ケンのブログ

日々の雑感や日記

ややこしい時代になったものだ

2021年03月24日 | 日記
朝 と言ってもかなり昼に近い時間に、隣のマンションの敷地を通ったら、自治体のボランティアのブルゾンを着たおじさんが樹木の下をほうきではいて掃除しておられた。

そのおじさんが掃除しているところの樹木を見上げると、それは椿の木で、花がいっぱい咲いていた。

いやあ、椿も花がこれだけ咲くと壮観だなあと思うほどたくさん咲いていた。

僕が壮観だなあと思った理由は、花がたくさん咲いていたこともあるけれど、それに加えて椿は常緑樹なので濃い緑の葉の中から花が顔を出している。

まさに花プラス葉で満開という感じでそこが壮観と思った。

今は、落葉樹で、花だけつけている桜を見る機会が多いので、よりいっそう、常緑樹に咲く花の壮観さに心が動いた。

やっぱり常緑樹のパワーってすごいなと思ってしまう。

僕は、神社のしきたりとかそういうことには全然くわしくない。

なのでこれは僕の単なる想像なのだけれど、神社の境内に、椿や榊など常緑樹が多いのはこういうパワーにあやかっている側面もあるのではないかと思った。

あくまで想像なので、違うかも知れないけれど、、、。

何年か前に、僕は、自宅から割と近いところにある、お宮のそんなに目立たない場所に、明治天皇の歌が、草書で書いてあるのを発見した。

それで、僕は社務所へ宮司さんを訪ねて、あの目立たないところに書いてある歌はなんと書いてあるんですかと、質問した。

宮司さんは、「いやあ、そんなこと聞いてくる人、めったにおらんから、私も暗記はしていません。よかったら書き出しましょか」といって、紙とマジックを持って境内の方に出てきてくださった。

親切な宮司さんと思った。

そして、宮司さんは、その目立たない場所に書いてある、歌を、声を出して読み上げながら紙に書いてくださった。

こんな歌だ。

“”榊葉に かけし鏡を鏡こそ 人も心を磨けとぞ思う“”

※念の為ネットでこの歌を調べてみたら、鏡こそ のところは、鏡にて、となっているサイトが出てきたけれど、まあ、僕は学者ではないし、どちらが正しいのかはわかりません。


この歌の、榊葉に という部分を宮司さんが読み上げながら書きだしてくださったとき、宮司さんは力強い声で「榊は常に緑!」とおっしゃった。

それ以上、何も宮司さんは説明されなかったし、僕も、何の説明も求めなかった。

ただ、宮司さんの「榊は常に緑!」という声にとても気合が入っていたことは鮮明に覚えている。

やはり、常緑樹というのは大切なのだということだけはわかった。

どのように大切なのかの説明は聞かなかったけれど、、、。

ただ、僕は、思うのだけれど、あまり詳しい説明を求めたり、あるいは詳しく説明しようとすると、直感として感じたことの鮮明さが薄れてしまって、逆に印象や理解がぼやけてしまうということもしばしばあるのではないだろうか、、、。

そんな気がする。

ちなみに
“”榊葉に、かけし鏡を鏡こそ 人も心を磨けとぞ思う“”
と書いてある、傍らに、これまた小さくて目立たない字で

“”心とともに姿も正しく“”

と書いてある。 これは宮司さんに書き出してもらわなくても自分で判読できた。

まあ、正しい姿からは程遠い僕だけれど、この言葉も好きだなと思う。




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こんなことブログに書くの恥ずかしいのだけれど、僕、リラクゼーションサロンに行くのがこの5年ほど結構好きで、たまに行って、セラピストの方に、身体をほぐしてもらう。

今日、そのサロンに行ったら、施術をしてくださったセラピストの方が、「実は来月から会員カードがアプリになるんです」とおっしゃった。

会員カードと言っても、そのカードにスタンプを押してもらって、それが一定個数たまると無料で5分延長、とか、さらに一定数貯まると今度は10分延長とかそんなカードだ。

ても、僕は、そういうおまけに昔から無頓着で、今日が5分延長の日だったとか気づかない場合が多い。

そして、セラピストの方も、割と天然ボケと言うか、そんな感じの方で、「そういえば、今日5分延長の日でしたねえ、忘れてました。また、延長は次回にしましょうか」と言って、また次回も忘れそうになってしまう方なので、まあ、そのへんはお互いに、なあなあで、やっていた。

まあ、僕がそういうことに無頓着ということをセラピストさんは知っておられるのでボケたふりをしておられるのかも知れないけれど、、、。

大体、僕、セラピストの方に「施術の間は、世間話はなしにしてください、施術上必要な言葉以外は無言で施術をお願いします」、と頼むタイプで、施術中は目を閉じているので、5分延長してくれても気づかないことも多いと思う。

まあ、要するに、そういうおまけとかポイントとかに無頓着な僕にとっては、本当に申し訳ない書き方だけれど、会員カードがアプリになるなんて迷惑千万な話し。

その天然ボケタイプの、セラピストさんも、昨年末から、系列店の違う店舗に異動してしまわれたから、今は新しいセラピストさんだけれど、「もう僕、無料延長などなくてもいいので、アプリはなしにしてください」と言った。

まあ、その場ではセラピストさんも、そうですねと言ってくださったけれど、
こういうのって、セラピストさんも会社の上の方の人から、アプリ会員を増やすようにと言われる場合も多いと思う。そういうことを思うとアプリを断り続けるのもまた、憂鬱だなと思ってしまう。

本当に、世の中のIT化が進んで、こういう、今までに感じることのなかった憂鬱というのが増えてきたなと思う。

一回だけ、あるお店で、若い女の子の、とびっきりの笑顔に負けてしまって、アプリをダウンロードしたことがあるけれど、僕、実はスマートフォンを持っていない。

なのでタブレットにアプリをダウンロードした。それでお店に行って、かばんの中からタブレットを出して、アプリを開いて、あ、会員番号と、パスワード入力せなあかん、あ、画面がぼやける、老環境どこや、
えーと老眼鏡、あ、あった、うーんとやっているうちに、若い子にどんどん並ぶ順番抜かされていく。(僕は、列に並びながらタブレット操作するとあせって余計遅くなるので、列から外れたところで座ってタブレット操作してたりする)

本当に、こんなことなら、割引など、なくてもいいから、アプリはしません、とあくまで言っておいたほうがよかったかなと思うし、また、僕の場合、アプリの操作が憂鬱で、せっかく気に入っていた店からアプリを入れたことが原因で逆に遠ざかってしまうということにもなりがちだ。

本当に、いろんな会社の上層部の方は、特に年寄りで、老眼が出てきて、もう、IT機器の操作が苦手な人には、アプリ、アプリと言っていると、逆に、その客が来なくなる可能性もあるということをちゃんと考えていただけるとありがたいなと思う

本当に、僕はポイントとかそういうのに無頓着で、家電量販店で、エアコンなど買ったとき、カードを作っても、結局、一年くらいたつと、あと一ヶ月お買い上げがない場合はポイントが失効します、というメールや郵便が届いたりする。

そのポイントを現金にしてくれるといいのだけれど、そういうのは、駄目みたいで、しかし、ポイントがもったいないから、特に必要も感じていないのに無理に何か買ってポイントを使うのも、それこそ、僕にとってはお金とモノの無駄遣いに思えてしまうし、、、。

まあ、本当にそういう考えは人それぞれだと思うけれど。

ただ、アプリを導入しても、アプリを入れないお客さんにも寛大なお店であってほしいな、一人ひとりの客の考え方や気持ちを尊重する店であってほしいなと言うことは本当に心から願っている。

いやあ、それにしても、なにかと、ややこしい時代になったものだなと思う。

そんな中でも、なるようになると信じていけるように、そして、一日いちにち無事にすごせますようにとそれを一番に願っている。















悲しみは笑いにまさる

2021年03月23日 | 日記
新聞のスポーツ欄の、高校野球、今日の試合という欄に 第一試合 市立和歌山VS県立岐阜商業と出ている。

最近は、高校野球も、実況放送やネットで見るほど興味がないけれど、故郷岐阜県の代表校、それも県立岐阜商業が出たということを新聞で知ると、すぐにネットで結果を見たくなってしまう。

1−0で県立岐阜商業がサヨナラ負けしている。

残念と思う。

他の府県の試合だと結果を見て、そうやったかで終わるけれど、県立岐阜商業が負けたと思うと、一点も入れられずにサヨナラ負けして岐阜に帰るってどんな気持ちだろうと想像してしまう。

さだまさしさんの「甲子園」という歌がある。

それほどヒットした歌ではないけれど、僕はこの歌が好き。

歌詞を見るとこんなフレーズがある。

“”
ホームランと突然テレビが叫ぶ
また、誰かの夢が壊れる音がする。

3000いくつの参加チームの中で
たったの一度も負けないチームは一つだけ
でもたぶん君は知ってる
敗れて消えたチームも負けた回数は
たったの一度だけってことをね“”


ホームランとテレビが叫べば、普通は、やったぜ、逆転だとかそちらのほうに意識が行くけれど
ホームランというテレビの叫びを、誰かの夢が壊れる音と捉えるのは さだまさしさんらしいと思う。

徹底的に、敗者の立場に立って展開される歌詞が心の慰めになることは、少なくとも僕にとっては事実だ。


旧約聖書の中の「伝道の書」という書物にも

第7章のところに

「悲しみの家に入るのは、宴会の家に入るのにまさる。 中略 
悲しみは笑いにまさる。顔に憂いを持つことによって、心は良くなるからである」という下りがある。

これって単なる慰めでこういう記述があるのではなく、ある意味これが真実なのだと僕はしばしば思う。

宴会でギャーっと騒いでいたときのことよりも、悲しいときに、何も言わずに黙ってじっとしていたときのことのほうが、後々になってしみじみとした思い出になるということ誰にでもあることと思う。

僕も、たとえば、家族ですき焼きをしたときに、祖父に向かって、「お鍋に砂糖の入れ過ぎや」と言ってギャーっと怒っていたときの祖母よりも、祖父が亡くなって少なくとも半年くらいの間は、仏壇の前でうずくまるような姿勢で涙を流していた祖母をじっと見ていたときのことの方が妙に記憶に残っていたりする。

もっとも 当時は僕もまだ子供だったから、仏壇の前に置いてあった木魚を無茶苦茶叩いて遊んで祖母に注意されたこともあったけれど、、、。

孤独なときには、明るい音楽よりも、ちょっと悲しいような 影がさすような音楽、
あるいは広大な音楽のほうがこころにしみるということもあるし、、、。

とは言うものの、敗者に同情するだけでは進歩がないということも、また真なりと思う。

県立岐阜商業の鍛冶舎監督は「変化球に対する見極めや粘りが無く淡泊な試合になってしまったというのが今回の試合で出た課題なので、そこをしっかり突き詰めてやっていきたい」と夏に向けた修正点をあげていた。とNHK岐阜のローカルニュースに出ている。

負けたら、すぐに次を考える姿勢でいないと甲子園の常連校にはなれないというのもまた事実と思う。



春を惜しみつつ

2021年03月22日 | 日記
僕が読んでいる全国紙の今日の紙面に、4月から天王寺動物園の園長に就任される、向井猛さんの談話を記者がまとめた記事が出ている。

その中に向井さんが札幌円山動物園時代の思い出を語る言葉として次のような話が出ている。

「ある時、ラクダがお尻を柱にこすりつけて真っ赤にしていました。かゆくてかわいそうなのですが、危険なので近づけません。どうやったら薬をぬってやれるだろう。そこで柱に薬をつけてみたら、自分でお尻をこすりつけてよくなりました」と。


そうか、ラクダはかゆいと言葉でいうわけではないけれど、かゆくてかわいそうと、判断する、
そしてなんとかしようとする気持ちがこういう結果につながるのかと思った。

危険なので近づけない、という冷静な判断も理系の方らしいなと思う。

助けようと思って自分が大怪我したり、死んでしまったりしたら、ある意味なんにもならないわけだし、、、。

ところで、昨日から僕の自宅最寄りの私鉄の駅の改札の中や外に、銀色のホイルをまきつけた短冊がいっぱいぶら下げてある。

短冊がぶら下げてある位置から判断してその銀色の短冊が燕よけであることは、毎年見ていればすぐにわかる。

一昨年、改札の中に燕が巣をつくってしまってからは、改札の中に、入念に銀色の短冊、つまりは燕よけが設置されるようになった。

今年は、改札の外も中も入念に燕よけの短冊が施された。しかも、僕の記憶にある限りは例年よりも早めに。

私鉄の駅の方は僕の想像では燕には割と寛大で、一昨年、改札の中に燕が巣を作ってしまったときにはさすがに難儀されていたようだけれど、改札の外に燕が巣を作った場合には燕の糞を受けるダンボールを床に置いて、「燕の巣立ちまでお見守りください」というような張り紙がしてあった。

今年は、改札の外も入念に燕よけがしてあるのは、あるいは、コロナの影響で、ツバメの巣が不潔だという苦情がくることを想定しておられるのかも知れない。

もっとも、それは、あくまで僕の想像だけれど、、、。

でも、こういう燕よけをつける鉄道会社の方も、きっと、燕を嫌っているのではなく、むしろ燕が好きだから、下手に燕が巣を作ってそれを途中で壊す羽目にならないようにあらかじめ、燕のためを思ってしておられるような気がしてならない。

そして、そういう気持ちが、ものや人を大切にする気持ちにつながっていくような気がする。

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昨日は、雨だったから、ぬかるみにはまらないように下を向いて歩いていたら、隣のマンションの敷地を通っているときに、もう桜が散っているのをみかけた。

雨だと桜がもう散るのかと思って、桜の木を眺めると、そのマンションの敷地の桜は駅前の桜よりも咲くペースが早くて、もう5部咲きくらいになっていた。

駅前の桜はまだちらほら咲いた程度なのに。

岐阜県の郡上節という民謡の歌詞の中に

“”咲いた桜になぜ駒つなぐ 駒が勇めば花が散る“”
※駒は馬の意味です。

というものがあるけれど、桜はやはり、咲いた桜を美しいと思う気持ちと、散るのを惜しむ気持ちの両方があいまって私達をひきつけるというのは今も昔もきっとかわらないだろうなと思う。

そういえば松尾芭蕉の句の中に

“”ゆく春を近江の人と惜しみけり“”

ってあったっけ。

どこにも桜と書いてないけれど、惜しみけりの中には何となく桜の花も想像できるところがいいなと思う。

僕は近江路は、電車では頻繁に通るけれど、近江の街をじっくりと散策したことはない。

じっくりと散策すれば、きっと近江の人と惜しみけりと、近江という地名を出した作者の気持ちも想像できたりするのかもと思ったりする。

僕が想像しても何も出てこないかも知れないけれど、、、。

地名で思い出したけれど、昔、ユーチューブで忌野清志郎さんがたしか大阪でやった、野外ライブで、ステージの上に50ccのバイクがおいてあって清志郎さんが曲の合間に
「イエーイ。このバイクはなあ、大阪寺田町の木村さんからもらったんだぜ。イエーイ」と叫んでいる映像があった。

今、検索しても、僕の検索の仕方が下手なせいか出てこないけれど、、、。

しかし、そのライブの映像を見たとき、「大阪寺田町の木村さんからもらったバイク」って、本当に絶妙な固有名詞の選び方だなと思った。

たぶん、東京出身の清志郎さんのことだから大阪の人にもいろいろ話を聞いて決めた固有名詞なのだとは思うけれど、やはり、四天王寺を中心とした界隈って大阪でも最高の場所の一つのような気が僕にはする。

そういうエリアの中から、寺田町というちょっと微妙に地味な地名を選んで、木村さんというみんなに親しまれた名字と組み合わせる。もうそういう固有名詞の選び方がいかにも清志郎さんらしいと感心してしまった。

やっぱり芭蕉も清志郎さんも、アーチストは固有名詞の選び方も違うんだなと思う。













孤独の形は多様

2021年03月21日 | 日記
僕が読んでいる全国紙の今日の紙面に、孤独ということについて取材をしている女性の編集委員が「孤独の形は多様でも」という見出しで、コラム記事を書いている。

その記事は、幾人かの著名人への取材などを通して、編集委員が孤独についてまとめた内容になっている。

記事には、孤独について語った、著名人の言葉が、小見出しとしてうまくまとめられている。

その小見出しにはこんな言葉が出ている。

「期待するからさみしい」「大勢の中の疎外感」「孤独死もあると覚悟」「さみしさは人間の条件」などの言葉だ。

どの言葉も、それぞれに素晴らしいものだと思う。

しかし、これらの言葉に、共通するものは、期待とか疎外感とか孤独死とか人間の条件、など抽象的なキーワードを使って、孤独についてのそれぞれの人の考え方、解釈を語ったものであるように僕には思われる。

そのなかで、そういう抽象的な表現から離れて、とりわけ目を引く一つの言葉がある。

こんな言葉だ

「夜、ぼーっとひとり座ってる。このさみしさね」
抽象的な言葉がいっぱい並んでいる中で、こういうストレートな言葉が一つだけあると、それが目立つし、心にしみる気がする。


この言葉を語ったのは、昨年亡くなられた、元プロ野球の大選手、そして監督だった、野村克也さんだ。

野村さんが語った言葉を、全文引用すると


「夜、ぼーっとひとりで応接間に座ってる。なんとも言えないですね。寝るのも、食べるのも、だれもそばにいない、話し相手がいないっていう、このさみしさね」となっている。

この野村克也さんの発言を読んだとき、自分の気持ちに解釈を加えないで、ストレートに表現するとこんなに共感を呼ぶ言葉になるのかと思った。

僕は、今、一人で暮らしているから、よりいっそうこの言葉に共感できる部分がある。

野村克也さんの奥さん、野村沙知代さんが亡くなったニュースが出た直後に、僕の母から電話がかかってきて、母は「野村(克也)さん、テレビで見たけど、なんか、呆(ほう)けたような顔になってたよ。妻に先立たれて、あんなに呆けたような顔になってる男って初めてみたわ」と僕に言った。

そういう僕の母から聞いた言葉や、新聞の編集委員が、記事に書いている言葉を照らし合わせて考えると、最晩年の野村さんは、言葉の上でも、言葉以外の面でも、感情表現がストレートになっていたのかも知れない。

そういえば、これも野村克也さんがなくなる数ヶ月前の話だと思うけれど、元阪神の新庄選手が、多分、SNSで 現役に復帰する というような宣言をしたとニュースになったことがある。

あのニュースに接したとき、僕は、新庄選手も結局、目立ちたくて、話題をとりたくて、そんな発言をしているだけじゃないのか、とか、いろいろ考えて、心がもやもやしていた。

そんなとき、新庄の現役復帰について問われた野村克也さんは、「(新庄は)代表的アホ。歳には勝てない」と極めてストレートに語っておられた。

代表的アホ と野村さんが言っているのを読んで僕はなんか胸のつかえが取れるような気がした。

確かに、代表的アホだ。新庄選手には誠に失礼と思うけれど、これ以上的確な言い方はないと思った。

そして、代表的アホ、という言葉を発する、野村さんの言語センスにも感動した。

代表的アホ、という言い方に込められた、様々な意味合いを、関西に一定年数以上暮らした人なら、なんとなく察することができると思う。

そして、晩年に衰えてきても、とっさにそういう言葉が出るのは、やはり若い頃から常日頃、選手や、新聞記者に語る努力を野村さんがしてこられたからだと思う。

そういう、長い目で見れば、努力は人を案外裏切らないのだと感じる。

ただ、僕は野村さんから「夜ぼーっと一人で応接間に座ってる。このさみしさね」という言葉を野村さんから引き出せたのは、記者が女性だったからだと思う。

やはり、新渡戸稲造が武士道という本に書いている「女性の心の直感的な働きは、男性の算数的理解力をはるかにこえている」という、まさにその部分、そして共感力に、野村さんが訴えた結果だと思う。

しかし、野村さんほどいろいろ監督などをつとめられて、人脈の豊かな人なら、ちょっと、後輩とか、自分の弟子とかに電話すれば、話し相手くらいすぐ見つかりそうな気がするのに、そうならないところが、人間同士の関係の妙なのだと思う。

キャリアを通じて、利害関係の中でつながった人間関係と、さみしさを紛らわせてくれる人間関係はまた、別物なのだということを思い知らされる気がする。

では、野村さんが本当に耐えられないほどの孤独にあえいでいたかと言うと案外そうでもなかったように僕は思う。

なぜなら、野村さんは、このようにして、表情や言葉に、自分の感情をときに応じてストレートに出すすべを知っていたから。

いつも、自分の気持ちをストレートに出していたらとても生きていけない世の中だけれど、これはと思った人や、これはと思った時がある場合は、恥ずかしくてもいいから自分の気持ち示して素直に語るということの大切さを晩年の野村さんを通じて教えられるような気がする。









春分の日に思うこと

2021年03月20日 | 日記

春分の日。もう本当に春だなと思う。

自宅最寄り駅前の桜を見る。一輪か二輪しか花が咲いていない木もあれば、もう2,3割花をつけている木もある。同じ駅前の広場にある木でも、人間と同様に個体差があるんだなと改めて思う。

近くのマンションの花壇の小さい花の写真をしゃがんでとっている女性がいた。そう思って見ると花壇にもいろいろ花が咲いているなと思う。

そういう花の名前に詳しくないので花の名前は書けないけれど、、、。

街に出ると、さすがに、春の装いになっている人が多い。一部、マフラーを厚く巻いている人もいるけれど、、、。

袴姿の女性もみかけた、卒業式の謝恩会でもあるのだろうか。コロナでもそういうことができるのはありがたいことと思う。

家では、本当に久しぶりにモーツァルトの交響曲第40番と41番をブルーノ ワルター指揮 ニューヨークフィルのCDで聴く。

2曲とも久しぶりに聴くと、本当に無上に美しい音楽だなと思う。

ブルーノ ワルターの演奏は、旋律を丁寧に美しく歌うということにかけては、本当に並ぶもののない世界だなと思う。

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芹沢光治良の「人間の運命」という小説を読んでいたら、主人公 森次郎が心の父としたう田部さんという人物から森次郎への手紙の中に次のような記述があった。

“”この聖堂(モンテローザの大聖堂)は人間がこの世に作ったもっとも美しいもののように考えられる。多くの人々が神をたたえるというよりも、己れの善と真をつくして、地上に聖なるものを遺そうと、幾歳月も、自己を殺して努力して完成したものであろう。

お前もこの聖堂を愛したろうが、その美の他に、これを作った無数の人々の心に打たれたのではなかろうか。

そして、人間の偉大さに感動したことはなかったろうか。おれがこの聖堂にこもって祈りつづけたのは、見えない神の恩寵や秘蹟にあずかろうとしたというよりも、これを作った無数の人々の誠にうったえて、おれのしようとすることが、人間としてゆるされるか、啓示を得たかったからだよ“”’と。


このように、大聖堂を見たり、お寺の伽藍をみたりして、そこに神とか仏とかそういうものを求めるよりも、むしろ、それを作った人間の偉大さに思いを馳せるという考え方って、とても大切なことだと僕は思う。

神や仏と言って、目に見えないものをわけもわからず仰いでいるよりも、人間や人間が創造したもの、あるいは自然の偉大さを見て、そこから、神とかそういう目に見えないものに思いを馳せ、それを自分なりに感じ取っていく。そういう考え方のほうが、現実的で地に足がついたものであるように僕は思う。