MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

『クリーピー 偽りの隣人』

2016-08-16 00:13:14 | goo映画レビュー

原題:『クリーピー 偽りの隣人』
監督:黒沢清
脚本:黒沢清/池田千尋
撮影:芦澤明子
出演:西島秀俊/竹内結子/川口春奈/東出昌大/藤野涼子/香川照之
2016年/日本

フィルム・ノワールのあり方について

 かつて刑事だった主人公の高倉が今では犯罪心理学を大学で講義するようになった理由は、目を離した隙に取り調べ中の犯人を逃亡させてしまい署内で殺人事件が起こった責任を取ったためであろう。確かにそのようなことが全く無いことは無いととりあえず納得はできるものの、高倉が妻の康子と共に新居に引っ越してきたあたりから様子がおかしくなってくる。
 そのおかしくなる「様子」というのは必ずしも高倉家の隣に住む西野のことではない。西野の様子がおかしいことは予告編の段階から既に観客には承知のはずで、ここで言う「様子」とはストーリーそのものである。例えば、西野が通報してやって来た警官が高倉は連れて行くのに、通報した西野を参考人として連れて行こうとしないのは不自然であろうし、既にドラッグ中毒だった康子が背後から夫の高倉の手に注射を打つのであるが、何故か高倉は自分の手に注射が打たれていることを自分の目で確かめるまで気がつかない鈍感さなのである。
 あるいはラストで高倉家で飼われていたラブラドゥードル犬のマックスを射殺するように西野が高倉に拳銃を渡すのであるが、何事にもあれほど用心深い男だった西野にしては余りにも軽率すぎる行動をどのように理解すればいいのだろうか。
 しかしこれらの「様子」のおかしさはあるシーンを境に腑に落ちるのである。それは高倉と康子と澪を伴って西野が車に乗って引っ越し先を探すところである。ブルーバックスクリーンを用いたこの色あせたシーンを挟むことで観客はあることに気がつく。例えば、IVC(アイヴィシー)などからリリースされているフリッツ・ラングやマービン・ルロイ監督作品の昔のモノクロのB級フィルム・ノワールなどを観てみれば、ストーリーの設定の緩さが本作と同じようなレベルであることに気がつくであろう。つまり本作はフィルム・ノワールというジャンルの「批評」として機能しているのである。傑作といっていいと思うが、前作『岸辺の旅』(2015年)に引き続き130分という2時間を超えた上映時間を映画批評家の蓮實重彦は絶対に許さないと思う、というよりも2時間を超える上映時間の作品をはっきりと否定した以上、教え子だからという理由だけで許しては本人のためにならないし、実際になっていないと思う。


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