青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

夢の中へ

2017年03月24日 23時27分06秒 | JR

(JR発足30周年記念@時刻表復刻版1987年4月号)

来たる4月1日で、国鉄が終了しJRが発足してから30年になるそうで、ふと先日本屋をのぞいたらその「JR発足当時」の時刻表が復刻版で発行されていたので問答無用で購入して来た。この手のモノはなまじっか当時のモノを探そうとするとちょっと神保町あたりでもそこそこのお値段のものであったりするので、レプリカとは言え1,890円で買えるなら安いものだ。掲載されている資料としては同じ内容が書いてあるわけだしな。



遡る事30年、国鉄がJRになる時ってどんな世の中だったんだろう。1987年のダービー馬はメリーナイスと言う事は有馬記念はメジロデュレンか…日本シリーズは西武VS巨人で、クロマティの緩慢な守備でセンター前で一塁ランナーの辻が生還してしまったシリーズと言えば記憶にありますでしょうか。国鉄→JRの流れの中で記憶に残っているのは、JR東日本が後藤久美子を起用してカウントダウン形式のCMを打っていたこと。「あと○日」みたいな。まずはページをめくって出て来るのは昔も今も東海道線の東京口、夕方からキラ星のように寝台特急が西へ向かって出発していた時代。


青函トンネル開通前夜、本州と北海道の間は青函航路が結んでいました。東北新幹線は盛岡まで開業していましたが、首都圏と北海道を結ぶツールとしての東北夜行はまだまだ現役。上野~青森は東北線回りが特急はくつる、常磐線回りが特急ゆうづるの時代です。「電3」の表記はゴッパーサンこと電車式三段寝台の583系、この春に秋田に残っている最後の最後の1編成が廃車になると聞きました。はくつる&ゆうづるのサポート役が急行十和田(常磐線回り)と急行八甲田(東北線回り)でしたね。


長野・北陸新幹線なぞ影も形もなかった時代、バリッバリに横軽が鉄路で繋がっていた時代。上野から信州へ雁行して行く「特急あさま」の文字の中に、「スーパーエクスプレスレインボー」が入っているのが時代だねえ。バブル。サロンエクスプレス東京を筆頭に全国を駆け巡ったジョイフルトレイン。「SER」のEF65のレインボー色と7両客車セットとかNゲージで超欲しかった!とても小学生には買える値段ではなかったけどな。


時代と言えば、大糸線を見てみると定期夜行の急行アルプスに加えて春臨でパノラマエクスプレスアルプス(PEA)に大阪からの急行ちくま&くろよん、そしてシュプール白馬1・3号にシュプール栂池という豪華ラインナップ。「私をスキーに連れてって」が公開されたのがまさに1987年この年の11月ですから、まさに世の中ギロッポンのディスコはマハラジャでサーフアンドスノーな世の中だったのではなかろうか。


今や青息吐息で鉄道事業の継続性すら疑われるJR北海道も、当時は宗谷本線を例にとっても宗谷・天北・礼文・利尻と昼行3便・夜行1便の急行列車が札幌と稚内を結んでいました。天北線回りと言うのが既に懐かしいな。ただJR発足時点で既にそれなりの路線が淘汰されていたのも北海道で、JR以降に廃止されたのは転換した池北線を除くと天北線、名寄本線、標津線、深名線、歌志内線、幌内線、松前線、そして先日の江差線と留萌本線の末端部分くらいか。



JR発足を前に北海道に廃線の嵐が吹き荒れる中、会社線の時刻表の片隅に三菱石炭鉱業の南大夕張線が残っていた。夕張の炭鉱に付随して、炭鉱の職員をオマケ程度に乗せていた北海道最後の民営私鉄だった。石勝線の夕張支線の清水沢駅から南大夕張までの全線の7.6kmを乗っても大人60円と言うのが採算性もクソもないのだが、同時期にやはり投げ銭程度で客を乗せていた岩手開発鉄道(盛~岩手石橋)と同様旅客収入はアテにしていた訳ではないという事だろう。この時刻表が出た3ヶ月後、1987年の7月に廃線となってはいるのだが、3軸ボギーの木造客車がDD13もどきのDLに牽かれて走っている写真は子供心に強烈な印象を残している。今でも保存会の方々が車両を残しているそうなので、見に行ってみたい産業遺産のひとつではあります。

とりとめもない話ばかりでキリがないけど、いくらでも読んでられるし妄想が膨らむ読み物だ。
30年前の鉄道シーンへ、今の機材を持って飛び込んでみたくなる。
いい買い物をしたw
コメント
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