2日ほど前に大阪の北のターミナル駅を歩いていて、歩きスマホの人があまりにも多いのに驚いた。
紙媒体の時代にも漫画の本を読みながら歩いている人はいたけれど、そういうのはかなりまれな例であったように思う。
もうかなりの人がスマホを見ながら歩いている、男性も、そして女性も。合理的に考えたらあれほど多くの人が行き交うターミナル駅でスマホを見ながら歩いていたら危ないことは誰にでもわかること。
それを、つい、してしまうのは、やはりスマホを見るという行為に一種の中毒性があるのだなと思った。
僕はスマホではなくタブレットだから、スマホのようにどこででも取り出して歩くということはできない。
しかし、室内などのタブレットを開ける場所でタブレットを開くとつい無意味にいろんなものをみてしまうクセはある。
やはりそこには中毒性があると認めざるを得ないように思う。
最初はAというサイトを見ようと思ってタブレットを開いたらAに関連したAダッシュというサイトが出てきて、結局Aを見ないでAダッシュだけ見て、そのうち一体自分がどのサイトを見ようとしていたのか忘れてしまっているということもままある。
こういうのも無駄にタブレットを見てしまうというひとつの中毒性の一種のように思えてくる。
そんなことを考えていたら今日の新聞の編集手帳にこんなことが書いてある。
“”
内戦下の南スーダン、荒廃した極貧の村で充電のために蓄電池につながれた、おびただしい数の携帯電話を見た。標高4000メートル極限高地の僧院にはスマホ中毒で生気のない疲れ目の少年僧がいた。尼さんとのチャットに入れ込む僧の存在も聞いた。今更ながらであるけれど、その小さな機器が秘めた底なしの力を思う。
中略
世界中どこへ行ってもほぼ見てしまった光景、同一情報の共有で思考パターンの回路に大差はなくなってしまった。“”
※上記の新聞の文章は写真家、野町和嘉さんの文章を引用しながら書かれている。
本当にそのとおりだなと思う。
そんな折にこのコロナ。
例えば今日の新聞にコロナのワクチンができたときにそれを接種したいと考える人はその新聞の世論調査によると84%に登るという。
ワクチンができるスピードがかなり早いこと。もし健康被害が出て裁判になった場合は、製薬会社の保障をするのは政府になっている、という新聞記事を読んでいれば、84%もの人が接種を受けたいと思っていることが、そもそも情報の画一化であるようにも思えるのだけれど。
色々と世界の人が自分たちのあり方を考え直すときが来ているのではないだろうかと思う。