学生の頃、冬の寒い日に友達と一緒に歩いていて「寒いなあ」と僕が言ったら、その友達は
「寒かったらさっさと歩け。子供の頃、よく、おかんが言ってたわ。寒かったらさっさと歩きなさいって」と言った。
まあ、確かにさっさと歩くと寒くはなくなる。
僕は基本的にさっさと歩く習慣なので本当に歩いている限りはあまり寒いと思うことは確かにそんなにない。
ただ、電車に乗っていて窓が開いていると体が動いてないのに冷たい空気が入ってきてそういうときは寒くてしゃっくりがで出たりすることもあるけれど。
ただ、今日はそれでもちょっと歩いていても首のあたりが少し寒いかなとは思った。
立ち食いそばの店に入ると、そこのラジオが「今日の最高気温は6度です」と言っていた。
それを聞いて余計に寒く思えてきた。
結構、僕は数値などを聞いて暗示にかかりやすいタイプなのかも知れない。
その立ち食い蕎麦屋は立って食べる場所と座って食べる場所があったけれど、座る場所は椅子があまりにも低い。
僕は座ると足を前に投げ出したりするくせがあるから、窮屈な椅子のカウンターに座るよりも立って食べたほうがむしろ楽、というちょっと変わった身体感覚になっている。
迷うことなく立って食べたのだけれど、僕以外のお客さんは座って食べているようだった。
70歳代くらいのご夫婦も座って食べておられた。
「やっぱ今日は、冬型で寒いなあ」と奥さんが言った。
そうか冬型の気圧配置になっているのかと思ったけれど天気図など見ていないのでよくわからない。
「やっぱ、健康が一番やわ。健康はどこのお宮にお祈りに行ったらええの」と奥さんが言った。
「健康はどこのお宮って。健康のお祈りやったらどこのお宮さんでも聞いてくれはるやろう」とご主人が言った。
「でも、このお宮は商売繁盛とか、あそこは縁結びとかいろいろあるやん」と奥さんが言った。
「まあ、せやけど健康はどこのお宮でもありやで。健康が第一やからな」とご主人が言った。
ご主人の言うとおりと思ったけれど、最近は人間の仕事もいろいろ複雑になって分業化が進んでいるけれど、神様も分業の時代になったのだろうかと思った。
まさか神様の分業というのはないような気もするけれど。
しかし、神様って目に見えないものなのでひょっとしたら分業ということもあるのかも知れない。
分業というのとはちょっと文脈が異なるかも知れないけれど、自宅近くのM神宮でお受けしたお守りの紐が切れてしまったので代わりにお稲荷さんに行ったときに記念にお受けしたお守りをしばらくかばんにつけていた。
しかし、しばらく時が経過してお稲荷さんて狐のイメージ、狐のお守りというのもなんか少なくとも僕は嫌やなあと思ってそれを祇園さんのお守りにかえてしまった。
お稲荷さんにどういうご利益があって、祇園さんにどういうご利益があるのか僕もよく知らないけれど、なんとなくそういうのは自分の感覚で決めてしまう。
あまり、どこそこのお宮さんはどういうご利益とか考えないたちだとは思う。
それでもお宮に行くとどんな神様が祭ってあるのかお宮の立て札に書いてある説明などはまめに読むことが多いけれど。
僕が住んでいる街の西隣の街のお宮にはスサノオノミコトやノミスクネノミコト(相撲の神様)
それに恵比寿様などがお祭りしてある。
毎年1月10日には福娘に選ばれた巫女さんが恵比寿さまをお祭りしたお堂の傍らで鈴をならしてお授けをしてくださる。
僕も過去に3回くらいこのお授けを受けたことがある。特になにも買わなくても頼めばその場でお授けをしてもらえる。
やはり、巫女さんにお授けをしてもらうと、気分がいいことは確かだと思う。
「巫女さんのくせに」と言って物議をかもした国会議員も何年か前にいたような記憶があるけれど、巫女さんのくせにという感覚は僕にはちょっとわからない。
僕の自宅から歩いて東に20分くらい行ったところにあるお宮は、国家安泰祈願というのが一番大きく書いてあったと思う。
きっとそういう由来があるせいだと思うのだけれど、そこのお宮に置いてあるパンフレットや機関紙に目を通すとちょっとここのお宮の宮司さんは右よりなのかなと思うこともある。
しかし、結構面白い宮司さんだ。
そのお宮には結構いろんな古文書などもあるようだ。
「古文書などの研究も宮司がなさるんですか」と僕は宮司さんに聞いてみたことがある。
すると宮司さんは
「いや、それは学者の仕事です。私はそういう仕事はしません」と言った。
「でも、学者が来て、古文書の研究をしてくれるなんてすごいですね」と僕は言った。
すると、宮司さんは
「その学者がくせもんなんですわ。研究は助手にやらせといて、自分は監修のハンコだけ押しますからね」と言った。
まあ、いかにも世間にありがちなぶっちゃけ話という感じで思わず笑ってしまったけれど、きっとそうなんだろうと思った。
そこのお宮には菅原道真の歌を書いた木製の札があるのだけれど、字が草書でくずしてあるのでよく判読できない部分がある。
「あの歌はなんて書いてあるんですか」と僕が言ったら、宮司さんはおでこに手を当てて「いやあ、ここまで思い出しかかってるんやけど思い出せません。
今まで、奥で事務の仕事してて、表に出てきて、急に歌の話になったから頭が切り替わらんのですわ。曖昧な記憶で生返事すると、インターネットそれが広まってしまうこともあるからわしも下手なことは言えんのですわ」と言った。
まあそういうのも今の時代はありがちな話だなと思う。
宮司さんも随分、お歳でど忘れも多くなっているかも知れないし。
それにしても、最近は次々と本をたくさん出す学者の中には、本当に実質的な中身は出版社が書いて、学者の先生はそこに監修のハンコを押すだけ。
あとは学者の知名度で本が売れる。
そういうこともきっと案外多くあるんだろうなと思ったりする。