「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

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小林三吾氏の思い出 1932年11月 (御影暢雄)
2009-12-06 12:30:13
「(多喜二が)地下活動中に一度だけ、兄と音楽会に行ったことがあるんです。11月でしたか日比谷の公会堂で、シゲティの弾くベートーベンのバイオリン協奏曲を聴くためです。シゲティはヒトラーのファシズムに反対し、ドイツやオーストリアでの演奏を拒否した人だ、と兄に教えられました。あの時のあの感動はシゲティ以外のだれが弾いても二度と再現できないと思った。兄に「生きる喜びを感じた」と言わせたほどでしたから。見交わした兄の目にも涙が光っていました。第三章の繰り返し繰り返し現れるバイオリンとオーケストラのテーマは、兄の仕事への意欲をさらにかきたてたようでした。
 帰り際、兄は「よかったよかった、すばらしかった。さあ、これから仕事だ」といいながら、手を振って階段の下に消えて行きました。私と兄との、これが最後の別れだったのです。シゲティは兄が死んでちょうど20年後の(昭和)28年に祭来日し、日比谷公会堂で同じ協奏曲を演奏しました。私は聴きながら兄を思い出し、涙を止めることができませんでした。(注:三吾氏は東京交響楽団の一員として壇上で、演奏していた。~御影)
 朝日新聞1977年4月19~22日に掲載されたインタビュー。シネフロント別冊36号「時代を撃て・多喜二」特集号より抜粋。

 *三吾氏は人を介して、シゲティの演奏会の切符を届けられ、当日、隣の席に警察に追われている多喜二が現れたといいます。ペアの切符を用意して、多喜二の依頼で三吾に渡したのは誰だったのでしょうか。雨宮氏とか雑誌編集者だったのか?
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