ケンのブログ

日々の雑感や日記

別れと出会いの春

2021年02月21日 | 日記
京都で立ち食いそばの店に入る。

立ち食いそばの店には半畳くらいの広さだけれど、更衣室がある。

しかし、ドアはついていない。しかし、やはりそこは更衣室なので客の目線からは更衣室の中は見えない。

僕が立ち食いそばの店に入ったとき、客は僕一人、店員は年配の女性一人だった。

僕が注文したものを年配の店員さんが出してくださった。

そして、僕がそばを食べている間に、年配の店員さんは、更衣室の中の店員さんに話しかけている。

更衣室の中に店員さんがいらしたのかと思った。

「本当に、長い間、お疲れ様。また、たまには京都に遊びに来てや」とおばちゃん店員さんは更衣室の中にいる店員さんに声をかけている。

その瞬間に、ああ、あの学生バイトの子、この春卒業で、今日で立ち食いそばのバイト終わりなんだなと思った。

今はコロナで、どこも最小限の人数で人のやりくりをしている感じで、その学生の子がワンオペで仕事をしているときも僕、何度か、そばを食べた。

ちょっと、ぽっちゃりした、かわいい子、かつ、感じのいい子だなと思っていた。

お店で、客は僕一人、店員も彼女一人というシチュエーションもあった。

何か話しかけようかなと思ったこともあったけれど、話しかけられなかった。

「ほんなら、ホンマに元気でね」とおばちゃんの店員さんが言ったタイミングで、その若いバイトの子は私服で更衣室から出てきて、お店の外の方に行ってしまった。

その時はもう他のお客さんも来ていたので、恥ずかしくて彼女の方に視線を送ることもできなかった。

まあ、立ち食いそばでバイトするような勢いのある子なら、どこへ行っても頑張ってやっていく気がするけれど。

本当に春は、別れと出会いの季節だなと思う。




土曜日に思うこと

2021年02月20日 | 日記
朝、と言ってももうお昼に近いくらいの時間に隣のマンションの敷地を通って、私鉄の最寄りの駅まで歩いていった。

隣のマンションの敷地では、水道からホースを引っ張ってきて自動車を洗っている人、つまり洗車をしている人が2人いた。

いつも、思うのだけれど、自分でホースを引っ張ってきて自動車を洗うような人の自動車って、本当に頭のてっぺんからつま先まできれいだなと思う。

別に自動車に頭やつま先があるわけではないけれど、例えて言えばそんな感じに見える。

やはり自動車のような機械と言うか道具でも持ち主に大切にされているものは光り方が違うのだと思う。

村上春樹さんの小説の登場人物に、くよくよ心が悩み始めたときは、掃除に打ち込むというような人物がでてきていたような記憶がある。

どの小説のどの場面かは忘れてしまったけれど。

それを読んだとき、僕はとても大切なことを読んだような気がする。

掃除でも洗車でも、そういう比較的簡単なことで、ものを相手に打ち込めるような作業をすることは心のためにいいように僕も思う。

岐阜の八王源先生が、仕事は、人相手が一番難しい、モノ相手はまだそれに比べると楽、と言っておられたことをしみじみと思い出す。

最近、人なんて、どうせ自分の思う通りにはならないんやから、そんなことで悩むのは損、自分が変えたほうが手っ取り早い という主旨のことを言う人を少なからずみかけるようになったような気がする。

それは、まさにそのとおりだと僕は思うのだけれど、なんかそういう表現の仕方が、言葉の有様として投げやりなように思う。

投げやりな言葉を使っていると心も投げやりにしまうのではないだろうか。

ブッダは僕が上に記したのと同じような内容のことを次のような言葉で語っている。

「他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ、自分のしたことと、しなかったことだけを見よ」と。

こういう言い方なら、同じようなことを語っていても「人なんて自分の思う通りにはならないから 云々」というよりもはるかに中立的で謙虚な言い方であるように僕には思える。

僕もこういう言葉を、励みにして心を慰めたりすることはしばしばある。

とは言っても、やっぱり乱暴な言葉遣いをする人を見たり、乱暴な行為をされたりするとついカーっとなってしまうこともあるけれど、、、。

しかし、そんなとき、こういうブッダの言葉を読んでいるとカーっとした気持ちから立ち直るきっかけには十分なると思う。

昨日ちょっと僕のブログに真夏の果実の思い出を書いた。

そうすると思い出というのは連鎖するもので
桑田佳祐さんの「祭りのあと」という歌を思い出した。

この「祭りのあと」という歌に僕がハマったのは、自分が仕事で伸び悩んで、ちょっとした劣等感を覚えていたときだった。

そんなときにこの歌の

“”情けない男でごめんよ 愚にもつかない俺だけど“”
“”悪さしながら男なら 粋でやさしい馬鹿でいろ“”
という下りはとても心の救いになった。

そうか、桑田佳祐さんほどの人でも“”情けない男でごめんよ“”と書くような気持ちが心のどこかにあるのか、そして“”悪さしながら 男なら 粋で優しい馬鹿でいろ“”という気持ちがあるのかと思うととても心の救いになった。

少なくとも利口になるよりは優しい馬鹿でいるほうがたやすいはずだとその頃の僕はなんとなく桑田さんの歌を聴いて思った。

そして、それがその当時の僕には大きな救いと勇気だったように思う。

そして、今では、たとえ情けない男であっても、それを、ごめんよ と思えたり、言えたりすることは意外と大切なことなのだと思う。

どんなに栄華をきわめた男でも、歳をとればだんだん情けなくなっていくわけだし。

ひところ、夜、会社から帰ってきてから、この歌をウォークマンに入れて連続再生しながら、近所の公園まで散歩に行っていたことを本当に懐かしく思い出す。

もうあの頃から数えても四半世紀の時が流れたのかと思う。

2日くらい前から、日が暮れて間もない時刻に、月が天空の高いところにあることに気づいていた。

今日、スーパーマーケットで日暮れに買い物をして外に出ると、本当に、天空のまさに、ど真ん中に半月が出ていた。

そういう月を見るのもいいものだなと思う。

一日、一日無事に過ぎますようにという気持ちで過ごしている。











真夏の果実

2021年02月19日 | 音楽
最近、歌を聴いたり覚えたりしたいとき、ユーチューブに頼ることが本当に多くなった。

オリジナルの歌がユーチューブに出ていなくても、うまくカバーしている人も結構多いので、いくつかのカバーバージョンを聴いてみて自分の好きな歌い方をしているバージョンを聴いて歌を覚えたり、聴くこと自身を楽しんだりする。

先日、もう暦の上では春だなということで、家入レオさんの「春風」という歌のカバーを聴いていたら、ちょっと僕にとってはテンポが早すぎて急ぎすぎていて歌唱も直線的であるように聞こえる。

ちょっとふわっとした感じがあまり出ていない。

しかし家入レオさんの歌の場合、昔の歌のようにたくさんのカバーを比較できるわけではない。

幸い、家入レオさん自身がテレビのスタジオのような場所で歌ったものがユーチューブに出ていたので、それを聴くと、僕にはやはりそれがしっくりくるようだ。

こういう場合のしっくりくるという感覚は、クラシックの演奏で自分にとってしっくりくる演奏に出会った感覚に似ている。

古楽器奏法的な、あまりビブラートのかかっていない演奏が、どうも物足りなくて、モダン楽器でビブラートもそれなりにかかっていたほうが結局、自分にとってはしっくりきたとか、そんな感覚に似ているような気がする。

サザンオールスターズの曲も最近はユーチューブで聴くことが多くなったなと思う。

しかし、僕が単に無知なだけかも知れないけれど、僕が夢中になった世代のアーチストの中でサザンと、中島みゆきさんはユーチューブではあまり本人のオリジナルが聴けないように思う。

例えば、サザンの真夏の果実は絢香さんも素晴らしいカバーをしておられるし、その他、有名でない方も、結構うまいカバーを出しておられたりする。

普段はそんなのを聴いて満足していたけれど、ふとしたきっかけで、オリジナルを聴いてみたいなと思った。

ユーチューブは僕の検索の仕方が下手なのかも知れないけれど、ちょっとこれといったのが見当たらなかったので、もう整理整頓が、無茶苦茶の僕のCDの棚を探してみると、稲村ジェーンのCDが出てきた。

確か「真夏の果実」はこのCDに入っていたはずだと思って見ると、やはりトラック6番に入っている。

本当に何年ぶりかにオリジナルを聴くと、やっぱりすごいなと思う。

桑田佳祐さんって特別美声であるとか、声量があるとかいうタイプではないと思うけれど、なんというか雰囲気が素晴らしいと言うか、たまらない。

サビのところは原由子さんとハモッっている。

それもまた最高。

本当に夢見心地の歌だなと思う。

ちょうど、この「真夏の果実」が出た頃は僕は就職して間もない頃で、仕事を覚えるのが精一杯で、恋をしているような心のゆとりなどなかった。

恋はできなかったけれど、サザンの歌を聴いて恋をした気分になることは、なんだか僕にとってはちょっとした幸せの一つだったように思う。

それは今でもそうかも知れないけれど、、、。

職場で、サザンの「oh クラウディア」の最初のところ

“”恋をしていたのは去年の夏の頃さ“”

という部分を何気なく鼻歌で歌ったら、バイトに来ていたNさんという女の子が「ナカシマさん、今の音程違うよ」と言って、正しい音程でちょっと歌ってくれた。

なんだNさんもサザン好きなのかとその時思った。

でもあのとき、僕の間違った音程を正してくれたことはほんの一瞬の出来事だけれど、いい思い出だなと感じる。

彼女も、このコロナにも負けずに生きていたら今年50歳になるのかと思うとなんだか信じられない気持ちになる。

まあ、きっとどこかで生きていることとは思うけれど、、、。







あっ 雪だ

2021年02月18日 | 日記
今日は本当に寒かったと思う。

日が暮れて間もない時刻に、大阪市内の駅のホームに立ったら、雪が舞ってきた。
雪が降るというよりも雪が舞ってくるという程度の降り方だった。大阪はそんなに雪が降らないので、珍しいことに思える。

立春すぎの雪。

立春を過ぎて雪が舞うのを見ると、伊勢正三さんのなごり雪の歌詞を思い出す。

“”汽車を待つ 君の横で 僕は 時計を気にしてる
季節はずれの 雪が降ってる。
東京で見る雪はこれが最後ねと
さびしそうに君はつぶやく“”

歌詞を見ると、情景も目に浮かぶし、また、いろんな物語も想像できる。

最近の歌は、こういうしみじみとした情景や物語がなくなってしまった、という話をときどき聞くことがあるけれど、そのとおりだなと僕も思うことがある。

学生の頃、やはり日が暮れた時刻に駅のホームに立っていたら、雪が舞ってきたことがあった。
ホームの僕の斜め前には西洋人の父と子が立っていた。

子供は5歳くらいの男の子だった。

雪を見て僕が「あっ 雪だ」と心の中でつぶやいた瞬間に、その西洋人の男の子は
“”oh snow (オー スノー)“”とお父さんの方を見上げてつぶやいた。

そのつぶやき方は、本当に柔らかい感じの思い入れたっぷりのつぶやき方だった。

僕と西洋人の男の子は、ほぼ同時に同じことを、つぶやいたことになる。

しかし 当たり前の話だけれど、「あっ 雪だ」と言うのと“”oh snow“”というのでは全然雰囲気が違う。

きっと西洋人の男の子は心の中でヨーロッパの雪を想像しながら“”oh snow“”と言ったのかも知れないと僕は思った。

そして“”oh snow“”という言い方は「あっ 雪だ」という言い方よりもロマンチックだと思った。

とは言っても、僕は西洋かぶれではないつもりだけれど、、、。

ただ、何気なくつぶやく言葉、そして音楽の中に、その国の雰囲気、風土と言うかそういうものが何となく現れるものだなと思う。


自宅の最寄りの駅まで戻ってきてスーパーマーケットで買い物をして、外に出て夜空を眺めると、もう雪はやんで、空にほとんど雲はなく、天空の一番高い場所の近くに三日月のような月が出ていた。

家に帰ってきて月齢を調べると6.3になっている。6日目の月。

三日月と言うよりは半月に近い月齢だけれど、僕には三日月に見えた。

天空の高いところに月を見るのも久しぶりだなと思う。






春なのに寒かった

2021年02月17日 | 日記
僕が住んでいるマンションは敷地が広い割には植物はそんなに豊富ではない。

隣のマンションは5棟ほどあるマンションで、敷地も広く植物も多い。

最寄りの私鉄駅に行くときはそのマンションの敷地を通っていく。

隣のマンションの植物で僕の目につくのは椿と梅。

梅は白い花のものと紅い花のものがある。ふたつとも2メートル弱くらいの高さの比較的小さな木だけれど、可愛い感じでなんか目につく。

椿も、やはり花が目立つので目によく飛び込んでくる。

僕は秋のかえでの紅葉を天王山に見に行くことが多い。

天王山の紅葉のときはなぜかいつも山茶花の花も咲いている。

山茶花と椿は僕、よく見分けることができない。

なので、なぜ椿は秋にも春にも咲くのだろうと思っていたら、ある方が、秋の天王山は山茶花で一般に春に咲くのは椿と教えてくださった。

そういうことなのかと思った。

僕は体感温度の変化が割と激しい体質で、ちょっと動くとすぐに暑くなったり、止まっていると急に寒くなったりするので、暑いのか寒いのかを判断する自信があまりない。

しかし、今日は午前中は割と暖かかったように思うのだけれど。午後は急に寒くなったと感じた。

本当に午後は寒かったな。真冬の寒さという感じだった。

こうして暖かかったり、また、寒くなったりを繰り返しながらだんだん本格的に春になっていくのだと思う。