ケンのブログ

日々の雑感や日記

自分を愛するように

2021年06月02日 | 日記
数日前、久しぶりに隣の町の繁華街に行った。

緊急事態で人影はまばらというわけではないけれど、緊急事態の前よりは少ない。

歩道橋の前で、知り合い同士と思われるおじさん二人が顔を合わせて「よう、久しぶり」という感じで言葉を交わしていた。

一人のおじさんが「これ、でけへんのがつらいなあ」と言って、マスクをした口元にビールかチューハイのジョッキを持っていくようなゼスチャーをした。
もうひとりのおじさんが「ほんまや」と言った。

本当に、コロナそのものがしんどいと言うよりは、コロナによるいろんな規制のほうがしんどいという人のほうが少なくとも数的には多いのではないかと、こういうのをみていると如実に思う。

もちろん、コロナにかかってしまった方の気持ちは、その人や家族にしかわからないけれど。

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読売新聞を読んでいると、職場での接種が進んでいくような流れになっていることが読み取れるし、また、接種を受けたという証明書の発行も進められる流れになっているように読み取れる。

職場で接種と言うと、本当に待ったなしという感じになってしまうと思う。

僕も、今は会社に勤めていないから、ワクチンは心配とか思っているけれど。会社で接種となると、ワクチンが自分にとって心配という考えが、あっという間に、課長も接種したから、自分も接種しなまずいかなあ、とか、影響力のあるあの人も接種したから、これは、僕も接種しないと立場が悪くなる、とか判断の基準が途端にそちらの方にシフトしてしまう。

もう、それは、僕も周りの顔色をうかがって仕事をしているショボショボの会社員だったから、そういう気持ちになるだろうと想像できる。

実際に、社長がハマっていた健康食品を、周りのみんなが買っているというだけの理由で、ろくに食べもしないのに給料からの天引きで買っていたこともあるし、、、。

本当は一日一袋ずつ食べる健康食品だったけれど、食べずにたまっていて、たまたま腹が減ってほかに食べるものが何もないときにまとめて5袋くらい食べたこともあったっけ。

それでも、今は、会社に勤めていないので、まだ、もう少し様子見だけれど、もう接種の証明書がないとお店などにもいきづらくなるという気配を察知したら、ままよとおもって接種するしかないかなと思う。

本当に、風見鶏のような考え方で恥ずかしい限りだけれど。

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今日の読売新聞に全仏オープンテニスを棄権した大坂なおみ選手のツイッターへの投稿全文が載っている。

その中で次の部分に特に心をうたれた。

「私は元来、人前で話すのが得意ではなく、世界のメディアに言葉を発する前は、大きな不安の波にのまれそうになります。

私はとても神経質になり、常にベストな答えをしようとすることがストレスになると気づきました。

ここパリでも私はすでに傷つきやすく、不安定な状態になっているため、自分を大事にし、記者会見を欠席することがより良い選択だと考えました」という部分。

特に「自分を大事にし、記者会見を欠席することがより良い選択だと考えました」という僕が引用した最後のフレーズに心を打たれた。

この大坂なおみさんの言葉を見たとき

イエスの「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という言葉(マタイによる福音書22章)を思い出した。

自分を殺してまで、自分を抑えてまで、他者を愛しなさいとは書いてない。

自分を愛するように他者を愛しなさいと書いてある。

長い間、人類に語り継がれてきたイエスの言葉に即せば、愛するというのは、自分を犠牲にすることではなく、自分を愛することがまず基準になるということを、私達はこういう機会にもう一度思い起こしてみるべきなのだと思う。

あと、僕は大坂なおみ選手のインタビューの映像を見たことはないけれど、いろんなインタビューの映像を見ていると、インタビューする記者の側に、あらかじめ、こういうストーリーで記事を書きたいという流れがあって、そのストーリーに従って相手の気持ちなどおかまいなく誘導尋問のようなインタビューをする場合が多いというのも事実と思う。

そういう誘導尋問をかわすために、例えば橋本徹さんなどのように弁護士としての弁論術をいかして、記者の質問の前提となる知識不足を指摘して勉強して出直してこいという手法をとっていた方もおられた。

落合中日元監督のように、アホな質問にはまともに答えないという手法をとっておられた方もいる。

相撲取りならば、イヤな質問がきたら、「思い切っていきます」「何も考えずにいきます」「いやあ、必死だったので覚えてません」など質問をかわす定形パターンがあるけれど、テニスで世界に発信する言葉だとおもうと、そして大坂なおみさんの人柄ということを想像すると、それは、、、。と思ってしまう。

記者の方にも質問する時のモラルというものが要求されるのだと思う。
質問するほうもされる方も、人間同士なのだから。



一日いちにち無事に通れますように、それを第一に願っていきたい。





唱えごとの効用

2021年06月02日 | 日記
昨日の新聞の人生相談のコーナーにこんな相談が載っている。

「駅のエスカレーターを下りながらスマホを操作している人を見ると、後ろから突き落としたくなるような衝動さえ覚えます。

このままでは、ながらスマホや歩きスマホを巡って、いつか実際にトラブルを起こしてしまうのではないかと不安です。どうしたらこの嫌悪感を抑えることができるでしょうか」と。

※相談内容は僕が短く要約しました。

これに対する作家のTDさんの回答は要約すると次のようなものである。

「心の興奮を抑える方法として、私は唱えごとをします。私の知人は子供の頃、遊びで覚えた『だるまさんがころんだ』を3回繰り返すそうです」と。

僕は自分自身がスマホをしないせいか、ながらスマホに腹が立つということはお陰様でない。

ただ、どこで腹が立つかは人それぞれなので、あるきスマホに腹が立つという気持ちは十分に想像はできる。

以前も僕が読んでいる新聞に、あるきスマホでこちらに向かってくる人を見ると、わざとよけずに、ぶつかって、思いっきり文句をいってやろうかという気持ちになることがあるという主旨の投書をしておられたかたがあると記憶している。

さて、作家TDさんの人生相談の回答は、僕が読むと、それは違うやろう、と思うような回答である場合もあるし、そのとおりと思う回答もある。

回答の内容が意外性に富んでいて、ちょっと天然というのが作家TDさんの特色かもしれない。

男のことを天然とあまり言わないかもしれないけれど。

今回、この作家の方の回答、怒りや、興奮を鎮めるために唱えごとをするというのは、僕もとてもいいことなのだと思う。

唱えごとといえば、なむあみだぶ という念仏も代表的な唱えごとの一つと思う。

念仏について、他力本願とか、自力本願とか言われることがある。

そういうの本で読んだこともあるけれど、難しくてよくわからなかったし、結局どちらが正解なのかも忘れてしまった。

しかし、実利的な念仏の効用として、それを唱えることで、興奮とか怒りとかそういうものの対象から意識をそらすことができる、ということはかなりの確実性で言えると思う。

こういう意味での確実性なら、脳科学か何かの領域で科学的にも証明できるかもしれない。というかきっとできるだろう。

念仏が他力本願か自力本願かは、科学では証明できないけれど、、、。

さて、僕のブログで過去にも紹介したことがあるけれど
岐阜の八王源先生は
「念仏は なむあみだぶ で止めることがコツ。なむあみたぶつ まで言ってまうと それこそ“”お陀仏“”になってまうでね」と言っておられた。

それで、自らも、太鼓を叩くときに、「なむあみだぶ」と唱えながら叩いておられた。

先生が太鼓を叩くときは、なむあみだぶ の6文字を2文字づつにわけて
なむ あみ だぶ というふうに唱えて、実質3拍子で叩いておられた。

6拍子の音楽も2拍を一つの単位として捉えると 3拍子に聴こえるのと同じ理屈だと思う。

八王源先生が なむあみだぶ は なむあみだぶつ まで唱えるとお陀仏になってまうと言っておられたのは実はそれほど大きな意味はないと僕は思っている。

もし意味があるとすれば、なむあみだぶつ まで言うと7拍子になってしまい、唱える時のリズムがとても悪くなってしまう。(7拍子の音楽ってあるのかどうか知らんけど、、、。)

なむあみだぶ なら 3拍子の感覚で唱えられるので、太鼓を叩きながらでも、あるきながらでも唱えやすい。

そこに実質的な意味があると思う。

なむあみだぶ の意味は、そんなに深く考えなくても 阿弥陀様お守りください ということでいいと思う。

実際に唱えてみると、怒りや不安から意識をそらす効果があるということは、実感できる人が意外と多いのではないかと僕は思う。

なむあみだぶつ まで言うとお陀仏になってまう など八王源先生の言葉遣いは独特だった。

それは、やはり八百屋さんだったという先生の職業経験にもよると思う。

例えば「人を呪えば穴二つだから気をつけなさい」 という言い方だと単にことわざを引用した平凡な表現だけれど、

八王源先生は「ケンちゃん、人を呪うときは、ちゃんと自分が入る穴も掘っておいてからやれよ」という言い方だったので迫力があった。

なので、人を呪いたくなると、やはり先生のその言葉が頭によみがえってきて、やっぱ呪うのはやめとこ とうことで思いとどまってしまう。おかげさまだなと思う。

僕の場合はながらスマホはそれほど腹が立つということはないけれど、食事をしながらスマホを見ているが近くにいると食事って大切なことなのにそれをスマホを見ながらでいいのだろうかと思うことがある。

ながらスマホも本当に上を見ればキリがないという感じで一昨日には駅のトイレでスマホを見ながら用をたしているひとがいた。

夏になると思い出す松田聖子の「渚のバルコニー」という歌の歌詞に

“”右手に缶コーラ 左手には 白いサンダル
ジーンズを濡らして泳ぐあなた あきれて見てる“”

というのがあるけれど

それをもじって

“”右手にスマートフォン 左手には・・・“”
と考えると、これはもう想像を絶する様相を呈していると言わざるを得ない可能性もなきにしもあらずというところかとも思う。

本当にJRでは、「車内は抗菌加工が施されています。ご安心ください」とアナウンスしているのに、抗菌加工も毎日やり直さないとおっつかないということになりかねない。

それはともかく 一日いちにち無事にすごせますように それを第一に願っていきたい。