春分の日。もう本当に春だなと思う。
自宅最寄り駅前の桜を見る。一輪か二輪しか花が咲いていない木もあれば、もう2,3割花をつけている木もある。同じ駅前の広場にある木でも、人間と同様に個体差があるんだなと改めて思う。
近くのマンションの花壇の小さい花の写真をしゃがんでとっている女性がいた。そう思って見ると花壇にもいろいろ花が咲いているなと思う。
そういう花の名前に詳しくないので花の名前は書けないけれど、、、。
街に出ると、さすがに、春の装いになっている人が多い。一部、マフラーを厚く巻いている人もいるけれど、、、。
袴姿の女性もみかけた、卒業式の謝恩会でもあるのだろうか。コロナでもそういうことができるのはありがたいことと思う。
家では、本当に久しぶりにモーツァルトの交響曲第40番と41番をブルーノ ワルター指揮 ニューヨークフィルのCDで聴く。
2曲とも久しぶりに聴くと、本当に無上に美しい音楽だなと思う。
ブルーノ ワルターの演奏は、旋律を丁寧に美しく歌うということにかけては、本当に並ぶもののない世界だなと思う。
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芹沢光治良の「人間の運命」という小説を読んでいたら、主人公 森次郎が心の父としたう田部さんという人物から森次郎への手紙の中に次のような記述があった。
“”この聖堂(モンテローザの大聖堂)は人間がこの世に作ったもっとも美しいもののように考えられる。多くの人々が神をたたえるというよりも、己れの善と真をつくして、地上に聖なるものを遺そうと、幾歳月も、自己を殺して努力して完成したものであろう。
お前もこの聖堂を愛したろうが、その美の他に、これを作った無数の人々の心に打たれたのではなかろうか。
そして、人間の偉大さに感動したことはなかったろうか。おれがこの聖堂にこもって祈りつづけたのは、見えない神の恩寵や秘蹟にあずかろうとしたというよりも、これを作った無数の人々の誠にうったえて、おれのしようとすることが、人間としてゆるされるか、啓示を得たかったからだよ“”’と。
このように、大聖堂を見たり、お寺の伽藍をみたりして、そこに神とか仏とかそういうものを求めるよりも、むしろ、それを作った人間の偉大さに思いを馳せるという考え方って、とても大切なことだと僕は思う。
神や仏と言って、目に見えないものをわけもわからず仰いでいるよりも、人間や人間が創造したもの、あるいは自然の偉大さを見て、そこから、神とかそういう目に見えないものに思いを馳せ、それを自分なりに感じ取っていく。そういう考え方のほうが、現実的で地に足がついたものであるように僕は思う。