建物探訪26
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帰り際、兄は「よかったよかった、すばらしかった。さあ、これから仕事だ」といいながら、手を振って階段の下に消えて行きました。私と兄との、これが最後の別れだったのです。シゲティは兄が死んでちょうど20年後の(昭和)28年に祭来日し、日比谷公会堂で同じ協奏曲を演奏しました。私は聴きながら兄を思い出し、涙を止めることができませんでした。(注:三吾氏は東京交響楽団の一員として壇上で、演奏していた。~御影)
朝日新聞1977年4月19~22日に掲載されたインタビュー。シネフロント別冊36号「時代を撃て・多喜二」特集号より抜粋。
*三吾氏は人を介して、シゲティの演奏会の切符を届けられ、当日、隣の席に警察に追われている多喜二が現れたといいます。ペアの切符を用意して、多喜二の依頼で三吾に渡したのは誰だったのでしょうか。雨宮氏とか雑誌編集者だったのか?