「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

1932年12月9日 三吾とシゲッティコンサート

2009-12-06 22:24:53 | takiji_1932
12/9 日比谷公会堂でのハンガリーのバイオリン奏者ヨーゼフ・シゲティのコンサートを弟・三吾とともに聴く。

1932年(昭和7)12月9日、日比谷公会堂では来日中のハンガリーのヴァイオリニスト、ヨゼフ・シゲティの「Gran Violin Concert」が開催された。

バックのオーケストラは、近衛秀麿の指揮による新交響楽団。
演奏曲目は、ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」だった。

この演奏会は不人気でチケットがぜんぜん売れず、コンサート当日は3日間ともかなり不入りだったようだ。シゲティは客席がガラガラなのに怒り、東京朝日新聞のインタビューに答えて「日本人の耳は驢馬の耳」と悪態をついた話は有名だ。

太宰治もこのコンサートに出かけたらしく、1935年(昭和10)に書かれた『ダス・ゲマイネ』の中で、「ヴァイオリンの名手が日本へやって来て、日比谷の公会堂で三度ほど演奏会をひらいたが、三度が三度ともたいへんな不人気だった」と記している。

本来は、12月11日までの4夜連続のコンサートだったはずだが、あまりに不入りなため11日はキャンセルされたようだ。


多喜二がチケットの指定席に座ると、隣りの席には弟の小林三吾がいた。

コンサートが終わり、観客たちが出口へゾロゾロと向かうころ、多喜二はひとり言のように「仕事だ、仕事だ」と言いながら、そそくさと席を立っていった。そして、日比谷公会堂の階段の雑踏へまぎれこむと、振り返って弟に手をふりながら暗闇の中をどこへともなく去っていった。三吾が生きてる兄を見たのは、これが最後だった。


多喜二がシゲティのコンサートに参加したことは三吾の証言からも明らかなことだが、本当に12/9なのかどうか疑問だ。

こうしてこのブログで1932年末の特高と革命党の攻防をたどっていると、多喜二が党中央壊滅から党中央再建運動にかかわり、極東反戦会議に奔走し、今村、杉本をロシアに国外逃亡させる地下活動をつづけながら、自分一人日比谷でコンサートを楽しむ――。

こうしたコンサートに、顔写真がたびたび新聞に公開されて指名手配されているに多喜二にコンサートのチケットを送り、これまた特高の尾行がついているかもしれない弟と会せるというのは、チケットを多喜二に渡した人物も党周辺の人物とは想像しがたい。

また、『多喜二の手紙』に収められている12月末付の書簡をわざわざ、京橋から投函する意味もない。
※まして、この手紙にあるナスの漬物だけの貧しい生活のなかで、「この金」を送るとする文面とは、どうしても不一致だ。


この「12/9」を特定したという水野説を再検討する必要がありそうだ。

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