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青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。写真はおおめ、文章はこいめ、コメントはすくなめ。

旅の終わりは、紅いモケットの揺り籠に。

2024年12月31日 18時00分00秒 | 野岩鉄道・会津鉄道

(故郷へ思い届けて@会津鉄道 会津山村道場~会津荒海間)

今年はカレンダーの日の巡りが良く、28日の土曜日から新年5日の日曜日まで合計で9連休なんて人も多いようです。かくいう私も、12月に一回休日出勤した分をうまく組み合わせて9連休をこしらえてしまいました。嫁さんからは「この時期に9連休取っても、どこへ行くのにも高いし混んでるし、もう少し有意義に使える時期に取った方が良かったんじゃないの?」なんて言われてしまった。それも一理ある。ガソリンも補助金の打ち切りでリッター8~10円くらいは上昇している感じもあるし、のぞみは年末年始全車指定席だし、ETCも年末年始は休日割引使えないんだよね~。とはいえ、9日間ただつまんないテレビ見て、のべつ幕なしに食っちゃ寝ているのも勿体ないので、スタッドレスを履いたこともあって昨日は久しぶりに野岩鉄道から南会津方面まで東武6050系を見に出かけてきました。少しでも節約したいから行き帰りとも新4号国道を使ったんだけど、16号を越えてから宇都宮までの新4号って真夜中はNEXCOにお金払うのが馬鹿馬鹿しいくらい異常に流れるんで満足度が高い。雪の多い今年の冬、野岩線沿線でもそれは例外ではなく、新藤原を過ぎて龍王峡~川治温泉でちらほら、五十里ダムを登ったあたりからは道路にも圧雪が目立ち、中三依からは完全に雪国のそれだった。最終的には南会津町(会津田島)まで行ったんだけど、天気にも恵まれて思いのほか素晴らしい雪景色が見れたので満足。眩しくて目が痛くなるような、底抜け雪晴れの会津荒海のお立ち台で、年末年始の多客対応で臨時運行されたスカイツリートレイン81号を。これも立派な6050系の末裔。

そうそう、2024年の撮り納めをするにあたって、昨日の本命は年末年始の多客対応ということで2+2の4連運行になった野岩鉄道の普通列車でした。東武6050系の原形を保つ最後の生き残り、野岩鉄道持ちの61102F+61103Fが連結してのフル運行。この60000番台2編成が、現役で稼働する東武6050系の全てなのだから尊い存在である。野岩鉄道のダイヤは、日中は浅草からやって来る会津田島行きの「特急リバティ」を線内の普通列車代わりに組むダイヤなので、6050系の出番は始発~10時頃、そして14時~20時台の最終列車まで。人跡稀な県境の山間部を行く野岩鉄道、撮影する身になると一番光線の美味しい時間帯に走ってくれないというイケズな運用ですし、6050系が終日運用と言えど走るのはたったの5往復。追っかけが利くような沿線の地形でもないので、走行シーンは最高でも10回。沿線は高架&トンネル&鉄橋&築堤それ以外は山ばっか、みたいな撮り場のない路線なので、特に今回のような「4連」運行になると4連を抜く場所も見つけるのが大変なのだ。たった1日でどこまで撮れ高を出せるかは、これまでのロケハンの経験に蓄積されていると言っても過言ではない。ただ、深い雪に閉ざされ除雪もされていない線路際に近づくのは容易ではなく、このアングルもヒザまで埋まる雪を長靴で踏み固めながら辿り着いたアングルだったりする。

連結された6050系の2編成。61103Fは1両分を「やがぴぃカー」として畳敷きのお座敷列車みたいなのに改装していたりするのだが、この年末年始対応ではお座敷も特別料金なしで使用可能であった。ただ、「野岩地下鉄」と言われるほどトンネルだらけの路線で、お座敷に坐って車窓を眺めることにどれだけの観光要素があるのかは分からない。正直、今回の4連運用は利用状況を見ていると普段通りの2連で十分じゃないの?という感じもしたのだが、会津高原尾瀬口では会津若松行きのNDCに乗り換える大きな荷物を持った乗客が目に付いた。何だかんだ年末に故郷へ向かう人々の足として、首都圏~会津間の裏ルートとしての役割をしっかりと果たしているのだろうなとも思う。そうなると、利便性という観点では、せめて東武鬼怒川線の鬼怒川温泉~会津鉄道の会津田島間は通し運転にするくらいの柔軟さが欲しいかなと。まあ、野岩鉄道側もその辺りは心得ていて、来春3月のダイヤ改正では暫くぶりの自社便の一部会津田島乗り入れが復活するんだとか。会津高原尾瀬口、かつては桧枝岐方面に向かうバスの発着点だったりしたんだが、会津バスの路線見直しに伴い会津田島駅発着に変更になってしまったんよね。田島乗り入れの再開は、そのあたりの地域交通の再編も問題の一因としてあるのかもしれない。

とっぷりと日が暮れた頃合い。会津高原尾瀬口からの最後の一往復を、フリーきっぷを購入して乗ってみた。1車両に1人いるかどうか、という極めて希少な乗客数であったが、6050系らしい紅いモケットは健在であった。ボックスシートに腰を下ろしてサイドテーブルでも出そうものなら、かつてなら確実にビールかカワキモノ&弁当くらいを広げて呑み鉄と洒落込むのが当然だったのだが、クルマだったのでお酒に出来ないのは残念。せめてもの慰めで、会津高原尾瀬口の駅で買った温かい缶コーヒーをチビチビと飲む。お尻の下からじんわりと温まるヒーターの感触だったり、ポコポコポコ・・・と床下で緩慢に鳴るコンプレッサーだったり、長大トンネルの中で轟々と唸るモーター音だったり、「ああ、こうだったねえ」という6050系らしさ・・・そういうものは十二分に堪能できた。途中駅での乗降客が皆無なため、車掌氏によるドア解放から閉扉に至るまでの驚異的な時間の短さはご愛敬。まあ、この時間の男鹿高原とかに客の乗降があってもそれはそれで怖いが(笑)。

6050系の赤い揺り籠に足を投げ出しながら、どこへ連れていかれるのか分からないような微睡に包まれて、2024年の旅が終わろうとしています。
今年も一年お世話になりました。皆様におかれましても、良いお年をお迎えください。

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野岩の魅力と聖地化と。

2023年12月19日 17時00分00秒 | 野岩鉄道・会津鉄道

(野岩国境を往く@中三依温泉~上三依塩原温泉口間)

会津西街道の山里に日暮れの訪れは早く、既に藍を流したような夕暮れが迫っていました。鬼怒川の上流に当たる男鹿川の源流部の河原に三脚を立て、列車の登場を待つ。寒いのと、クマでも出てきたらたまらないので、通過までは安全を期して車内にて待つことに。列車が湯西川温泉の駅を出た頃合い、時計を見計らって外へ出る。男鹿川を斜め一直線に渡って行くリバティ会津。車内の明かりに河原のススキが光る。

新藤原駅の静かな夜に、野岩鉄道・61102Fを眺める。東武6050系、首都圏と会津のリレーランナーとして、平成時代を駆け抜けた会津快速の最後の末裔であります。野岩鉄道サイドも、この車両の今後の活用方法を模索する中で、クラウドファンディングを募って現在休車になっている61101Fの復活を目論んでいると聞きました。正直、野岩鉄道で改めて自前の車両を導入するような資金の捻出はなかなか厳しいところですし、東武にも適当な2両編成の後継車両は今のところ見当たらないんですよね。20400系は4連だし、舘林の工場では10000系列の2連改造を一生懸命行っていますけども、そこらへんはまず舘林以北の路線に残っている800系を淘汰することが優先になっているようなので・・・

そういう意味で、野岩鉄道における6050系の運用体制は暫くのうちは確保されるのかなと。年末年始には元6050系の改造車であるスカイツリートレイン634を東武から借り受け通常運用に投入するそうで、社長さんのSNSでのプロモーションも積極的なんですよね。今後は東武で全廃された6050系の聖地化を図るのであれば、それも生き残り方の一つなのかなとも。

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法衣、三依の帰依。

2023年12月17日 11時00分00秒 | 野岩鉄道・会津鉄道

(歴史の碑、秋に眠る@中三依温泉駅前)

既に初冬の雰囲気のある、冷たい風の中三依温泉駅前。人跡未踏の山岳地帯を往く野岩鉄道の駅の中では比較的集落の中にある駅なんですが、駅前のロータリーの片隅に、ひっそりと植え込みに覆われた石碑がありました。「野岩鉄道会津鬼怒川線開通記念碑 昭和六十一年十月九日 中三依駅祝賀行事実行委員会」とある。当時は「温泉」はついてなくて、中三依温泉駅は中三依駅、お隣の上三依塩原温泉口駅は下野上三依駅という名前でした。野岩鉄道開通当時の時刻表を見ると、新藤原始発はなく、新栃木発や下今市で分割された東武電車がそのまま野岩鉄道まで乗り入れてくるダイヤだったようです。そして、中三依折り返しが一日3本。この辺りまでは沿線住民の乗車需要が高かったということなのだろうか。ただこんな石碑を残すくらいだから、当時の中三依に暮らす人々にとって、鉄道の開通がどれほど待ち焦がれていたものだったかというのは想像に難くない。祝賀行事をおこなうくらいの慶事は、今から37年前の、秋の日のこと。

中三依温泉駅は、集落を見下ろす築堤の上に島式のホーム1面2線の設備。野岩鉄道の中間駅の中で、交換設備があるのはここと川治温泉・上三依塩原温泉口の3ヶ所だけなので、線内では比較的交換シーンの多い駅です。駅舎は小さなプレハブ小屋のような造りになっていて、既に長い間シャッターが閉じられていますが、ここに昔は出札窓口でもあったのだろうか。それとも、余りに小さすぎるから自動券売機の設備のみがあったのだろうか。おそらくもう今後一切開くことはないのだろうけど・・・中三依の集落には未だに郵便局や交番、小学校と中学校(日光市立中三依小・中学校)があって、会津西街道の栃木側では最後の集落らしい集落でもある。駅の近くには、行政が観光振興のために掘削した温泉(中三依温泉男鹿の湯)とキャンプ場があるのだが、泉温が低いため通年営業しておらず、冬場になると営業をやめてしまうのがネック。以前、子供と南会津の旅に出かけた時に立ち寄ったことがあって、優しく清澄な湯であったのを覚えている。

色鮮やかな紅葉を横目に、中三依温泉駅に滑り込む6050系。かつては、6時台から20時台まで上下で毎時1本の本数は確保されていて、それなりに沿線の通学や移動の需要などもあったのだろう。今は特急リバティを含めて6時台から20時台までの有効本数は10本。日中では2時間程度列車のスジが開くタイミングもあったりして、沿線を乗り撮りして回るのはなかなかしんどいものがある。周辺には「クマ出没注意」の看板がたくさん置かれていたのだが、日本の山里は最近人よりクマの方が住みやすくなってしまった感じもあって。現在の中三依温泉駅の利用客数は日に10人~20人程度というデータがあるが、コロナの前の話だから、今ではどんなものなのだか。

地名の由来にもなった三依山への稜線を眺める中三依温泉の駅前。カラマツ林の向こう、標高の高い場所では既に葉が落ちていて冬山の気配があった。駅前には宝蔵院という大きなお寺さんがあって、そこの大銀杏も見事なものだ。中三依、上三依の「ミヨリ」という地名、会津西街道沿いにはもっと北の方に上三寄(かみみより)という場所もあったりして、この辺り特有の地名の特徴な気がします。上三寄は、現在の会津鉄道の芦ノ牧温泉駅周辺の地名なんですが、そう言えば、国鉄時代は同駅の駅名も「上三寄」でしたね。地名の由来は、「三つの川の寄り合わさるところ=三依・三寄(ミヨリ)」ということなのだそうです。

駅前で徒然なる時間を過ごしていると、お寺の扉ががらりと開いて法要を終えた一家が出て来た。お務めを終えたお坊さんに丁寧に礼を言って駅前の道を帰って行く三世代の家族の背中と、見送る六地蔵。そして野岩鉄道の列車。会津西街道の小さな小さな集落に続く山里の暮らし。家族の未来に、三依の未来が続いていますように。

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陰と陽。

2023年12月15日 23時00分00秒 | 野岩鉄道・会津鉄道

(山影に沈む@川治温泉~川治湯元間)

午前中に撮影した川治湯元駅手前の第一鬼怒川橋梁。川治ダムの展望台から望む大俯瞰の構図。三年前の秋に訪れた際、素晴らしい紅葉の大パノラマを手中に収めたとてもいい思い出があり期待をしていた場所。しかしながら、秋の日は釣瓶落としとも言いますが、午後のそんな遅い時間ではないものの早くも山影に沈みかけていた。日の短い時期の山間部での撮影、晴れていた方が当然紅葉は映えるのでありますが、そうなるとどうしても本当に狙った光線で撮れる時間は短くなる。割と撮影の際は色々な場所で手数を出して行きたいタイプなので、こういうシチュエーションはいっそのこと曇ってしまった方が楽。

いっそのこと、な川治ダム俯瞰。山の端から差す光線は紅葉の山々には届かず、僅かに橋の天板を照らすのみ。陰と陽のコントラストが違い過ぎるという撮影には極めて難儀する構図となりましたが、列車の通過時間は近付いていていまさら撮影場所を変えるわけにもいかない。どうするかなとない頭を一捻りしてこんな構図。どうせ紅葉の山並みが写らないのであれば、いっそそこは山影に沈めてしまおう。めったに使わない400mmの望遠レンズを三脚に取り付け、スポットライトの中を往く6050系を切り取りました。

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柚子の香ほのか、藤原の町。

2023年12月11日 17時00分00秒 | 野岩鉄道・会津鉄道

(野岩の拠点・野岩の要衝@新藤原駅)

野岩鉄道、秋の臨電が新藤原のホームに憩う。一往復目の中三依温泉への行路が終了した61102Fが、今度は会津高原尾瀬口行きの二往復目の出発待ち。閑散としたホームに人影はなく、たまに起動するコンプレッサーの音だけが、昼下がりの駅に響いています。そうそう、そもそも野岩鉄道の車両って今までは野岩・会津持ちの6050系をひっくるめて東武の新栃木検車区でメンテの面倒を見てたはずなんだが、今後はどうするのだろう?日常の検査は新藤原でやって、重要部検査だけは新栃木とか南栗橋まで行ってやるのだろうか。もともと、野岩鉄道は運行や車両整備については東武と一心同体の会社なので、そこら辺の機能をほとんどアウトソースしてしまっているんですよね。

駅舎に近い行き止まりのホームと、上下線がそれぞれの方向に出発可能な島式ホームが1面の変則2面3線の配線。新藤原は、東武鬼怒川線の終点でもありますが、野岩鉄道にとっても本社だったり検修庫があったりする運転上の要衝です。平成の大合併にて現在は日光市に属していますが、藤原町と言えば、元々は鬼怒川・川治の両温泉を含む地域を中心とした自治体でした。駅は「しんふじわら」なんですけど、町名は「ふじはら」町でしたね・・・。そもそも、新藤原駅があって、藤原駅はないの?って思ったりもするのだが、かつてこの地までレールを伸ばした下野軌道には「藤原駅」があったらしい。その跡地がどこらへんなのかを探した記事があるかと思って探してみたのだが、あまり情報がなかった。結構鉄道廃線系の話って探せばなんか知ら情報出てくるもんなんだけどね。

下野軌道は、東武日光線よりもはるか昔の大正年間に今市~藤原間に開通した鉄道で、鬼怒川沿いの電源開発や林野業のために作られた軽規格の産業路線。下野軌道は昭和になると東武鉄道に買収され同社の東武鬼怒川線となりますが、鬼怒川線が日光線の極めてストレートなルート取りと違って実にクネクネと曲がりくねった隘路を進むのは、もちろん地形の違いもありますが、建設時期による土木技術の違いもありそうです。かつての会津快速も、下今市で東武日光行きの車両を落とし、新藤原までえっちらおっちらとカーブを走って来て新藤原でさらに2両を落とし、野岩鉄道に入ると身軽になった体で高規格のレールの上を実にのびのびと走り始めたのを思い出しますね。

会津高原尾瀬口に向けて、藤原の町を出発していく61102F。藤原の町の民家の軒先に、たわわに実った柚子の果実。
ほんのり漂う爽やかな香りを風に乗せて、颯爽と走り抜けて行きました。

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