ケンのブログ

日々の雑感や日記

阪神大震災から26年 寒の内

2021年01月17日 | 日記
大学入試の共通テストが終わってちょっとネットのニュースをチェックすると換気が寒かったという見出しが出ている。

本当に色々、大変だったと思う。

でも、なにしろ終わって良かったと思う。

今日は阪神大震災から26年ということで新聞にその話題が色々出ている。

あの日 僕は大阪市の南の方に住んでいて、早朝に地震が来た時、まだ寝ていたけれど、それでも、これは今までに経験したことのない揺れだと思った。

それで思わず掛け布団の中に頭まで潜り込んで、揺れている間、なむあみだぶ と必死に念仏を唱えていた。

なんとなく思わずそうしてしまったという感じだ。

かなり長く揺れていたけれどとにかく揺れはやんだので、また二度寝してしまった。

当時、僕が勤めていた会社の部署は朝10時の始業だったので8時に起きて9時の電車に乗れば十分間に合うという状況だった。

8時頃に起きてみたら、棚の上の置物がいくつか床に落ちていたのでやはり強い地震だったんだなと思った。

そして、さて会社に行くかと思って9時ころに地下鉄の駅に行くと駅のシャッターが降りていて、地震で運休 というような張り紙がしてある。

これは あかん と思ってまた家に戻りテレビをつけると煙の上がる神戸長田区の様子、無残に横倒しになった阪神高速道路などの映像が次々とテレビに出てきた。

それで、初めて事の大きさを知った。

会社に電話したら今日は出てこなくてもいいと言われた。

その翌日から地下鉄が動き始めたのかどうか、それは記憶にない。

やはり、人間の記憶力って、自分にとって印象深いことは覚えていてもそうでないことは忘れてしまうんだなと思う。

しかし、僕は阪神大震災で通勤に不便したという記憶もないから、きっと地下鉄はほどなく開通したのだろうと思う。

次の日 会社に行ったら宇治から通っている子は1月17日に出勤してきたと聞いてびっくりした。

そんな遠いところから大阪北のターミナル近くの会社までどうやって来たんだろうと。

その子は阪神大震災の何年か後に、二人目の子供の出産のときに、出血が多かったとかいうことで亡くなってしまった。

そんなことは妙に覚えているからつくづくいびつな記憶力だなと思う。

新聞には神戸では灯籠に火をつけ復興の合言葉になった「がんばろう」がうかびあがった。と出ている。

そういえば震災の前年、1994年の春先に神戸グリーンスタジアム(いまは違う名前になっていると思うけれど当時はそういう名前の球場だった)に行ったらスコアボードの一番打者のところに「イチロー」とカタカナの文字が書いてある。

当時はカタカナ=外人選手という認識だったから、いやあオリックスも今年は日本人みたいな名前の外人をとったなあと思った。

いざ、試合が始まると外人ではなく本当にどこから見ても日本人という顔のスマートな体形の選手が出てきてびっくりした。

あの年もイチローは大活躍だったけれど その翌年 震災の年から「頑張ろう神戸」と袖に書いたユニフォームでイチローは本当にすごかったなと思い出す。

イチローの全盛期には、毎日、新聞やネットでイチローの打率をチェックするのが楽しみの一つだった。

そのイチローも体形はそんなに変わってないけれど、もう引退して白髪も多いから、それは、あれから26年経つわけだと思う。

当時会社の僕の部署の主任だった人が昭和24年生まれでちょっと計算するともう72歳になる。

僕も今年で59歳だし。早いなと思う。 

確かに地震のときも、例えば火が迫る中、柱の下敷きになって動けない妻に「かあちゃんごめん」と言って逃げた人の心の痛みとかそういう頑張りだけではどうにもならない部分というのはいくらでもある。

でも高速道路の復旧とかそういうものは、頑張り次第でできるものであったような気がする。

今のコロナは、確かロンドンの市長が制御不能と言ったように、何をどう頑張ればいいのか見えにくいというのが一番の難点のように思う。

話は変わって、
1月5日が小寒で1月20日が大寒。なので今は「寒の内」ということで、Yテレビのアナウンサーの方が一昨年、大阪南部のお寺で滝に打たれる修行をした話題が出ている。

修行と言っても要するにテレビで滝に打たれるアナウンサーの生中継をしたという話だけれど。

その感想としてアナウンサーの方は
「滝に打たれて、あら不思議、心頭滅却すれば火もまた涼し、的なことはなく、ただただ寒い、冷たい、意識を保つのに必死。ですが終わったあとはしばらく外の寒さをまったく感じないほどで、気分はとても爽快に。スタジオの共演者からは顔つきが凛々しくなった気がすると言われました」と語っておられる。

どんなことでも意味のないことはないわけで滝に打たれるのも打たれた人にしかわからない意味や意義があるのだと思う。

ところで金光さんは滝に打たれるというようなことに関してこのように語っておられる。

「水をかぶって行(ぎょう)をするというが、体にかぶっても何にもならない。心にかぶれ。寒三十日の水行(すいぎょう)をするといっても、それは体を苦しめて病気をこしらえるようなものである。家内や子供の病気のために水をかぶって、一週間、日参しても治らなければ、自分の体に傷がつくだけである。

水をかぶったからまことである、かぶらないからまことがないとは言えない。食わずの行をするのは金光大神は大嫌いである。食べて飲んで体を大切にして信心をせよ」と語っておられる。
※金光教教典抄 天地は語る より引用

金光さんのこういう現実に即した合理的な考えって僕好きだなと思う。ちょっとユーモアもあるし。