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文化の秋~岡崎ジャズストリートの感想

2008年11月08日 18時48分43秒 | 音楽いろいろ
 先日、岡崎でやってた岡崎ジャズストリートというイベントに行ってきました。ジャズの客層ってもはやかなり高齢なんですね。岡崎のジャズイベントで平均年齢は60才くらいではないかと思ったよ。これは、地元でがんばっているスタッフやボランティアがロータリークラブとかなんとかの割りと老人が多い団体だというのもあるだろうけれども、それだけでもなさそうな気がしました。

 チャーリー・パーカーが40年代、マイルス・デイヴィスが50年代にピークがあり、その時代に突っ張った学生生活を送った人たちは、すでにそんな年代だ。
60年代はロックンロール、70年代はロックミュージックが適応放散し、80年代はさまざまな要素を消化したポップミュージックに移行し、90年代はクラブミュージックで、いまはヒップホップが抑圧された声を拾っている。若者たちは、判ってはくれない大人たちに反抗しながら自分たちの音楽やカルチャーをつくっていくので、すでに大人になっている先行世代のカルチャーは否定することから始まる。トリュフォーにしろ、ブーレーズにしろ、激烈な否定の言葉から始まるキャリアが大成することが多いのは偶然ではないのだ。大多数の若者は知恵がないので、ともかく作ってしまうのだが。いまのケータイ小説もそういう文脈からの分析は可能なはずである。ところが、大人からの抑圧が弱ければ、自分たちの表現の強度を上げることはできない。つぎのカルチャーを生み出すためには、大人は若者たちから疎まれようと、壁としてたちはだかる必要がある。
 その意味で、ジャズ好きな人たちは、先行世代から不良的な烙印を負わされて、育ったのかもしれない。
 というのも、会場で読書をする人がとても多かったのだ。クラシックの演奏会で、開場から開演のあいだの30分間に寸暇を惜しんで読書をする人なんて見たことがないが、今回の会場には驚くほど多かった。現実の社会に生き難さ、不全感を抱かなければ、真剣に読書をしたりはしない。そこにある別の現実にかけようとするからこそ、人は本を読むのである。
 きっと大人たちに対抗する理論武装をしようとした人がジャズファンには多いのではなかろうか。すでに公認のものとなっているクラシックでは、聴衆は安全圏にいてクラシックを聴くというだけで「良い趣味」とされてしまうため、わざわざ理論武装する必然性もない。クラシックでは、もちろん音楽を作る側は作曲家にしろ演奏家にしろ、安全圏になどいないので、聴衆と演奏家のあいだにどうしようもない溝ができてしまうのに対して、ジャズではプレイヤーと聴衆がともに歴史を作っていくという一体感を持てる。その歴史と自分たちの青春から壮年を重ね合わせているかのようだ。
 その意味で、自分の感受性を持ち、それに正直に生きてきた人たちなのだろう。。

もちろん、手拍子を求められて、裏を踏めない人もかなりいて、ジャズなんか聞いたこともない人もたくさんいたんだろうが、それでも暖かい一体感が会場に醸し出された。それは黄昏のジャズと自分を慈しむ身振りであろう。

 とはいえ、ジャズは融通無碍に変化してきた。マイルスだけとっても、ハードバップから始まり、モード、エレクトリック、フュージョンとさまざまな表現を生み出し、彼のバンド出身者らが新しい表現を作り上げてきた。
 若いジャズ奏者たちは、あの老人たちの一体感を打ち壊すような表現まで踏み込んでもらいたいなと思った。その意味では、菊池成孔の活躍は一縷の望みである。


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