビューしてから何回も何回も張り替えられてはいるのでしょうけど、脂が染み込んだしっとりとした風合いに、人の流れや移ろいが入り混じったような小傷がたくさん。90余年の車歴の中で、どれほどの人を運んだか分かりませんが、皐月の風吹き抜ける車内で、私もその悠久の歴史の中の一人になりました。

ニス塗りの車内、多少のテカテカ感も昭和レトロ。コロナ禍以降に付けられたビニールの仕切りが無粋なことこの上ありませんが、運転室の背板と屋根を繋ぐ部分に施された金属の意匠は、この時期の電車に特有の装飾で、ことでんのレトロ車両なんかにも同様の装飾があったのを思い出します。

電停ごと、天王寺方面へ向かう乗客が乗り込んで来る阪堺電車。木製のドアの向こうに、帝塚山の街並みと暮らしがあります。帝塚山は、大阪の中でも割と高級住宅街と言われている地区なのだとか。阪堺電車の沿線と言われると、それこそ上町線の今池やら北天下茶屋やらの「大阪のコッテコテな濃いトコ」ばかりが注目されますけど、阿倍野の南に広がるこの辺りは静かな区割りの大きな街並みと、ちょっと小洒落たカフェや雑貨屋さんが並んでいます。

天王寺の手前、松虫の電停で下車。ここで折り返して来るモ161を待つ算段。この辺りは帝塚山の高級感ではなく、いわゆる「ミナミの路地裏」っぽさが色濃い。阿倍野のはずれにあるこの電停の名前は、どうしても童謡「むしのこえ」を思い出してしまう。あれ松虫が鳴いている、チンチロチンチロチンチロリンってヤツね。この松虫の地名の由来は、謡曲「松虫」の中に出てくるワンシーン、阿倍野と呼ばれた寂しい草原で、酒を酌み交わす中で亡くなった旧友を偲び詠まれた「秋の野に人まつ虫の声すなり」という和歌から来ているそうですが。

天王寺のシンボル、超高層ビルとなった「あべのハルカス」をバックに折り返して来るモ161。今の阿倍野の姿を見ると、「秋風吹き松虫の鳴く寂しい草原」を思い起こすことはなかなか難しいかもしれない。夜などに撮影すれば、後ろのハルカスに窓の灯りが付いてまた違ったイメージの写真になるであろうか。

煌びやかな超高層ビルの下で、いつも通り地に足を付けたミナミの暮らしがある。長屋風にせせこましく続いた路地、2階のベランダに無理やり付けたような室外機の連なりにも何とも下町っぽさがあるような。これで「てっちり」の赤ちょうちんに灯が入れば完璧なんだけど、その時間まではなかなか居れそうもないのがちょっと残念ですね。

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阪堺の 大長老の お出ましじゃ。

2022年06月13日 22時00分00秒 | 阪堺電軌

(何とも味の染みた暖簾@住吉大社前)

南海住吉公園駅前、そして阪堺電車の住吉鳥居前電停に面した不動産屋の暖簾。「南海商事」という名前は別に南海の系列・・・って訳でもないのでしょうが、なんとなくこの街が南海電車とともにある事を示しているような気がしますね。水間鉄道の訪問を終えて、あとは新幹線に乗って神奈川に帰るだけなんだけれども、夕方まで住吉界隈で阪堺電車を撮る事にしました。

住吉大社の石灯篭と、三井住友トラスト不動産ラッピングの500形。阪堺に来るのは久し振りだったけど、何気に色使いがレモンイエローとスカイブルーで、これが最近流行りのウクライナカラーってやつですかい?と勝手に邪推してしまう。そんなメッセージ性があるのかどうか。まあ広告主もそこまで考えちゃいないと思うけど・・・

ウクライナカラーって言えば、700形の岡崎屋質店のほうがよっぽどウクライナなのだが、これはずーっと昔からこの色なのでまさにそんなメッセージ性は全くない事は明白。いつもの岡崎屋質店である。住吉電停から恵美須町方面へ。路地に香ばしく流れる香りは住吉名物「まむしのいづもや」の鰻の香り。いつも大勢の人が並んでいて、いつか食べてみたいと思いながら叶わないでいる。並んで食うくらいならデンシャ撮影してた方がいいと思ってしまう貧しい性分のせいなのだが、もう少し旅先での余裕が欲しいものである。

水間の後に阪堺に来たのは、GWの特別運行で、普段は運用に入る事の少ない古豪モ161号が運用に入っているというのを聞きおよびましてね。まあ、物見遊山と言うかミーハー的な感じですが、日本の鉄道車両でも間違いなく五本の指に入る古豪。昭和3年川崎車輌製造の路面電車は、御年94歳の古強者。本来であればとっくに廃車されていておかしくない経年の車両ではありますが、阪堺の大長老的なその存在感にファンも多く、最近になってクラウドファンディングによって見違えるように美しく再整備されました。

緑と言うにはちょっと深めのフォレストグリーンに身を包み、重厚なツリカケ音と共に住吉の併用軌道へ出て来たモ161。この運用は公開されているので、住吉の沿道はさながら阪堺ファンでお祭り状態。先日「アド街」で住吉大社が紹介されていた際にも、堂々2位にノミネートされた阪堺電車の代表として紹介されていたのがこのモ161。ファンの方に聞けば、やはりツリカケのモーターが奏でる「音がたまんねえ」のだとか・・・ゲストのタレントは「?」みたいな顔をしておったのですが、同輩の私にはすごくよく分かる話。私も暫し、大長老の奏でる音楽に身を委ねて、大阪のダウンタウンへ繰り出してみようかと思うのである。

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お盆関西見聞録その13 変わらなきゃ阪堺

2015年09月13日 07時31分23秒 | 阪堺電軌

(チン電に 乗ってお出かけ 孫と祖母@東湊駅)

御陵前の電停から堺の旧市街をフラフラと歩いて東湊の駅まで。さすがに午後とは言え夏の日差しを浴びて歩くのには疲れて来たので、しばらくここで休憩する事に。終点の浜寺駅前まではあと少し、孫を連れたお祖母ちゃんが乗り込む下り電車には乗客もまばら。このモ351型は1960年代に当時の木造車両の更新のために製造された鋼製車で、地元堺にあった帝国車輛で製造されました。帝国車輛はその場所柄ゆえ南海電鉄との関係が深く、東急車輛製造と合併して同社の大阪工場となってからも、長い間南海に新造車両を供給していましたね。

 

堺市の南側の住宅街にある東湊の駅。天王寺方面行きのホームの真裏には「えびすや」というお好み焼き屋さんがあって、いい匂いが辺りにたなびいている。まともに食事もしてなかったせいもあって思わずのれんをくぐりブタ玉を一枚オーダー。中はカウンターのみの小さい店で、既に常連さんと思しき二人組が瓶ビールを並べてゴキゲンになっていた。いかにもな大阪のおっちゃん夫婦に焼いてもらったブタ玉を駅のベンチに座って食べる。大ぶりのキャベツにフワリとした生地の焼き加減は、材料こそ同じでもやっぱり素人焼きのお好み焼きとは違った美味しさなのであります。


少しお腹も落ち着いたところで、阪堺電車の旅もラストスパート。東湊から新設の石津北、石津、船尾を出ると阪堺電車は築堤で大きく南海本線をオーバークロスして海側へ。車窓右側に浜寺公園の松林が見えて来ると、電車は僅かな乗客を乗せたままスピードを落とし、終点の浜寺駅前の電停に到着しました。

 

阪堺電車の浜寺駅前電停。海側に浜寺公園がある以外は閑静な住宅街の中にある。駅周辺に繁華街がある訳でもなく、何となく中途半端な場所で終点になっているなあと言う印象だが、昭和初期にはこの浜寺公園は白砂青松の景勝の地であり、夏は大阪方面からの海水浴客で大変な賑わいを見せたそうだ。今は埋め立てにより海岸線は遠く離れてしまっており、公園の松林だけが「海に近いんだなあ」と言う雰囲気にさせてくれる。

  

阪堺電車の浜寺駅前を出て左側には、かつては海水浴客を奪い合った南海本線の浜寺公園駅がある。明治40年、南海鉄道の開通と同時に作られたこの駅は、後に東京駅や日本銀行の本店などの設計を手掛ける辰野金吾氏の設計で作られたものです。辰野金吾氏は後の東大工学部にあたる帝国大学工科大学の学長を務めた人物で、突き出た車寄せの柱の一本一本に施された彫刻や壁のデザイン、2階にあしらわれた三角のドーマー窓の洒脱な感じといい、駅舎の醸し出す風格に圧倒されます。この駅には来てみたかったんですよね。

 

当時における鉄道と言うものは、西洋からやって来た文明の象徴であり、駅の柱に触れてみると、西洋に追い付け追い越せと一生懸命な時代のエネルギーが洋館作りの駅舎から伝わってくるようだ。その歴史といいデザイン性といい、南海本線の浜寺公園駅は国宝級の鉄道遺産なのでありますが、堺市が進める南海本線の連続立体交差事業に伴いその役目を終えようとしています。さすがに登録有形文化財としてもこの駅の価値は万人が認めるものであり、高架化後も保存されるようではありますが…

 

浜寺駅前の電停から折り返しの阪堺電車に乗って再び天王寺方面へ。浜寺駅前は一応出札口があって、日中は駅員も常駐しているようです。浜寺公園にはプールもあり、ちょうどプール帰りの子供たちが乗り込んだ阪堺電車は割と賑やかに浜寺駅前を出て行きます。西日に照らされた車内、堺市内をゴトゴトと走り抜ける電車に揺られて暫しうたた寝。


電車は大和川を越え、住吉の鳥居の前を通り、帝塚山の併用軌道を通って松虫電停までやって来ました。♪あれ松虫が鳴いている チンチロチンチロチンチロリン。日本の中の珍名駅のうちの一つでしょう。由来は大阪市阿倍野区の松虫通と言う地名から。で、その由来は後鳥羽上皇が寵愛した女官・松虫鈴虫姉妹がこの地に隠遁していた事に由来するとされているのだが、松虫鈴虫姉妹ってネーミングからして漫才コンビのようだ(笑)。とりあえず後鳥羽上皇と言われると自分はこのコピペが好きだ。懐かしいなw

  

松虫電停界隈からあべのハルカスを望む。レトロでクラシカルなチンチン電車に近未来的な高層ビルの取り合わせは、都電荒川線で言うと雑司ヶ谷のあたりからサンシャイン60を望むあのイメージでしょうか。松虫電停から天王寺駅前までは、あべの筋の上を併用軌道で走って行く阪堺電車。


夕日差し込む阿倍野交差点を行くモ351型。阿倍野電停から天王寺駅前までは、あべのハルカスだけでなく東急系のショッピング施設であるあべのキューズモールなど新型・大型の商業施設が開業しておりすこぶる賑やか。阿倍野、というのは天王寺駅の南側の一帯を指しますが、JRの駅は北側の地名を取って「天王寺」で、繁華街の地名は「阿倍野」、近鉄の駅名は「大阪阿部野橋」。三者三様なのがいかにも大阪らしい。


天王寺駅前で行きかう阪堺電車。駅前電停は1線しかなく、後続の電車は先発電車の発車まで駅の手前でしばらく待たされるシーンも多いですね…。天王寺駅前の電停はあべの筋に囲まれた川の中州のような場所にあり、地下道から狭い階段でしかアプローチが出来ないというおよそバリアフリーからかけ離れた状態。そのため、阿倍野地区の再開発に伴って、現在阪堺電車を含めた大規模な整備拡幅工事が始まっております。これによると、阿倍野交差点までの南車線の道路を2車線化し、阪堺電車は緑化帯を設置して道路の中央に移設。駅前電停はハルカスとキューズモールを繋ぐデッキからエレベーターと階段で直結し、立派な駅舎が改めて作られるようです。


すっかり夕方となり、駅前電停で電車を待つ人の波も延びて来ました。阿倍野地区の再開発と商業施設のオープンに伴い、天王寺駅前~浜寺駅前をメインルートとして上町線にテコ入れをした結果、この区間は乗客増の効果を享受しているようです。堺市内方面についてはひとまず行政からの補助金と言う形で当面の存続が確保された形となっていますが、新今宮や通天閣を擁する恵美須町方面の旧態依然とした感じから、今度は住吉~恵美須町間の存廃問題が出て来るような気がしてなりません。同区間の流動は南海本線で代替可能なこともありますしねえ。

いずれにしろ軌道路線と言うのは普通鉄道と比べてもより地元行政と密接に関係しており、生かすも殺すも大阪市と堺市の街づくりに対する考え方如何ではないでしょうか。天王寺駅前の再整備事業などからしても、阪堺電車も行政と連携して一生懸命変わろうと頑張ってはいるようですし、補助金とは言え久々の新車(堺トラム)も導入出来ました。宇都宮をはじめ、各都市で市街地活性化のためにLRT事業が積極的に検討されていますし、これからの阪堺電車には注目していきたいと思います。
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お盆関西見聞録その12 泉州堺の足として

2015年09月08日 22時56分29秒 | 阪堺電軌

(阪堺と言えば雲形デザイン@東湊駅)

阪堺電車と言えば、最古参のモ161型と、この雲形カラーのデザイン。何だかクリーニング屋の外壁のようなこの塗装は、個人的には阪堺電車のトレードマークだと思いますね。モ161型は冷房が付いていないので夏の時期はよほどのことがない限り運用に入らないので、訪問した時期が悪かったかな。正月の住吉大社初詣ダイヤの時なら、雲形デザインのモ161型が走っているのを見る事が出来るそうです。

  

今池の電停から乗った阪堺線を北天下茶屋で降りる。電停に繋がる路地は軽自動車が通るのがやっとと言うほどの狭い路地で、そこに一杯飲み屋やら古びた書店やらお好み焼き屋やらが肩を寄せ合うようにして続いている。阪堺線は上町線と比較しても、なおのこと大阪の土着臭が強い地域を走っているような気がするな。漫画の「じゃりん子チエ」って舞台がこの辺りだったと思うけど、まんまその世界観がそのまま広がっているんだよね。


住吉で上町線と合流し、恵美須町からの電車は車庫のある我孫子道まで。ここで後続の堺市内方面行きに乗り換えます。阪堺の車庫をちょっと域外からでも覗かせてもらおっかなー、という気分でいたのだが、残念なことにあんまりマニアの方がお好きでない現業の方がいらっしゃったため断念(笑)。いいじゃんよーちょっとくらい、とは思うのですが、思った以上にカメラを嫌がる方がいらっしゃる事も自覚しなくてはなりません。

  

我孫子道を出ると、電車は長い長い大和川の鉄橋を渡って大阪市から堺市に入ります。橋を渡り切った場所にあるのが大和川電停。堤防の縁にそのまま乗っかるようにある電停で、川っぷちにある工場から機械の物音が聞こえて来るだけの川風の停車場である。夏だからいいが、冬なんかここで電車を待っていたらめっちゃ寒そうである。


阪堺電車の大和川橋梁。橋長198.57mのプレートガーター橋であり、1911年に大阪の横河橋梁が製作した逸品。朝顔鉢のような鉄柱の返しの部分がとてもアーティスティックではないでしょーか。鉄柱同士を繋ぐトラスの部分も、大きくクロスしてある上の部分は細かな網目のトラスになってて美しいですよね。同じ大和川橋梁では、関西本線の第四大和川橋梁が有名ですけど(プレートガーターをワーレントラスで支えていると言うとってもトリッキーな鉄橋なんですよ)、阪堺の大和川橋梁も芸術的な土木遺産だと思いますね。

  

軌道車両が渡る橋としては、加越能鉄道(現万葉線)の庄川橋梁に次いで日本でも有数の長さなんじゃないでしょうかね。渡って行く車両の小ささが際立ちます。造りが細身でちょっと華奢に見えるくらいの橋ですけど、まあ乗っかる車両の大きさ重さを考えたらこのくらいでちょうど良いのかもしれない。

 

堺市内に入ると、綾ノ町から紀州街道に出てここからは併用軌道。道路に挟まれた専用地帯を走ります。専用地帯なので車の進入はありませんが、道路信号に合わせて歩みを止めるのは同じこと。信号も多くなかなか速度は上がりません。堺市は中世より交易都市として発展した商人の町であり、阪堺電車が走って行く紀州街道(旧道)の周囲には歴史的な文化財が多く残されております。その独特な地番の割り振りからも、古くから栄えた都市であることが窺い知れますね。

  

堺市内のこの辺り、電停の名前も大小路・宿院・寺地町とそこはかとなく歴史の由来を感じる名前が続きますが、江戸時代は徳川御三家の一つである紀州徳川家が参勤交代のために使うなど、紀州街道は大阪と和歌山を結ぶ重要な交通路だったんですね。ふと信号の名前を見ると「南旅篭町」とはまた由緒正しそうな地名です。

 

堺市内の併用軌道の最南端、御陵前電停付近を行く阪堺電車。天気予報は曇り時々雨くらいの話だったのに、すっかり晴れ上がった夏の午後。ハデハデしい広告ラッピングを巻いたモ701型同士が行き交います。シングルアームとZ型パンタとそれぞれに違いがあるようですが、軌道線車両だと大きなフトン叩きのようなZ型パンタの方がカッコいいかな。


泉州堺から大阪ミナミへの足として活躍して来た阪堺電車ですが、堺市内の利用については年々進行する乗客減により慢性的な赤字状態が続いており、完全に重荷になっている状況にあります。阪堺サイドも一度は不採算を理由に我孫子道以南の廃止を堺市側に通告するなど危機に瀕しておりましたが、協議の結果は堺市側が阪堺および親会社である南海に10年間で50億円の設備補助金や割引運賃の助成金(大阪市内→堺市内区間の乗り越しが290円→210円に割引)を出す事を条件に立て直しを図る事になりました。3編成が投入された「堺トラム」もその一環として導入されたものですが、この長期間における大型の助成は、大阪都構想とも絡み合い継続的な支援もいつひっくり返るか予断は許さない状況だとか。

御陵前から再び専用軌道に戻った阪堺線は、堺市の旧市街を南に向けて走って行きます。堺市駅から海側の臨海部と、南海高野線の堺東駅周辺の開発が進んでいるのに比べ、この辺りの旧市街は再開発もされず空洞化しているように思えますねえ。神戸電鉄もそうだけど、都市計画と人口流動の噛み合わせの悪さであっという間に鉄道事業なんてものは不採算に陥ってしまうものだと痛感させられる。計画では堺駅から堺東駅に向かって市内を東西に横断するLRT事業と結節するという活性化策もあったらしいのだが…
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お盆関西見聞録その11 ミナミの最も濃いトコを

2015年09月05日 23時15分26秒 | 阪堺電軌

(参道・鳥居・太鼓橋@住吉鳥居前電停)

住吉鳥居前電停を出る堺トラムこと1001型1002編成。阪堺電気の体質改善を目的に、堺市と国の補助金で導入された阪堺初の超低床車両。軌道用車両に特化したアルナ車両のブランドである「リトルダンサー」シリーズのひとつで、同系統の車両は全国の軌道線に導入されております。シャンパンゴールドの車体に堺市の花であるハナショウブのパープルをあしらった、落ち着いたカラーリングです。

   

2つの路線の交わる住吉電停は、住吉大社の北側の参道口に面しています。朝方の小雨交じりの天気から、雲間からは夏の太陽も顔を出して来て猛烈に蒸し暑くなってきました…恵美須町方面行きの電停は市道の真ん中の安全地帯にあるため、道路脇にはバス停よろしく待合所が設置されています。住吉大社の社殿を意識したであろうそのデザインは、たぶん結構な時代物なんじゃないかと思いますが…

 

先ほどは天王寺駅前から住吉まで上町線を下って来ましたが、今度は阪堺線に乗り換えて恵美須町方面へ。日中6分間隔の高頻度運転である上町線と比べて、阪堺線は日中15~20分間隔とだいぶ間隔が開きます。これは、阪堺線が恵美須町~住吉間をほぼ南海本線と並走しているせいもあるんでしょうねえ。住吉から続く併用軌道を東粉浜に向けて走る500型、マスコン回りはいかにも路面電車と言った感じの簡素な造り。そういや粉浜と言えば河合奈保子の出身地だよな。別に聖地巡礼してる訳じゃないけど(笑)。

 

電車は南海高野線の下を潜ると専用軌道区間に入り、新今宮駅前でJRへの乗り換え組がドッと降りると、車内は閑散として終点の恵美須町駅に到着しました。大坂の私鉄は大阪環状線の内側にターミナルを持つ会社が多いですね。現在の阪堺電気は、明治時代に設立された阪堺電気軌道(現在の阪堺線)と大阪馬車鉄道(現在の上町線)が敷設した両線を祖としたもので、同じく大正時代に阪南電気軌道がこの恵美須町から阿倍野を通って平野へ向かう平野線を含め大正時代に南海鉄道へ合併。長らく南海の軌道路線として営業を続けておりましたが、昭和後期に改めて軌道線は阪堺電気軌道として分社化されました(平野線は廃止)。現在でも阪堺の株式は100%南海が保有しており、シンボルマークも南海と同じものを使用しております。

  

天王寺駅前が簡素な停留所なのに対し、恵美須町は古レールで組まれた広いトタン屋根の下に3面2線の頭端式ホームがあり、阪堺電気軌道のターミナル駅としての雰囲気を保っています。堺筋に沿った恵美須町の駅は、ミナミのシンボル通天閣を西に望み、北側には「でんでんタウン」と呼ばれる大阪の電気街が続いていますが、駅自体は平野線の廃止や運転本数の減少とあいまってかつての活気は失われているのかな…と言う感じ。都会の駅で終電22時半ってのもちょっと早いよね。


ここでデジカメの電池がかなり厳しくなってしまったので、ネットカフェを見つけてしばし充電+休憩。ここからは阪堺線を再び住吉方面へ下って行きます。ネカフェから恵美須町へは戻らず新今宮駅前。以前は南霞町と言う名前の電停であったのだが、駅前で日本人と韓国人労働者らしきオッサン同士が怒鳴り合っているのもいかにも…と言う光景である(笑)。


新今宮駅前に滑り込むモ600型。新今宮の駅の南側は、いわゆる釜ヶ崎…あいりん地区を抱える日本一の日雇い労働者の街でもある。駅の周りには「TV付き1泊1,200円」などの看板を出したドヤ(簡易宿泊所)が並びます。肩からデジタル一眼を提げた体であんまりウロウロしにくい地区でもありますが、少しディープなあいりん地区の風を感じに堺筋を歩く。この辺りの阪堺線は線路際を高い金網で囲んでいるのだが、いわゆる釜ヶ崎の路上生活者たちによる不法侵入や不法占拠への対策であるらしい。西成で暴動が続いたころは、電車に向かって投石されちゃうんでバラストもあんまり撒かなかったんだとか…


堺筋と阪堺線を挟んで、西はあいりん地区・東は飛田新地。ミナミの最も濃いトコを左右に抱えながら走るのが阪堺線でもある。ちょいと飛田新地の路地をブラリとしてみたのだが、オトコが一人でヨメさん子供残して飛田新地の近くをウロウロすると言う行為自体昼間でも情状酌量しにくいよなあ(笑)。とある事情通によればお値段も凄いがレベルもハンパないんですってね…飛田から堺筋を渡ってちょっとあいりん地区の路地を歩くだけで、全身モンモンのオッサンがステテコ一丁で縁台将棋をやってたりするほのぼのとした光景が(笑)。今池電停はあいりん地区の西側の盛り土の上にあるのだが、停留場に上がって行く階段の右と左に釜ヶ崎の労働者風情がぎっしりとたむろして暗い目をしながら酒を飲んでいるのがとても嫌だ。平日の川崎競輪のスタンドを思い出すよ。


今池電停に滑り込む阪堺線あびこ道行きモ600型。ちなみにこの駅のベンチにも電車に乗る訳でもない釜ヶ崎の住民たちがたむろしていて、粘っこい目で明らかなヨソモノたる私をじろじろとネメ付けて来る。正直写真を撮るのもちょいと憚られるんだけど何にも悪い事はしていないしなあ…まあ過去の素性の暗い方たちも多数流れ込む地区であり、興味本位で見られることに異様な警戒感があるのは分からなくもないんだけど。


今池電停を出るあびこ道行きの車窓から。私をネメ付けていた労働者たちがトボトボと次の休憩場所へ向かって行った。今池電停に隣接するはどんな胃腸の丈夫な方でも裸足で逃げ出すスーパー玉出(とりあえずググれ)。駅南側のガードの下には以前天王寺~天下茶屋間を結ぶ南海天王寺支線が走っており、このガード下に今池町という駅がありました。そのために今池の電停は盛り土の上にあったんですね。南海天王寺支線はその真下に地下鉄堺筋線を通すため、工事着手に伴って天下茶屋~今池町が廃止。以降も今池町~天王寺間を離れ小島の路線として残していましたが、1993年に全線廃止されています。堺筋線の天下茶屋延伸工事について既存路線である天王寺支線の路盤を拠出させたのは、公権力が何かしようとすると色んな市民団体利権団体がわらわらと湧いて出て来る特殊地域であり、南海天王寺支線の下しか地下鉄の掘りようがなかったんだとか…

その南海天王寺支線の跡は、廃線後20年を過ぎてもなおすべて高いフェンスか金網で覆われ、とても有効活用されているとは言えません。やはりちょっとでも空いた土地があるといつの間にかそこに住みつき段ボールとブルーシートの家が勝手に立ってしまうと言うこの地区ならではの特殊事情があり、ヘタに手が付けられないと言う事なんでしょう。
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