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青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

故郷よ オールドキハよ いつまでも

2020年03月29日 08時00分00秒 | 片上鉄道(保存鉄道)

(午後の運転会@吉ヶ原~黄福柵原間)

何気にじっくりゆっくりと展示資料を見学してしまったため、資料館を出た頃にはもう運転会も終盤に差し掛かっていました。昼を過ぎて空には雲がかかり始め、光線は弱くなってしまった吉ヶ原。新しく舗装された山側の市道からも、運転線が撮影出来ます。以前の吉ヶ原駅は、駅舎の反対側に貨車や気動車のヤードが広がっていたそうですが、その跡地に駐車場や竪坑櫓のモニュメントが作られています。線路に続くは桜並木ですが、コロナ禍によって4月の運転会も既に中止が発表されています。桜とキハたちの競演を見る事は、今年は叶わなそうです。

枯れた田んぼの脇で、ギャラリーとともに行き来するキハを待つ。午後になってから、大阪の方からのツアー客の入り込みがあったらしく、撮影場所も運転会乗車も大盛況となっていました。ほとんどが自分より大先輩の趣味の人とお見受けされましたが、後で聞けばその道では何冊もの著述がある有名な先生のツアーだったそうで。名前だったら自分でも知ってるクラスの先生なのでビビった。話でも聞いてみたかったですね。

吉ヶ原15時前の最終運転。最後に付けられたヘッドマークは「ふるさと」でした。ホームの駅員さんが大きく手を挙げて、列車の到着を確認しました。この日の運転会、延べでどんくらいのお客さんが乗ったのかな。2月のアタマなんて観光的には完全にオフシーズンと思われるのだが、それでも相当数の来場者がありました。

ヘッドマークを外され、一休みのキハ702。失礼ながら、吉ヶ原という場所はどこから来ても相当に交通の便の悪い場所にあります。クルマで来ようとしたって、高速道路のICから近い場所でもないですしねえ。一番近いのが中国自動車道の勝央ICか?そう思うと、運転会の開催は月一回とはいえ、美作の山里でここまでの集客が出来るイベントって凄い。少なからずこの地域に経済効果を生み出しているのではないだろうか。

吉ヶ原の駅の東側(片上側)にある屋根付きのピット線には、この日使われたキハ702の同僚だったキハ303・312の両機が保管されていた。702と組んで2連で運転会に出て来ることもあったりするらしいのだが、この日はそのままピットでお休み中であった。正面4枚窓の303と、湘南2枚窓の312。西日本では別府鉄道の野口線とか水島臨海とかにこういうキハ04流れのクルマが入っていて、地域輸送を支えていましたよね。グリスの缶や工具が置かれたピットに佇む箱型のキハ。戦前の設計の気動車らしい、小口の窓が並ぶサイドビューが美しいです。

キハ302・313を眺めていたら、運転会を終えたキハ702が係員の手旗でピットの方に移動して来ました。ピット側に寄せて留置して運転会終了なのかな?と思いきや、キハ702が302を連結して、吉ヶ原駅側に引き出して行きます。構内運転のほんの数十メートルだけですが、傾きかけた西日を浴びながら、腕木式信号機の下で最後の最後で2連運行のシーンを見る事が出来て嬉しかったですね。

手と手を取り合ったキハ702と303。現役当時でもよく見られた姿です。一応お互いの車両に引き通し管とか付いてますけど、総括制御とかは出来たんですかねえ。さすがに運転士ツーマンの協調運転はやってなかったか。702の開け放たれた運転台の窓から入って来る風、きっと気持ちよかったんでしょうね。例えば真夏、車窓に流れる穏やかな吉井川の流れと田園風景を眺めつつ、片上鉄道の旅をしてみたかったなあ。

柔らかな西日射す吉ヶ原のホーム。キハ702によって据え付けられたムドのキハ303は、早速保存会の方々によって車体の整備が始まりました。長年の修繕や再塗装の繰り返しで厚ぼったくなった部分や、腐食した外板をグラインダーでガリガリとこすって均して行きます。毎月の運転会の維持のために、こういった地道な車両整備や保線作業が続いています。また再び303が運転会に登場する頃には、綺麗に整備された姿でお目見えする事になるのでしょう。

朝に高下のバス停から乗って来た中鉄北部バス。午後4時前に、帰りの便がやって来ました。帰りは高下回りでは岡山方面のバスの接続が悪いので、そのままバスで津山の駅前に出ることにします。ちなみに、津山には旧津山機関区の線形機関庫を活用した「津山まなびの鉄道館」という施設があるんで、この地域を訪れる機会があったら吉ヶ原とセットで訪問してもいいかもしれない。夏休みとかは、まなびの鉄道館から吉ヶ原へ行く無料バスなんかも出ているらしいね。津山の機関庫は一度みんなで山陰に行った時に寄ったことがあるのだが、もうあれから10年以上経っているのか・・・。

運転会が終わり、静けさを取り戻した吉ヶ原の駅を後に。窓を閉ざしたトンガリ屋根に、早々と冬の夕暮れが迫ります。ウン年越しに行きたいと思っていた場所は思った通りの、いやそれ以上のオールドキハたちの桃源郷でした。そして何よりも、片上鉄道の廃線から30年弱、この活動を連綿と支えてきた保存会の皆様の活動が、これからも永続的に行われることを何よりも祈念するものであります。

日本の故郷の風景が広がる吉ヶ原と、隆盛に沸いた鉱山街の在りし日の姿を伝える柵原の街。鉱山施設が山の斜面を埋め尽くした往時の姿が、鉱山資料館の中で水彩画となって残されていました。片上鉄道らしいトンガリ屋根の駅前では一匹の野良犬が遊び、ヤマに春を告げる桜が咲いている。何と豊かな風景であろうか。敗戦から40年をかけ、復興需要に基づいて作り上げられたの昭和の資産を、ある意味で食いつぶしたのが平成の30年だったのではないかと思うのだが、がむしゃらに働いていれば無邪気に成長を謳歌出来た時代がとても羨ましく思えてしまう。ノスタルジックな風景を見ると、どうしても「昔は良かった」に堕してしまうのだけど、いつも人生はないものねだり。そしてないものをねだりに行くのが、私の旅でもあります。

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東洋一 誉れも高き 大鉱山

2020年03月24日 00時00分00秒 | 片上鉄道(保存鉄道)

(立派な建造物@柵原鉱山資料館)

さて、運転会から少し離れて、鉱山公園の中にある柵原鉱山資料館に行ってみようと思います。片上鉄道の歴史を振り返るに、切っても切れない関係にあったのが柵原鉱山。東洋一の硫化鉄鉱山と言われた柵原の歴史を振り返りつつ、さらに郷土への造詣を深めて行こうというアカデミックな展開です(笑)。いやいや、個人的にこういう産業遺産とか大好きですんでね。とりあえず入場料(520円)を取るに見合うだけの立派な外観ですが、中はどんなもんでしょうか。

エントランスホールに置かれた硫化鉄鉱(黄鉄鉱)。これが柵原鉱山から掘り出されていました。柵原の硫化鉄鉱は、脱硫後に鉄の原料として利用するよりは、専ら精錬の過程で生成される硫黄や硫酸が主産物だったようです。柵原鉱山で掘り出された鉱石は、片上鉄道で片上港まで運ばれ、岡山の児島湾沿いにあった岡山精練所を中心に全国へ船で送られました。硫黄は火薬やマッチ、硫酸はアンモニアと化合され、窒素肥料である硫酸アンモニウムなどに活用されたと聞きます。

鉱山最盛期の柵原の街並みが再現された館内展示。まんま三丁目の夕日的な雰囲気だが、ヤマのオトコたちが仕事上がりに酒を呷ったホルモン酒場の暖簾をくぐると、鉄板の上でホルモン焼きが香ばしい香りを漂わせていた。メシ、ラムネ、マメ、焼きセンマイ、バラ、ホルモン。お品書きの七五調が心地いい。柵原は、文化で言えば美作国の中心部である津山文化圏に入ると思うのだけど、そう言えば津山の名物に「ホルモンうどん」なんてーのがあるのを思い出した。津山の名物と言えば稲葉浩志(B’z)とホルモンうどんだよな・・・ちなみに鉄板の脇に並べられた一升瓶は岡山の地酒・萬悦。丁寧な仕事です(笑)。

当然ながら、片上鉄道関連の展示物も充実しています。片上鉄道が開通する前は、柵原鉱山の鉱石は高瀬舟で吉井川を下って出荷されていました。採掘量の増加に伴って鉄道の建設が急がれ、1923年(大正12年)に備前矢田までが暫定開通。矢田~柵原間に索道を通し、鉄道での鉱石の出荷を開始しました。最終的に柵原まで鉄道が開通するのは、それから8年後の1931年(昭和6年)の事になります。

同和鉱業片上鉄道の日常風景。柵原の駅には、ホームと並んだ形で鉱石積み込み用のホッパーがありました。鉱石貨車を牽引するDD13は、自社発注の客車を牽引して旅客輸送に従事する事もあり、青に白帯の客車と機関車の組み合わせは、「ブルートレイン」と呼ばれて地元の乗客や鉄道ファンに親しまれていたといいます。デッキによじ登る学生の姿が印象的な備前矢田の通学風景。線路上を歩く制服姿とともに、この鉄道の大らかさを感じます。山から俯瞰した飯岡(ゆうか)の集落、青々とした田んぼと吉井川に向かって緩やかにカーブした駅。コトコトと通り行く古典的キハ。抒情的に過ぎる光景です。

鉱山資料館は、地上1階と地下1階が展示コーナー。その間を繋ぐエレベーターは、坑道の中に設置されていたエレベーターを模していて非常に雰囲気がある。ちょっと下に降りて行くだけなのだが、地底深くまで連れて行かれてしまうのではないかと錯覚してしまう。

壁に並べられた坑道内の重機と、妙にリアルな坑道内での削岩機での掘削シーン。そして蟻の巣のように柵原の地下に張り巡らされた坑道の断面図。昔ディグダグというゲームがあったのだが、それを思い出してしまうなあ。最深部では海抜比-400m近辺まで掘り進めたそうな。柵原鉱山が一番栄えたのは、戦後の食糧増産のため、化学肥料(硫安)の原料としての硫酸や、ゴム製品の原料としての硫黄の需要が旺盛であった昭和20年代から40年代前半の事。以降は、化学肥料の使用量の減少や、石炭→石油へのエネルギー政策の転換によって、石油精製の過程で発生する脱硫硫黄が安価に製造されるようになったこと、そして1985年のプラザ合意による円高で、海外からの安価な鉱石が大量に輸入されるようになったことから、隆盛を極めた柵原鉱山は、極めて急速に国際競争力を失って行きました。

ヘルメットをかぶったヤマのオトコたちが行き交う活気あふれる鉱山街の姿。最盛期は鉱夫達が汗を流す社宅付きの大浴場や、「柵原クラブ」と呼ばれたホールでは歌謡ショーの開催、学校、そして鉱山の付属病院など、増加する人口に合わせて鉱山街のインフラが形成されていきました。平成3年の鉱山閉山から既に30年、夢のような時代は過ぎ去り、すっかりと過疎の山村となった柵原の街で、現在でも鉱山病院は柵原病院として地域医療を支えています。

個人的見解ですが、地方私鉄の形成過程には「信仰・温泉・鉱山」の三要素のうちのどれかが関わっていることが非常に多いと思っています。初日・2日目に訪れた高松琴平電気鉄道は金刀比羅宮参詣のための信仰型とすれば、ヤマとともに生まれ、そしてヤマとともに消えて行った片上鉄道は生粋の鉱山型の地方鉄道でした。鉱山型の鉄道は、古くは同じグループの小坂製錬(秋田)、松尾鉱山鉄道(岩手)や磐梯急行電鉄(福島)、尾小屋鉄道(石川)などなど旅客扱いはついでに過ぎない生粋の鉱山鉄道が多数ありましたが、現在残っているのは非常に少なくて、純然たる鉱山型の私鉄として最後まで残っていたのが、くりはら田園鉄道(旧栗原電鉄・細倉鉱山)ですかねえ・・・一応現存しているのは、国鉄足尾線を三セク転換したわたらせ渓谷鉄道と、石灰石に関連した貨物輸送を専業とする岩手開発鉄道と、現在でも鉱山からの鉱石や製品輸送を続ける秩父鉄道・三岐鉄道の太平洋セメントグループに属する3社くらいでしょうか。

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凛として 男の惚れる その背中

2020年03月22日 10時00分00秒 | 片上鉄道(保存鉄道)

(昼に憩う@黄福柵原駅)

展示運転会の昼休み。午前中の最終便のキハは、吉ヶ原には戻らずに黄福柵原駅で昼休みを過ごします。約1時間のインターバルのうちに、車両の点検や確認作業を実施してまた午後の運転会に向かうようです。ホームでアイドリング中のキハ702、漂うディーゼルエンジンの重油の薫りが鼻をくすぐりますなあ。普通の人が嗅いだら「臭い!」で終わってしまう匂いだけど、男の子はこういう匂いが好きなもの。半流線型の車体が高くなった冬の日差しに輝きます。

側線に置かれていた軌道トロッコとキハ702。キハ702の台車は、今となってはとても珍しい菱枠台車という鋼板を張り合わせたような独特の形をしています。鋼板の台枠が板バネを挟み込んでいるような仕組みになっていて、正直乗り心地は相当に硬いですね。かつての鹿島鉄道(茨城)で走っていたキハにもこの台車が使われてまして、乗りに行ったこともあるんですが、まさに悪路をジープで走るがごとくの揺れとバウンドで凄まじかった覚えが(まあ廃線間際の保線状況だったことも加味しないとなんですが)。この手の台車が使われているのは貨車か、国産気動車の黎明期の話になるのですが、このキハ07はそんな気動車の黎明期の車両でございます。車輪は自転車よろしくスポーク型になっているのだけど、これは鋳鉄製のブレーキを押し付けることで発生する摩擦熱を逃がすために、車輪の肉抜きをすることで表面積を大きくし、熱の放散を促進するための仕組みなのだとか。蒸気機関車でもC55とかにスポーク動輪が用いられてると思ったけど、あれも軸焼けを防止するための仕組みだったですね・・・。

そしてキハの駆動を支えるのがDMH17エンジン。接近して見てみると、ガラガラとした独特のアイドリング音を立てながらシャフトが回っています。床下でエンジンの噴き上がりやギアの回転をチェックしていたメカニックの方が言うには、年代物の車両を維持管理するのに一番大変なのが部品の確保だそうで、「ガスケットのオイルシールがもう最後の一枚だよ!」なんてボヤきながらいろいろと教えて下さいました。この独特のエンジンの音をひたすら聞いていると、読経のような抑揚があって禅の世界のようでもある。エンジンは生き物。

保守管理、運行、駅務、保存運転に関わる方々の姿。車両と風景の魅力以上に、ヒトの魅力に溢れているのが吉ヶ原の保存鉄道です。油の染みた手で、床下に潜る整備士さん。「CONDUCTOR」の赤腕章も凛々しく、ナッパ服に身を包んだ車掌さん。フライキを持った駅員さん。そして金のラインの帽子が凛々しい駅長さん。それぞれがそれぞれに規律だった規則正しい所作で、凛として運転会の安全運行を担っています。さすがに30年近く続けられて来た活動だけに、なまなかの鉄道マンよりよっぽど皆さん魅せ方が分かっているなあと言うのが感想で、惚れ惚れしてしまいますね。

こんな素敵な運転会ですが、自分が参加した2月の運転会以降、新型コロナウィルスの感染蔓延に伴うイベントの開催自粛の動きもあり、3月の運転会は中止されてしまいました。以降の実施の見通しも、現状は不透明と言わざるを得ない状況なのかなと思います。ギリギリで参加出来て良かったとも思うんですが、早期の再開を願いたいものです。

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掘るだけが ヤマの会社の 能じゃなし

2020年03月21日 17時00分00秒 | 片上鉄道(保存鉄道)

(子供だって楽しめる@吉ヶ原駅ホーム)

運転会に参加していた親子の、吉ヶ原でのワンシーン。キハのタイフォン響くホームで、親から離れて初めての旅立ち・・・でしょうか。特に湿っぽくもない笑顔の別れ、およそ30分くらい?の一人旅。運転士氏の流しノッチからの後方安全確認が終わると、ガルルンガルンと唸りを上げるDMH17エンジン。立ち昇る紫煙に包まれて、赤い気動車がホームを離れていきます。

吉ヶ原~黄福柵原の中間地点にある田んぼ脇の撮影地にて。スコーンと抜けたような冬の美作の青空の下を、半流線型のレトロ気動車は行く。線路の横に立つ電信柱と通信ケーブルが邪魔くさいので、ガツンと寄って広角で空を仰いでみるアングル。今度のヘッドマークは「しらさぎ」。JRのしらさぎは名古屋から金沢を結ぶ特急ですが、こちらの「しらさぎ」は400mの緩やかな旅。吉井川沿いの氾濫原に細長く伸びる吉ヶ原の集落はところどころに田園地帯が広がります。枯れた田んぼに落穂拾いの白鷺でも飛んでくれば、風流なのですが。

炭住・・・ならぬ鉱山職員の宿舎と思しき集合住宅をバックに、吉ヶ原へ向かうキハ702。集合住宅は全くの無人かと思いきや、まだそこそこの住民は住んでいる様子です。柵原の鉱山は、黄鉄鉱と硫化鉄鉱の採掘こそ止めてしまったものの、現在でもDOWAホールディングスの関連会社が多数残っていて、地域の基幹産業の一翼を担っています。

柵原鉱山の竪坑櫓を移設したモニュメントの脇を行き交うキハ。明治初期にその鉱床が発見された柵原鉱山は、大正時代に藤田組(現:DOWAホールディングス)の手によって大きく発展。平成3年に閉山を迎えるまで、その総採掘量は2650万トンにも及びました。世界有数の質と量を誇った黄鉄鉱と硫化鉄鉱から精錬された硫酸は工業製品の原料として、そして硫化アンモニウム(硫安)は化学肥料として、戦後の日本や世界の農地開発と安定した食糧増産を支えました。

黄福柵原駅の片隅に残る看板に、在りし日の柵原鉱山を偲ぶ。片上鉄道の廃線は、鉱山の閉山とほぼ同時の平成3年の夏の事。昭和末期に鉱山関連の貨物輸送は既にトラックに切り替えられており、また旅客輸送は収益性を確保するには到底至らないこともあって、鉄道を存続する意味はほぼなくなっていました。同和鉱業グループに属する秋田の小坂鉄道から車両の譲渡を受けてはいましたが、車両を始めとする設備の老朽化も著しく、親会社である同和鉱業は鉄道の営業を打ち切ったものと思われます。

運転会に使われていたキハ702の他に、吉ヶ原の駅構内に留置されていた機関車や貨車たち。ディーゼル機関車では、国鉄DD13と同形式のDD13-551が保存されています。この機関車が小さなトラ車を連ね、柵原の鉱山から片上港まで鉱石を輸送するのが片上鉄道の主力業務でしたが、他にもDDが沿線の物資や柵原鉱山で使用する消耗品をコンテナで運び込んだりもしていたそうです。

現在の柵原では、「鉱石から不純物を取り除き、有益な鉱物を取り出す」という精錬技術のメソッドを活かし、パソコンやスマートフォンなどの精密機器やプリント基板などから、レアメタルや希少金属を回収するリサイクル事業を行っています。地中深く鉱脈を求めて坑道を掘り進んだのはとうの昔、同和鉱業改めDOWAホールディングスは、全世界で使われている電子機器や通信ネットワークを形成するハイテク製品に活路を求めました。スマホに使われている希少金属というものはなかなかバカにならないものがあって、金・銀・銅・スズを初め、ネオジム、チタン、リチウム、インジウム、コバルトと数限りない。ヤマから都市へ、トレジャーハントの場所を移した同和鉱業。ただ掘るだけじゃ能がない、時代によって姿を変える鉱山会社の現実だったりします。

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テツの道 好きだからこそ 輝いて

2020年03月20日 11時00分00秒 | 片上鉄道(保存鉄道)

(思い出のヘッドマーク@吉ヶ原駅ホームにて)

「わかあゆ」「しらさぎ」「ふるさと」・・・特に片鉄では列車に愛称を付けていた風もないのですけど、普通列車のディーゼルカーはこんなほのぼのとしたヘッドマークを付けて、片上から柵原の間を走っていたそうです。手書きの鮎のイラストが優美な「わかあゆ」のヘッドマーク、片鉄に沿って流れている吉井川は鮎が名物で、天瀬駅や河本駅付近では、季節になると鮎釣りの人で賑わっていたそうです。

そんな「わかあゆ」ヘッドマークを、慣れた手つきでキハ702の両サイドに装着する駅員氏。保存会の方々は、おそらくですけど当時から現業に従事していた鉄道マンOBとお見受けする方も多く(動力車操縦免許とかいるもんね)、その所作というか身のこなしが実に様になっていますよねえ。ホームに置かれたヘッドマークは、運転会の中のタイミングで色々と取り替えられ、全てのヘッドマークの装着を見る事が出来ました。

パステルグリーンの椅子に、藍色のモケットが並ぶキハ702の車内。運転会に参加している皆さんの顔、顔、顔を見れば、自分と同じか上の世代のファンが多い。こういうものに興味を惹かれるのはさすがにそれなりの年齢層、ということか。大多数はマニア!なのだけど、その中に純粋に「アトラクション的な乗り物」として小さい子供連れの家族がいたりしてほっこりする。さすがに中高生の姿は見えない。そもそもここまで来るという行為自体が相当ハードルが高いのではないかと思われるが。

ドア上に掲示された往時の片上鉄道路線図。片上鉄道は、柵原鉱山で採掘した硫化鉄鉱を、瀬戸内海に面した片上港から積み出すための鉱山鉄道でした。片上から和気(わけ)、益原(ますばら)、天瀬(あませ)、河本(こうもと)、苦木(にがき)、杖谷(つえたに)、周匝(すさい)、美作飯岡(みまさかゆうか)、そして吉ヶ原(きちがはら)、柵原(やなはら)。微妙に難読駅名が多い片上鉄道ですが、そんな日本の豊かな地名が躍るように戯れている駅名と、精一杯に沿線の名所名物旧跡を描き込んだ路線図を眺めているだけでも、在りし日の鉱山鉄道の姿が瞼に浮かび上がって来るようです。

背摺りにくっついた灰皿。昭和の時代が終わってたかだか3年で廃止されてしまった鉄道ですから、車内は当たり前のようにスモークフリーだったのでありましょう。この30年で日本の社会のタバコに対する意識ってものすごく変わっていて、今のご時世禁煙が当たり前。電車の中でタバコを吸う事なんてとんでもない!というのが共通認識ですけど、ちょっと昔の東武電車とか【浅草~館林・新栃木間禁煙】みたいな銘板が車内にありましたよね。ようはそれ以外は吸っても良かったという事で、昭和の時代というのは何とも喫煙者にはおおらかな時代でした。もちろん今はタバコ吸えませんのであしからず。

オルゴールのチャイムが流れ、「おはようございます、本日も片上鉄道保存会、展示運転にご参加ありがとうございます。10時28分発の黄福柵原行きです・・・」という車掌さんの流麗な名調子とともに、キハは吉ヶ原を離れて400mの本線を進んで行きます。揺れる車内に響くキハ702のやかましいエンジン音に、車掌さんのアナウンスはかき消された。後部の運転席からカブリツキでもう少し聞いていたかったのだけど・・・たぶん現役当時もこうだったのだろうなあ。

400mですから、乗って動いている時間なんてものの1~2分あるかないか。それでも「動態保存」という形で往時の片鉄の雰囲気をほんの少しでも味わえるのだから、贅沢を言ってはいけません。終点の黄福柵原駅は、保存鉄道のために作られた新設駅。本当の柵原の駅は、もっと先の柵原の集落を抜けた先、それこそ鉱山の中にあった駅だったそうです。今でも鉱石積み込み用のホッパとか残ってるらしいからねえ。レンタカーでもあったら見に行けたんだけども。

「運転無事故」「確認の実行」「和厳誠」「基本動作の徹底・指差確認の励行」・・・という運輸業務の職場らしい標語が躍る黄福柵原の駅舎内。平成26年に行われたこの駅の開業と同時に、本線も130mほど延伸されたそうです。廃止された鉄道に新駅が開業するというミステリーは、片鉄の保存会と、支えてきたファンの方々が起こした奇跡なのかもしれません。左上に掛かるのは旧柵原駅の廃止当時の時刻表と思われますが、沿線の過疎化による利用者の減少に耐えられず、減便に減便を重ねて最後は1日3本(土曜日のみ午後に1往復の設定があり4本。沿線に住む高校生の下校時刻に配慮したものと思われる)という侘しいダイヤになっていたようです。

ほとんどのお客さんは、そのまま折り返すキハに乗って吉ヶ原駅へ戻って行きます。列車の発車を見送って、駅務室に戻った黄福柵原駅長。赤と金の帽子を被り、ピシッと制服を着こなした姿。赤い閉塞器を操作する背中に、遠く遠くに忘れてきた昭和の鉄道情景と鉄道マンのプライドが滲みます。・・・運転会に参加して思ったんだけど、車両だけじゃなくて、むしろ鉄道を取り巻く人の姿が凄くカッコ良い。みんな自分の中の鉄道マンとしての理想と矜持を持って、輝いているように見えるんですよね。勿論好きな事だからこそ皆さんやれるのかもしれないけど、一挙手一投足に神経が通った所作の美しさには感動すら覚える、黄福柵原駅の一コマです。

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