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「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

阿部浪子による”若林つや評伝”に寄せて

2012-08-04 00:23:41 | 多喜二研究の手引き

阿部浪子の手で若林つやの評伝が刊行された。

同書には、6人はともに無名女性作家の、男たちとの交流についても書かれている。

若林つやは、小林多喜二に文学指導を受けた存在で、プロレタリア作家同盟の新進作家として期待された存在。つや子宛の書簡が多喜二全集に収録されている。

かつて平野謙が、多喜二と愛人関係にあったと下衆の勘繰りをしたが、それを訊ねた貴司山治宛書簡で、本人は「文学の師匠」ではあるけれど、男女の仲ではないと断言している。

本書は、1960年代に貴司山治が若林つやに会いに来たエピソードを紹介していて興味深いが、やはり徳島県立書道文学館で開催された「貴司山治展」に展示された、若林つや書簡の物証に軍配を挙げたいところだが、結論を性急に求める必要はないだろう。

本田延三郎の娘さんの著書にも異論はあるけれど、両論併記して「考える」ということが大事なことだろうと思う。

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明治大学教授 山泉 進――視点・論点 「発禁本と"言論の自由"」2012年07月09日 (月)

2012-07-20 00:57:08 | 多喜二研究の手引き

明治大学教授 山泉 進
 
■現在、私の勤務している東京・駿河台にあります明治大学リバティタワーの中央図書館1階ギャラリーにおいて、「出版検閲と発禁本-城市郎文庫展」が開催されています。普段はなかなか目にすることができない、小林多喜二の『蟹工船』初版本のような貴重な図書250点あまりが展示されています。この展示会は、昨年、城市郎さんから、「発禁本」を中心とした膨大なコレクションを明治大学図書館に寄贈していただき、その披露をかねて企画されています。城さんは、現在も、90歳をこえてご健在ですが、10代から集め始めたコレクションの数は、7000点にもぼるともいわれていますが、「発禁本」の世界ではよく知られている貴重なコレクションです。そこで、今日は「発禁本」をテーマにして、「言論の自由」に関係する、いくつかの問題についてお話ししてみたいと思います。

■ところで、「発禁本」という言葉を聞いても、おそらく若い世代のひとたちにはピンとこないとおもいます。一般的にいえば、国家、この場合は行政権力ということになりますが、国家の「検閲」により発売や頒布が禁止された書物のことをいいます。徳川時代にはいうまでもないことですが、明治維新政府も、言論について厳しい統制を加えました。「言論」という言葉は、文字通り「言うこと」と「論じること」ですが、よく「舌」と「筆」による運動というような言い方で言われてきました。「舌」はもちろん「話すこと」、「筆」は「書くこと」を意味しています。「舌」の自由については、明治初期に福沢諭吉らにより「スピーチ」の翻訳語として「演説」が用いられ、演説が文明化の象徴として奨励されてきました。自由民権運動の時代には、各地で盛んに演説会が開かれるようになります。政府は、弁論や集会を規制するために、1875(明治8)年に「讒謗律」を公布したことを手始めとして、1887(明治20)年には保安条例、1900(明治33)年には治安警察法を定めて、政治結社や集会を取り締まっていきます。「筆」の自由に対しては、早くも、1869(明治2)年に、「新聞紙印行条例」と「出版条例」を公布して、新聞や雑誌、単行本を取り締まりの対象としていきます。書籍の出版について、その後の規制を紹介しますと、1887(明治20)年には勅令によって「出版条例」が制定されます。そして、帝国議会の開設後の1893(明治26)年には、新たに法律として全35条の「出版法」が制定、公布されます。
 

 出版法(1893〈明治26〉年4月公布、法律第15号)
第19条
安寧秩序ヲ妨害シ、又ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認ムル文書図画ヲ出版シタルトキハ、
内務大臣ニ於テ其ノ発売頒布ヲ禁シ、
其ノ刻版及印本ヲ差押フルコトヲ得

 
■この「出版法」が、敗戦まで書籍の出版を規制していきますので、少し詳しく内容をみておきたいと思います。第1条で、「出版」とは、方法を問わず文書・図画を印刷して発売、頒布すること定義されます。そして、罰則規定との関係で重要なのですが、「著作者」「発行者」「印刷人」を選定し、公表することが義務づけられます。その文書を著述、編纂する者または図画を作為する者を「著作者」、発売頒布を担当する者を「発行者」、印刷を担当する者を「印刷人」とされます。そして、発行日の3日前に製本2部を内務省に提出すること、出版にあたっては著作者・発行者、両名の印鑑を押した「出版届」を提出すること、また書物の末尾には、「発行人」と「印刷人」の氏名・住所・発行年月日を記載することが求められています。そして、「発禁本」に関係する直接的な条項としては、第19条で「安寧秩序を妨害し、または風俗を壊乱するものと認むる文書図画を出版したるときは内務大臣に於いて其の発売頒布を禁じ、其の刻版及印本を差押ふることを得」と定められました。このような法律のもとで、出版された書物が、「安念秩序の妨害」、あるいは「風俗壊乱」にあたるかどうか、ということがチェックされました。これを「検閲」といいます。この業務は内務省警保局の図書課でおこなわれました。このようにして「発売頒布」を禁止された書物が「発禁本」とよばれるわけです。したがって、「発禁本」には、政治体制や社会秩序にとって危険とされる書物であるか、あるいは家族制度や性道徳を壊すおそれのある書物か、2つの種類があったことになります。
 
■第二次大戦後は、日本国憲法の第21条第1項で「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と明文化され、言論・出版の自由は、基本的人権である「表現の自由」の1つとして保障されました。しかも、第2項において「検閲」を明確に禁止しました。とはいっても、「発禁本」がなくなったわけではありません。敗戦の占領期には、新聞、書籍、放送などのあらゆるメディアはGHQによる「検閲」のもとにありました。また、行政による「検閲」は廃止されましたが、名誉棄損やプライバシーの侵害、あるいは著作権の侵害などの権利侵害により裁判所より出版が差し止めされるケースがありました。これも俗に「発禁」とよばれます。また、性描写をめぐっては、刑法第175条の「わいせつ物頒布罪」により刑事罰の対象になることがありました。裁判所により「わいせつ物頒布罪」と認められた書物は、実質的に出版することが不可能になり、この場合も「発禁本」とよばれることがあります。「チャタレー事件」や「襖の下張り事件」などが有名です。
 
■ところで、「発禁本」の問題は、「言論の自由」と関係していますが、また「思想の自由」の問題でもあるということを忘れてはなりません。明治の末期におきました、幸徳秋水ら24名に死刑の判決が下されました「大逆事件」においては、被告たちの思想が読書からきているということで、それまで合法的に出版されていた100冊以上の社会主義に関係する書物が発禁処分にされました。また、第二次大戦中の1942年、雑誌『改造』に掲載された細川嘉六の論文が発禁処分をうけ、捜査中に日本共産党再建の謀議があったとして、60名あまりのジャーナリストたちが治安維持法違反に問われた、「横浜事件」も言論弾圧の事件でありました。
 
■明治大学での「城市郎文庫展」は7月22日まで開催されていますが、パンフレットに記されています城さんの挨拶文には、「時流に抗(あらが)い、抹殺され、埋没した受難本の探索に、ひたすら執念を燃やしつづけてきた私の夢は、せっかく集めた貴重な本の数々が、後世の人々に有効に活用されること」である、と呼びかけています。そして、「発禁本図書館」が設立されることを訴えています。これまでは、どちらかといえば、市井のマニアのコレクターの領域に限定されてきた「発禁本」の世界が、現代のインターネットの時代に、「言論の自由」の問題として、再び焦点があてられることを私は望んでいます。

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Loď na kraby : Takidži Kobajaši(1947 V Praze)

2012-07-01 22:48:47 | 多喜二研究の手引き

Loď na kraby : román o těžkém životě japonských rybářů / Takidži Kobajaši





詳細情報



タイトル

Loď na kraby : román o těžkém životě japonských rybářů / Takidži Kobajaši



シリーズ名

Lidová knihovna ; 59



出版地(国名コード)

CZ



出版地

V Praze



出版社

Pavel Prokop



出版地

Loď na kraby : román o těžkém životě japonských rybářů / Takidži Kobajaši



出版社

Svoboda



出版年

1947



大きさ、容量等

125 p. ; 17 cm



注記

Translation of: Kani kōsen



WorldCatへのリンク

85427980





Vyd. 1



出版年月日等

1947



NDLC

KH273



資料の種別

図書



言語(ISO639-2形式)

cze :
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小林多喜二の作品に就いて 篠崎陽一(コップ神奈川地方協議会 昭和8.3 1933)

2012-07-01 22:43:54 | 多喜二研究の手引き

マルクス五十年祭記念読書週間のために

日本プロレタリア文化連盟




詳細情報



タイトル

マルクス五十年祭記念読書週間のために



著者

日本プロレタリア文化連盟



出版社

原資料の出版事項: コップ神奈川地方協議会 昭和8.3 1933



注記

シリーズ: コップ神奈川地・協パンフレット ; 第1号



注記

原資料の形態事項: 22p 17cm



JP番号

46034483



製作者

国立国会図書館



NDC

363



対象利用者

一般



資料の種別

図書



目次・記事(URI形式)

標題



目次・記事(URI形式)

目次



目次・記事(URI形式)

巻頭言 コツプ神奈川地方協議会



目次・記事(URI形式)

マルクスレーニン万才 山城靜雄



目次・記事(URI形式)

「マルクス五十年祭」に際し開拓者の歩める道を訪ねて 十河研



目次・記事(URI形式)

小林多喜二の作品に就いて 篠崎陽一



記録形式(IMT形式)

image/jpeg



言語(ISO639-2形式)

jpn : 日本語
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Il peschereccio di granchi / Kobayashi Takiji (1903-1933) ; traduzione a cura di Faliero Salis

2012-07-01 22:33:36 | 多喜二研究の手引き

Il peschereccio di granchi / Kobayashi Takiji (1903-1933) ; traduzione a cura di Faliero Salis





詳細情報



タイトル

Il peschereccio di granchi / Kobayashi Takiji (1903-1933) ; traduzione a cura di Faliero Salis



出版地(国名コード)

IT



出版地

Torino



出版社

Tirrenia Stampatori



出版年

2006



大きさ、容量等

119 p. ; 21 cm



注記

Translation of: Kani kôsen



ISBN

8877635894





1a ed



出版年月日等

2006



NDLC

KH273



資料の種別

図書



言語(ISO639-2形式)

ita
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阿部次郎宛多喜二書簡(1924.11.)は秋田県立図書館が所蔵している

2012-07-01 22:24:33 | 多喜二研究の手引き
多喜二の手紙
資料区分 図書
書名 多喜二の手紙
副書名 阿部次郎宛
著者名 小林多喜二/〔著〕
出版年月 〔1924.11消印〕
ページ 8p
大きさ 27cm
分類記号 K910.2

--------------------------------------------------------------------------------

■資料情報
No 所蔵館名 資料番号 請求記号 帯出区分 配架区分 蔵書区分 状態
 1  秋田県立  128776705  A910.2/1/41  貸出禁止  書庫4郷土資料(A記号)  郷土  在庫

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荻野富士夫『特高警察』岩波新書で刊行

2012-05-26 23:30:33 | 多喜二研究の手引き

 

特高警察
荻野富士夫著
(新赤版1368)

 
 
<form action="/cgi-bin/bookorder" method="post" target="body">
<input type="hidden" name="isbn" value="1,4313680" /> <input type="hidden" name="orgUrl" value="sin_k651.html" /> <input type="submit" name="fromUrl" value=" 購入する " />
</form>
 

 悪名高き特高警察は、過去のもの?

 ワーキングプアが社会問題化するなか、『蟹工船』ブームがおきたのは、記憶に新しい。劣悪な環境で働かされる労働者を描き、当局の政治弾圧を批判した作者小林多喜二は、30歳で特高警察に虐殺された。

 1911年に創設され、1945年の敗戦により「解体」されたとされる特高警察。果たして「特高警察」は過去のものなのか。

 本書は、『特高警察関係資料集成』(全38巻)をまとめるなど、特高が残した大小さまざまな記録を読みこんだ著者が、その「生態」に迫ったものである。自分たちこそが国家を守っているとの使命感にもえる特高警察は、中央で、地方で、また「満州」や朝鮮で、いかなる行動をとってきたのか。

 日本に特殊かどうか、ドイツの秘密警察ゲシュタポとの比較も試みる。

 著者が「生態」と表現するように、生き物のごとく増殖し、しぶとく生き残り続けるさまが見てとれる。

 貧困問題、震災や原発事故など、さまざまな社会不安にゆれる現代日本でいま、「特高警察」を考えることに、不幸なことであろうがリアリティーがある。これからの未来のために、示唆に富む1冊である。

(岩波新書編集部 大山美佐子)
 
     
 

■著者紹介
荻野富士夫(おぎの・ふじお)1953年埼玉県生まれ。1975年早稲田大学文学部卒業。現在、小樽商科大学教授。専攻は、日本近現代史。
 著書に『特高警察体制史 増補版』(せきた書房)、『北の特高警察』(新日本出版社)、『戦後治安体制の確立』(岩波書店)、『思想検事』(岩波新書)、『外務省警察史』(校倉書房)ほか。
 編著に『治安維持法関係資料集』(全4巻、新日本出版社)、『特高警察関係資料集成』(全38巻、不二出版)ほか。

 
     
  ■目次  
 
 はじめに

 
 
I
特高警察の創設  
  1 特高警察の前史
2 大逆事件・「冬の時代」へ
3 特高警察体制の確立
   
 
II
いかなる組織か  
  1 「特別」な高等警察
2 特高の二層構造
3 一般警察官の「特高」化
4 思想検事・思想憲兵との競合
   
 
III
その生態に迫る  
  1 国家国体の衛護
2 特高の職務の流れ
3 治安法令の駆使
4 「拷問」の黙認
5 弾圧のための技術
6 特高の職務に駆り立てるもの
   
 
IV
総力戦体制の遂行のために  
  1 非常時下の特高警察
2 「共産主義運動」のえぐり出し
3 「民心」の監視と抑圧
4 敗戦に向けての治安維持
   
 
V
植民地・「満州国」における特高警察  
  1 朝鮮の「高等警察」
2 台湾の「高等警察」
3 「満州国」の「特務警察」
4 外務省警察
5 「東亜警察」の志向
   
 
VI
特高警察は日本に特殊か  
  1 ゲシュタポの概観
2 ゲシュタポとの比較
   
 
VII
特高警察の「解体」から「継承」へ  
 

1 敗戦後の治安維持
2 GHQの「人権指令」―しぶしぶの履行
3 「公安警察」としての復活

   
 

 結びに代えて

 主要参考文献
 おわりに

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青年たちは「蟹工船」を五感で読んでいる

2012-05-09 18:56:39 | 多喜二研究の手引き

青年たちは「蟹工船」を五感で読んでいる
―今日的読書事情         


2008年「蟹工船」は若者を中心にバカ売れし、大きなブームである。

青年たちの共感の特色は映画、朗読、音楽など眼や耳、鼻や肌で感じとるところに今日的な特色があるといえる。原作「蟹工船」は活字だけなのにニオイを含め、その五感に訴えて表現されている。

その多喜二の表現戦略が、21世紀のデジタルメディアであるインターネットばかりではなくテレビ・新聞・雑誌でも生きた。原作・漫画「蟹工船」を対象に感想を公募するという新機軸のエッセーコンテスト(小樽商科大学、白樺文学館共催)は、ネットカフェ部門を設けるなどその狙いと普及効果から大成功だった。

2008年2月生きづらさを訴えるロスジェネ世代の生々しい声と多様な読みをまとめた『私たちはいかに「蟹工船」を読んだか―エッセー作品集』が刊行されると、メディアは彼らにあつい視線を注いだ。

そして5月、上野駅内の書店が「これって、カニコー?!」のポップ広告を掲げて新潮文庫販売キャンペーンをうつと、出版不況の枯れ野にも火がつき、全国の書店で平積みされてバカ売れした。その予想外の事態は、「秋葉原事件」と「リーマンショック」を機に、さらに加速して日本列島と世界を駆けめぐった。「蟹工船」は「2008年流行語大賞」トップテンに選ばれ歴史的事件となった。

ついで2009年も『蟹工船』発表80年を記念するように、俳優座「蟹工船」公演をはじめSABU監督「蟹工船」の新作映画や、関係の書籍やDVDの販売が目白おしで、そのブームは今も続いている。


漫画―眼で感じて読む 

まず文庫・新書では、1953年以来160万部以上発行の新潮文庫『蟹工船・党生活者』をはじめ、1967年初版の岩波文庫『蟹工船,一九二八・三・一五』、初出の『戦旗』の表紙デザインを流用した角川文庫『新装改版蟹工船・党生活者』は、そのモダンさで好評。単行本では、ブームの仕掛人のひとり雨宮処凛解説の『蟹工船』(金曜日2008)をはじめ、『蟹工船・不在地主 ―小林多喜二名作ライブラリー』(新日本出版社1994)、『蟹工船 ―お風呂で読む文庫 91』 (フロンティア文庫 2005) 『蟹工船 ―デカ文字文庫』(舵社2006)が続いている。漫画は、藤生ゴオ作画・島村輝解説『マンガ蟹工船』(東銀座出版社2006)とこれを改定再編した『劇画「蟹工船」小林多喜二の世界』(講談社プラスアルファ文庫2008)と『蟹工船 ―まんがで読破』(イーストプレス2007)を双壁に原恵一郎『蟹工船 ―Bunch Comics Extra』(新潮社2008)がつづき、原作から離れたイエス小池『劇画蟹工船 覇王の船』 (宝島社文庫 2008)の4種が健闘している。 

●耳目総動員の映画・朗読DVD/CD 


映画では、今夏新宿・テアトルほか全国ロードショーを予定の『蟹工船』(SABU監督、松田龍平主演)が話題を集め、半世紀を超えて上映されている山村聰監督版( 北星1953)は2007年にDVDが発売され、いまだ全国で上映されている。朗読CD/DVDは北海道出身の強みの若山弦蔵『蟹工船』(新潮 2008)、『30分でわかるシリーズ―蟹工船』(DVD 2009)、『文学のしずく第4巻 蟹工船』(中経出版 2007)。音楽CDは、ケイ・シュガー『多喜二へのレクイエム』(オフィスhare2006)、新作映画「蟹工船」のインスパイア・アルバムも今夏キューン・レコードから予定されている。 多喜二の作品はといえば、初期作品を集めた『老いた体操教師―瀧子其他』(講談社文芸文庫2007)、祥伝社新書編集部が独断で選んだ『小林多喜二名作集―近代日本の貧困―』(2008)、『小林多喜二名作ライブラリー』(新日本出版社 全4巻)がおすすめ。この秋には『小林多喜二書簡集』が岩波文庫の新刊として登場。
l
多喜二がなぜ「蟹工船」を書き、また社会主義者となったのか――その青春、人生の歩みに興味を持たれた方には、多喜二の生涯をドキュメンタリー映画DVDがある。生誕100年記念製作の池田博穂監督『時代(とき)を撃て・多喜二』(共同企画ヴォーロ2004)、2008年芸術祭大賞受賞の守分寿男脚本『いのちの記憶―小林多喜二・29年の生涯』(ソニーミュージック2008)の2種があり、それぞれ力作。今井正監督の映画『小林多喜二』(山本圭主演1973)は、VHS/DVD化へ動きだすだろうか。



●多喜二の生きざまを知る 
多喜二の評伝では、今話題のノーマ・フィールド著『小林多喜二―21世紀にどう読むか』(岩波新書2009)が筆頭だが、一巻にまとめられ再刊の手塚英孝『小林多喜二』(新日本出版社2008)や、大冊の倉田稔『小林多喜二伝』(論創社2003)や、多喜二の地下活動を支えた森熊(旧制伊藤)ふじ子の遺句集を抄録した夫の政治漫画家・森熊猛自伝『マンガ100年見て、聞いて』(東銀座出版社2005) 、松本清張『新装版昭和史発掘4』(文春文庫2005)、澤地久枝『完本昭和史のおんな』(文藝春秋2003)、藤田廣登『小林多喜二とその盟友たち』(学習の友社2007)、くらせ・みきお『小林多喜二を売った男―スパイ三舩留吉と特高警察』(白順社2004)、『新潮日本文学アルバ28小林多喜二』(新潮1985)なども興味深いものがある。

ドキュメンタリーではないが三浦綾子『母』(角川文庫1996)、 文学散歩ガイドマップは『小樽小林多喜二を歩く』(新日本出版社2003)に続き、作家同盟書記長、反帝同盟執行委員、共産党中央部員として活躍の地をめぐる『ガイドブック小林多喜二の東京1930〜1933』(学習の友社2008) 、生地大館の『小林多喜二生誕の地を歩く』(国賠同盟大館鹿角支部2008)も。

作品論では、ブームの呼び水となった新書サイズの『私たちはいかに「蟹工船」を読んだか』(遊行社2008)をはじめ、昨年9月英国・オックスフォード大学で開催の多喜二シンポジウムの記録『多喜二の視点から見た身体・地域・教育』(小樽商科大学出版会・紀伊國屋書店2009)、『いま中国によみがえる小林多喜二の文学』(東銀座出版社2007)、『「文学」としての小林多喜二』(至文堂2006)、『小林多喜二と「蟹工船」』( 河出書房新社2008)、『読本・秋田と小林多喜二』(同刊行会2001)などが最新の研究成果を多彩にまとめていて圧巻。

単著で注目はハングル版も韓国で出版された伊豆利彦『戦争と文学』(本の泉社2005)、島村輝『臨界の近代日本文学』(世織書房1999)、松澤信祐『小林多喜二の文学』(光陽出版社2003)、新刊では荻野富士夫『多喜二の時代から見えてくるもの』(新日本出版社2009)、不破哲三『小林多喜二―時代への挑戦』(新日本出版社2008)、浜林正夫『「蟹工船」の社会史』(学習の友社2009) などが注目される。

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立命館平和研究‐立命館大学国際平和ミュージアム紀要‐  第14号 原稿募集

2012-05-05 08:38:35 | 多喜二研究の手引き

立命館平和研究 第14号 原稿募集

立命館平和研究

‐立命館大学国際平和ミュージアム紀要‐

第14号

 

 

 

原稿募集中!

 

 

 

 

 

1. 平和に関する研究論文・学術実践報告の投稿を求めます。投稿希望の方は、7月7日までにエントリーしてください。


2. 投稿の流れ
7月7日…エントリー締切り

9月30日…原稿締切り
↓投稿原稿は編集委員会が審議し、12月末日までに連絡します。
3月上旬…刊行(予定)

 

3. その他
論文(12,000~40,000字)、 資料紹介(4,000~20,000字)、調査・研究・実践報告(4,000~20,000字)など。
種類と分量、エントリー方法、投稿の様式や注意点など、詳しくは、こちら(PDF)をクリックしてください。

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多喜二学”への眺遠――生誕110年を前にして(2)

2012-05-05 01:02:48 | 多喜二研究の手引き
【3】草稿ノート公開がひらく多喜二研究の展望



その一方で、研究者にとって課題となっていたのが、多喜二テクストについての再検討だった。

 2003年以降からのこの10年の間にも、多喜二ライブラリーの資料発掘の作業の進展によって、全集未収録の資料が一定程度となり、さらに、多喜二テクスト再検討の作業はすすめられており、「小林多喜二草稿ノート」が、日本共産党中央委員会への所蔵がえとなったことが明らかになった。関係者の根気づよい交渉の結果、複製品制作とその公開が実現。これを機に、現存する多喜二肉筆による全集が企図された。

 これが実現したのが、「小林多喜二草稿ノート・直筆原稿」で、デジタル画像となってDVD化された(雄松堂書店・10万5000円)。これには、草稿ノート(全14冊)、「析々帳」と表紙に書かれた日記(1冊)、「蟹工船」「転形期の人々」などの直筆原稿、「党生活者」の中央公論の完全ゲラ、草稿ノートに対応する25作品の初出誌の誌(紙)面が収録された。

これまで、多喜二ノ―ト草稿は、『多喜二全集』(新日本出版社 1982~)の第1巻に、「曖昧屋」「来るべきこと」(シナリオ)「雪の夜」「その出発を出発した女」「山本巡査・第2巻には、「監獄部屋」「防雪林(改作)」。第3巻は、「生れ出ずる子ら」について」「無題」「「女囚徒」の自序」、「築地小劇場来る―上演脚本に就いて」「政治と芸術の「交互作用」」。第7巻は、「ひる!!」「断稿(1)」「断稿(2)」「And Again!!」「「師走」の改作」「酌婦」「無題」「「人を殺す犬」の改作」「放火未遂犯人」「営養検査」「馬鹿野郎!!―自殺しかけた同志」などが文字に起こされ、収録されている。

これは日本共産党中央委員会(草稿ノート12冊、「析々帳」1冊)と、市立小樽文学館、日本近代文学館、多喜二ライブラリーなどの提供資料で実現したものだ。全集未紹介のメモも多く、また多喜二が地下生活に入って執筆し、1932年の「赤旗」に掲載された「高山鉄」名による小説「村の事件」を、多喜二「未発掘」作品として「認定」して収録してもいる。

これにより、戦前は禁書扱いされていたため、散逸してしまったものは多いが、多喜二の文学を、もう一度それを生み出した時代と文化の総体の中に引き戻し、新しい光をあてていくことへの道が開けた。



では「小林多喜二草稿ノート・直筆原稿」の内容をみてみよう(草稿ノートに付した番号は便宜的なもの。〔 〕内は多喜二が記したタイトル。特に記載のないものは日本共産党所蔵)。

●草稿ノート

草稿ノート(1)=(1925―1927) 「姉との記憶」「「生まれ出づる子等」について」[札幌の北海道絵画展を見た]「曖昧屋」[無題](ドストエフスキーについて)[来るべきこと]「And Again」[「師走」の改作]「父の危篤」「酎婦」「人を殺す犬」断稿「恋愛の諸相」、「生の諸相」などのメモ「人を殺す犬」の書き出し改訂断稿(「酎婦」関連のもの)断稿「春が来ると淋しい」、断稿「大手門」ほか。



草稿ノート(2)=〔昭和二年 第一号〕「雪の夜」「「人を殺す犬」の改作」「お恵と彼」「大熊信行先生の「社会思想家としてのラスキンをモリス」紹介のために小樽新聞、タイムスへ出す草稿」「女囚徒(一幕)」「女囚徒の自序」「放火未遂犯人」「"Eternal problem"(父の危篤)の最後に」「その出発を出発した女(上編)」「残されるもの」

草稿ノート(3) 〔原稿帳 昭和二年 第二号〕「その出発を出発した女(中編)」

草稿ノート(4) 〔原稿帳 第三号〕「営養検査」「築地小劇場来る。上演脚本に就いて」「愈々 築地小劇場来る!十一、十二日毎夕六時より中央座に於て」「山本巡査(四場)」「チャプリンについてのノート」[防雪林についてのメモ]「防雪林(未定稿)北海道に捧ぐ」

草稿ノート(5)〔一九二八年(A)〕「誰かに宛てた記録(短篇)」「山本巡査(四場)全国の巡査諸君に捧ぐ」「とても重大なこと」「政治と芸術の「交互作用」(「創作月号」五月号)」「『監獄部屋』(「人を殺す犬」の改題及改作)」「一九二八・三・一五(我がプロレタリ前衛の闘士に捧ぐ)」

草稿ノート(6)〔一九二八年(C)〕「(一九二八・三・一五の続)」「防雪林(改作)」「「カムサッカ」から帰ってきた漁夫の手紙」(※前半のみ残されている)「プロレタリア文学の「大衆性」と「大衆化」について―簡単な覚書―」「馬鹿野郎!!(自殺しかけた同志)」

草稿ノート(7) 「蟹工船」 「遅れました。第二作をお送りします。」[箇条書きメモ]「蟹工船(三)の最後に入る」[メモ]((A)~(E))

草稿ノート(8)  一九二九、七、六、No.2〕「不在地主」[メモ](「節、キヌ、お恵」の短いメモ)

草稿ノート(9) 〔原稿帳 一九二九 No.1〕「暴風警戒報」「救援ニュースNo.18附録」「支那訳の序文」「一九三〇年のプロレタリア文学の方向(読売新聞 新年)」「資料(「プロレタリア」)」「北海道の「俊寛」(大阪朝日のために)」「総選挙と我等の「山懸」」。「戦旗」二月号のために」。「プロレタリア文学の「新らしい形式」について。」「プロレタリア文学の新しい文章について。―「改造」二月号―」「宗教の「急所」は何処にあるか(「中外日報」)」「「暴風警戒報」と「救援ニュースNo.18附録」に就いて。」「「機械の階級性」に就いて。(「新機械派」)のために。」「銀行の話(「戦旗」三月号)」[メモ](「最後に、私自身のことだが、」)

草稿ノート(10) 〔一九二九年十二月〕「工場細胞」

草稿ノート(11) 「工場細胞」(前冊につづく)「同志田口の感傷(「週刊朝日」)」

草稿ノート(12)「独房」[メモ](「印度」の批判)[メモ]([海員])[メモ]([農民とプロレタリアートの関係])[「安子」の腹案覚書相関図]メモ[同盟大会について]

草稿ノート(13)(表紙欠損)「オルグ」(日本近代文学館所蔵)

草稿ノート(14) 断稿「転形期の人々 序編」(市立小樽文学館所蔵)

析々帳  ※1926年5月26日から1928年1月1日までの日記

ここには、「東倶知安行」の作が含まれていない。また初期から1931年までのもので、それ以後のものは含まれていない。それらは散逸、あるいは秘蔵され、まだ公開されていない可能性もある。

●直筆原稿

直筆原稿のほかに、原稿から起こされ伏字の指定がされる前のゲラと、単行本収録にあたって本人によって書き入れがされた新聞小説の切り抜きを直筆原稿に準ずるものとして収録されている。同内容は以下。「転形期の人々(前篇)」(日本近代文学館所蔵)は川並秀雄旧蔵で、多喜二が虐殺された後にアジトに残されたトランクから発見されたもの。前書きは貴司山治の手跡と思われる貴重な原稿。「党生活者」のゲラは、国際書院版全集のゲラ(中野重治旧蔵)が市立小樽文学館に所蔵されている。これと中央公論版ゲラの比較検討される日も近いことだろう。

「老いた体操教師」(日本共産党所蔵)5枚、「蟹工船」(日本近代文学館所蔵)91枚、「不在地主」(多喜二ライブラリー佐野力所蔵) 冒頭から3枚、「不在地主」(日本共産党所蔵)116枚(#30~145)、「工場細胞」(川内まごころ文学館所蔵)188枚、「壁小説と『短い』短篇小説」(日本近代文学館所蔵)7枚、「新女性気質」(「都新聞」切り抜き 日本共産党所蔵)69回分、「転形期の人々(前篇)」(日本近代文学館所蔵)49枚、「故里の顔」(北海道立文学館所蔵)6枚、 「「文学の党派性」確立のために」(日本共産党所蔵)42枚、「文芸時評」(日本近代文学館所蔵)33枚、「地区の人々」(日本近代文学館所蔵)106枚、「党生活者」(中央公論版ゲラ)(日本共産党所蔵)87頁分。







【4】国際的な研究とその展望

「蟹工船」は多喜二在世中より世界に知られ、そのテクストは翻訳されてきた。おもな訳として「蟹工船」(中国語 潘念之訳上海大江書鋪 1930)をはじめ、「蟹工船」(英語 ニューヨークインターナショナル出版社 1933)、「蟹工船」(チェコ語 ヴラスタ・ヒルスカ訳 人民図書館 1947)、「蟹工船」(ロシア語 アストルガーツキイ訳 沿海書籍出版所 1960)、 「蟹工船」(中国語 楼適夷訳 1955)、「蟹工船」(ドイツ語 「民族と世界」出版社 1958)、「蟹工船」(ベトナム語 マイ・ホン訳 文学出版社 1962)、「連環画蟹工船」(中国語 楼適夷訳・辛人改編・金立徳作画 上海人民美術出版社 1962)、「蟹工船・不在地主」(英語 フランク・モトフジ訳 ワシントン大学出版会1973)、「日漢対照蟹工船」(中国語 李恩敬訳)北京出版社1981)、「蟹工船」(韓国語イ・クィウォン)チング出版社 1987)などが知られている。近年も「蟹工船」(韓国語 梁喜辰訳 2008年)などが取り組まれて新たな広がりをみせている。その優れた文学性と合せて「反戦・平和・国際主義」の観点が高く評価されている。近年の多喜二浮上の社会的要因が国際的・構造的なものであることから、必然的に欧米・アジアの日本研究者も注目し、独自の論点も提示されはじめている。さらに中国・韓国・台湾・アメリカ・フランス・スペインなどにおいても新たな翻訳書が刊行されている。

発表から80余年を迎えた同作は、社会現象「格差社会」「貧困」が問題となった近年に再注目され、2008年はオックスフォード大学で「多喜二シンポジウム」が開催、韓国語版の新訳が出版、フランス語訳(エヴリン・オドリ)も2010年出版、80年代キューバで出版されたスペイン語訳も近年見直されるなど、世界的な関心も高い。

 2009年5月には、島村輝教授の呼びかけで近年「蟹工船」の翻訳に携わった訳者が集って「「蟹工船」翻訳者シンポ」を、東京・代官山で開催した。会場では、実際に同作の翻訳に関わった訳者たちが、『「蟹工船」が世界でどう読まれているか』をテーマにトークイベントを開催。出演は、「蟹工船」フランス語翻訳作業中のエブリン・オドリ、2008年「蟹工船」韓国語新訳を出版したヤン・ヒジン、フェリス女学院大学教授・島村輝、アートディレクター・北川フラムの4人。「蟹工船」スペイン語版を刊行したマリア・テレサ・オルテガとリディア・ペドレイラもメッセージを寄せるなど画期的内容だった。いまや、「蟹工船」は漢字圏、英語圏だけではなく、モンゴル、アラビアなどの言語に翻訳されて広まっているだけに、こうした国際的な受容と評価・翻訳のあり方などについて、現段階で各国のプロレタリア文化運動などとも関連させ、比較文学の観点から整理することが求められている。

その際に、あらためて多喜二の文学と生涯を通底する国際的連帯の精神を明らかにすることが求められている。とり

わけ日本帝国主義が中国東北部に侵略を開始した「満州事変」直後の入党の意義、さらに日本反帝同盟役員として上海反戦会議成功のために奔走したこと、多喜二没後55周年に発見された「全集未収録「文化聯盟」結成に就て」(『三田新聞』1931年11月26日付、『民主文学』1988年2月号復刻掲載 小林茂夫解題)、「国際プロレタリア文化聯盟」結成についての緊急提案」(『プロレタリア文学』1932年5月号)などで、世界的なファシズムとの文化闘争を訴えたことの意義を受け止める必要があるだろう。

○漢字圏では

ともあれ、多喜二文学の他言語への翻訳は、潘念之訳『蟹工船』が嚆矢である。この中国語版初版本に、多喜二は序文を書いている。直筆原稿の現存は確認されないが、『小林多喜二全集』第五巻に収録されている日本語本文は、ノートに残された草稿から起こされたものである。この序文で多喜二は、中国と日本のプロレタリアートの連帯を唱え、「「蟹工船」の残虐を極めている原始的搾取、囚人的労働が、各国帝国主義の鉄の鎖にしばられて、動物線以下の虐使を強いられている支那プロレタリアの現状と、そのまゝ置きかえられることは出来ないだろうか。出来るのだ!」と記している。

「中国・小林多喜二国際シンポジウム」(2005年 河北大学主催)で、日本文学研究者の呂元明は、中国語版『蟹工船』について、当初出版を承認していた国民党政府は、急遽発売禁止の処分をし、訳者の潘念之が明治大学法学部で学んだ「日本留学組」の一人であり、中国共産党員であったため、国民党政府の追及されることとなった。危険が身に迫った潘念之は消息を絶って地下活動を続け、地下の秘密出版として、何度も刊行して読み継がれたという。ちなみに潘念之は中華人民共和国成立後、大学教員となり、80年代に死去したという。今日の中国では、楼適夷氏や叶渭渠氏らといったいくつかのバージョンの翻訳が出ているが、もっとも信頼のおける翻訳は秦剛北京外語大学教授監修の『蟹工船』(人民文学出版社 2009)で、マンガと原作翻訳、秦剛序文、島村輝解説を収録、多喜二文学翻訳史に残る一冊となっている。

※陳君「中国で「蟹工船」はどう読まれてきたか」(『小樽商科大学人文研究』2008)に、まとまった情報がある。



○英語圏では

英語版「蟹工船」は、1933年多喜二虐殺直後のニューヨークインターナショナル出版社から刊行されていることが注目される。翻訳者は秘匿されているが、松本正雄「英訳「蟹工船」のこと」(『民主文学』(70.4)によれば、それはマックス・ビッカートン(Max Bickerton's)であるとされる。この間の経緯について、狩野 不二夫「マックス・ビッカートン(1901-66)の1930年代における日本共産党シンパ活動とプロレタリア文学の翻訳」(『ニュージーランド研究』 2007.12)が詳論している。その翻訳の質はよくない。その後、フランク・モトフジ訳『蟹工船・不在地主』(ワシントン大学出版部 1973)が刊行され、ようやく多喜二文学としてのテクストが完成したといえる。

近年、欧米でプロレタリア文化研究で目覚ましい成果を上げているヘザー・ボーウェン‐ストライクは、「プロレタリア文学――世界を見通すにあたって、それがなぜ大切なのか」(日本近代文学会の機関誌『日本近代文学』第76集 2007年5月15日発行)で、「この十年ほど、日本のプロレタリア文学についての国際的研究者の数は、ミリアム・シルババーグのような極く限られた例外的な人から、日本文学、比較文学、文化研究、映画研究、ジェンダー研究、歴史学、人類学など様々な分野の多くの学生・研究者へと増加してきた。その仕事のいくらかは、翻訳、研究、学位論文などの形で公にされはじめており、将来その数は増加していくことが見込まれる。まことに、私たちは日本プロレタリア文学の国際的研究ブームの劈頭に立っていると言いたくなるほどである。」日本プロレタリア文学への海外研究者の関心のひろがりを述べている。

ヘザー本人も、2002年11月、シカゴ大学において、東アジアにおけるプロレタリア芸術についての国際シンポジウムを召集。このシンポジウムを基盤にした『ポジション――東アジア文化批評』(positions: east asia cultures critique)の特集号を刊行。日本、韓半島、台湾、中国の作家と美術家の個別の仕事についての具体的研究の文脈における、帝国主義と国際主義、階級とジェンダー、モダニズムの問題を扱っている。

ヘザーは、「今日のプロレタリア文学研究の特徴を表すキーワードの選択(帝国主義、ジェンダー、モダニズム)は、一般にこの領域に関る者たちの関心を反映したものである。だがプロレタリア文学の研究はすでにこの3つのキーワードの表すものを超えているといったほうが妥当で、その典型的な例として、ノーマ・フィールドの仕事を上げることができる。岩波新書『小林多喜二』(2009)は、語りの構造分析、植民地(およびポスト・コロニアルの)北海道における具体的な経済状況への関心、そして歴史の中の人々の姿を浮き彫りにし、多喜二没後における、彼の仕事と作品の生命力を追究することを通じて、多喜二の時代を現在にありありと彷彿させ、1920~30年代の闘争とわれわれの生きる現在との連続性を可視化に成功した。」という。

ヘザーは、現在、ノーマ・フィールドとともに英訳版日本プロレタリア文学選集『革命の文学』(Literature for Revolution: An Anthology of Japanese Proletarian Writings)編集の仕事に取り組んでおり、数年以内に出版の予定である。





【エピローグ】 21世紀の多喜二の展望――多喜二学の提言

○多喜二学の提唱

「2012小樽多喜二シンポジウム」が、多喜二の母校・小樽商科大学主催で、2012年2月21日-22日で開催される。初日には、ノーマ・フィールド(シカゴ大学教授)による「小林多喜二を21世紀に考える意味」(仮題)の基調講演が行われ、第1分科会「多喜二文学の国際性」では、「多喜二文学翻訳の可能性」、「多喜二と国際プロレタリア文学運動」、「多喜二の「反戦・平和・国際主義」をめぐって」が報告され、海外研究者を多数招いてのパネルディスカッションを予定。2日目の2月22日は、第2分科会「社会経済史的観点からみた多喜二文学」、第3分科会「多喜二「ノート草稿」を読み解く」が実施される予定だ。このシンポジウムは、2003年に白樺文学館多喜二ライブラリーが第1回を開催して以来、5回目(「2009「蟹工船」翻訳者シンポ」を加えれば6回目)となるもので、今回はこれまでを総括する位置づけを与えられているだけに、その重要性はいうまでもない。

 そこでぜひ検討いただきたいと思うのは、自衛隊・調査隊による「秋田・小林多喜二生誕100年記念展」への監視」が行われた事件(「しんぶん赤旗」2007年6月7日報道)へどういう態度をとるべきかという課題。

この課題については、すでに2008年幕張メッセで行われた「9条世界会議」の「多喜二文科会」で提起してきたものの民主文学運動内ではあまり関心を呼ばなかったが、多喜二学の今の課題として検討する必要があるだろう。この事件は、「自衛隊・情報保全隊の内部文書」で明らかになったもので、イラク派兵反対運動からマスコミや地方議会の動向まで、自衛隊による違憲・違法な国民監視活動は、市民生活の隅々にまで及んでいたことが明らかになった。陸自東北方面情報保全隊が作成した文書「情報資料について(通知)」からは、自衛隊による日常的な国民監視の実態が浮かび上がる。同文書には、イラク自衛隊派兵に対する反対運動に限らず、さまざまな運動の参加人数や宣伝内容といった情報が収集されており、プロレタリア作家、小林多喜二の生誕百年を記念して秋田市内で開かれた文学展も監視対象になっていた(04年2月26日付文書)。小林多喜二には特に、「労働運動、共産主義運動に傾倒」などと注釈までつけていることが注目される。この国民監視の問題は、ファシズム前夜の時代相を現代の抱える諸問題と交錯させて理解したい。

また、これらの課題を総合的に追究することを通して、総合的に「文学と社会・経済の直結不可分性」を含む”多喜二学”の構築が求められている。

その「文学」は「プロレタリア文学」の位相の再検討を含む「言葉」と「社会」との関係という文脈のなかで、その「文学」の意味を徹底して掘り下げることと、多喜二読解を世界文学の地平において再検討することによって、はじめて有意義のものとなるだろう。こうした問題関心に立って、現代という新たな「多喜二の時代」に向き合う視座を構築し、多喜二の文学性と直結する北海道・北洋圏を基盤として、現代の諸課題と切り結んだ新たな多喜二学の構築――「多喜二文学の社会・経済の直結不可分性」――、多喜二が卒業後に小樽高商文芸研究会の機関誌『北方文芸』第七号(1929.6)に寄稿した評論「こう変っているのだ。」のなかで、「社会は、生々(いきいき)とした社会的に価値ある内容を求めているのだ。――無雑作に、漠然と、興(きょう)のおもむくままに書くことはやめよう」と呼びかけている。まさにこの多喜二の提言への展望が求められているといえる。(2011.7.15)

付記*多喜二旧蔵図書は現在、小樽商科大学図書館、白樺文学館多喜二ライブラリー、日本 近代文学館、神奈川近代文学館に所蔵されている。重要な情報がそこにあるが、本論では紙幅が許されずそれに触れることができなかったことを記しておく。
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多喜二学”への眺遠――生誕110年を前にして(1)

2012-05-05 00:59:41 | 多喜二研究の手引き
多喜二学”への眺遠

――生誕110年を前にして


                                              

                                   佐藤 三郎



一人の人間がこの地上に生き、そして土に帰った証として、墓をたて、故人を偲ぶためゆかりの人々は集まる。そして遺族は、成仏を願い、安らかな眠りを願うものだ。

 しかし、作家の魂は、その作品に眠りを求めてはいない。それどころか、眠りを許さず、読み継がれ、語り継がれることを望んでいるのではないだろうか。

それにしても、没後80年を経過してもなお、その”紙碑”ともいえるテクストが判読不能な伏字や削除のまま、復元されずにいるのはなんと不幸なことだろうか。



2008年「蟹工船」ブームがもたらした未曾有の成果については、島村輝・フェリス女子学院大学教授が、2010年「伊勢崎多喜二祭」の記念講演で語られていることと思う。また、『オックスフォード多喜二シンポ論文集』(2009 小樽商科大学出版会・発行、紀伊國屋書店) の北村隆志「「蟹工船」と現代青年」の報告を読まれた方はすでに承知のことと思う。

このブームによって、多喜二は名を知られながら作品が読まれない作家から、世紀と国境を超えて、現在の日本を代表する、読まれる作家となった。

多喜二の文学の力は、大きく日本の貧困の現状とその社会的構造を明らかにし、インターネットメディアを通じて「蟹工船」の物語は、「もう一度立ち上がれ!!」とのメッセージを載せて地球を駆け巡った。それだけの大きな成果が共有されている一方、基礎研究としてのテクスト研究では「蟹工船」は未完のまま、放置されたままだ。



【プロローグ】 「蟹工船」の本文中の 「○」 に漢字一文字が入ります。それは何でしょうか?

       仕事の高は眼の前で減って行った。

       中年過ぎた漁夫は、働かされると、一番それが身にこたえるのに、「サボ」にはイヤな顔を見せた。

        しかし内心(心配していたことが起らずに、不思議でならなかったが)、かえって「サボ」が効 いてゆくの を見ると、若い漁夫たちのいうように、動きかけてきた。困ったのは、川崎の船頭だった。彼らは川崎のことでは全責任があり、監督と平漁夫の間に居り、「漁獲高」のことでは、すぐ監督に当って来られた。それで何よりつらかった。結局三分の一だけ「仕方なしに」漁夫の味方をして、後の三分の二は監督の小さい「出店」― ― その小さい「○ 」だった。



これは2008年にブームになった「蟹工船」の一節である。

最後の部分の「○」は、伏字である。ここにどんな文字を充てればいいのだろうか。だがその”回答”は、最新の『新装版 小林多喜二全集』解題にはない。

それは、多喜二の肉筆原稿を見れば当然あきらかになるはずだ。しかし、日本近代文学館に保存されている「蟹工船」の肉筆原稿は、前半しか存在せず、後半原稿は行方知れずのままとなっているという。そのため、肉筆原稿の伏字該当部分に何が書かれていたのかは、現在確認のしようがないのだ。

 それでも”回答”はある。小林多喜二はノートに丹念に下書きし、それをもとに清書原稿を作成していたので、この草稿ノートをみれば、その”回答”は得られるはずなのである。

ではそのノートはいまどこにあるのだろうか。それは現在、日本共産党中央委員会の管理下にあるのだ。実は、この草稿ノートはながく「小林多喜二著作刊行委員会」の管理下にあり、関係者のみにしか閲覧がゆるされなかった。「○」が、何の文字であるのかの”回答”がそこにありながらも、「蟹工船」成立80年を経てもなお伏字のままとされてきたのである。

「蟹工船」の作と関連して取り上げられることの多いテクスト、「「カムサッカ」から帰った漁夫の手紙」 (『改造』1929年7月号)にも、「ロシアの国営漁場の進出を恐れている******が、国営漁場に使われている***をこっそり煽動して、ストライキをわざと起こさせたり、器具を壊させたりしたことがあります。私達はそれに応援さえしたのです。」など、1920年代のソ連社会の状況をリアルに捉え、世界初の社会主義国・ソ連の否定的な面について多喜二が何を考え、どう描こうとしたのかをしめしている部分の伏字は復元されずにいる。この作には、草稿ノートがあるものの前半だけとされ、後半の草稿部分は伝えられず、多くの伏字がそのままに放置され、研究の光が当てられていないことは、絶対主義的天皇制によって虐殺されたばかりかその作品を”国禁の書”とされ、葬られてきた作者にとって本当に無念であることだろう。





【1】 多喜二テクスト研究の いま

島村輝は「小林多喜二」(『昭和文学研究』1988年)で、民主文学運動の成果として以下を評価している。「一九五〇年代には、雑誌『多喜二と百合子』を中心に、個々の作品についての研究が、近藤宏子・須永康夫ら「多喜二・百合子研究会」メンバーの手によって地道に行われた。この会の活動は多喜二・百合子研究会編『年刊多喜二・百合子研究』第一集・第二集(河出書房、昭29・4、昭30・9)、同『小林多喜二読本』三一書房、昭33・9)などの成果を生み出し、この時期における研究の要の役を担った。民主主義文学同盟の機関誌である「民主文学」は、多喜二追悼の特集を何度か組んでいるが、最近では昭和六十三年(一九八八)二月号に「小林多喜二没後55周年記念特集」を組み、津田孝の「婦人問題と多喜二」、三浦健治の「『蟹工船』の詩的表現について」、右遠俊郎の「防雪林私論」などを収めている。」とし、手塚亡き後、多喜二全集の編纂者となった津田孝の『小林多喜二の世界』(新日本出版社、昭60.2)についても、「全集各巻の解説という制約の中でいささか概括的ではあるが、多喜二の全体像を描き出しており、新発見資料などの解説も、編集にタッチした者ならではの成果である」と評価している。

 手塚亡き後を継いだその津田も事故で筆を執ることができなくなった今、『定本小林多喜二全集』で編纂の作業に手塚とともに従事した大田努、宮本阿伎の二人に引き継がれ、研究が継続されている。

大田は、「「小林多喜二没後五十周年記念展」を終えて--第二十四回赤旗まつり」(三浦光則との対談)『文化評論』[1983.12] )/「同時代者たちの小林多喜二論」(『民主文学』[1991.3]) /「手塚英孝の小林多喜二論」(『民主文学』[1991.12] )/ 「未発掘の「赤旗」短編小説のこと」(『民主文学』[1993.2] )/「非合法時代の遺品から見る「転形期の人々」の意味」(『民主文学』[2003.2]) /「党生活者」を読みなおす」(『民主文学』[2008.2] ) がある。「未発掘の「赤旗」短編小説のこと」は、戦前の「赤旗」に多喜二の短篇を発掘した報告で、さらに「ある老職工の手記」を含む作を多喜二のものだとし、「このことについてはまた稿を改め」るというのでもう20年近く待っているが、まだ発表されていないのは残念だ。

 また、宮本阿伎には、「模索時代の多喜二--「曖昧屋」から「滝子其他」への改作をめぐって」 (『民主文学』 [1970.3]) /「転換期の多喜二--「その出発を出発した女」から「防雪林」へ 」 (『民主文学』 [1971.3] )/「定本小林多喜二全集」編集の頃 (小林多喜二没後55周年記念特集) (『民主文学』[1988.2])/ 「多喜二の描いた新しい女性像―リアリズムの深化にそくして」(『小林多喜二生誕100年没後70周年記念シンポジウム記録集』2004.2 白樺文学館多喜二ライブラリー編)/ 「小林多喜二の初期作品の意味--「老いた体操教師」を中心に」(『民主文学』 [2009.1])がある。 とくにノーマ・フィールドとの対談「変革をめざす文学の可能性をさぐる―多喜二の描いた女性像を中心に」(『民主文学』 [2010.6] )が充実している。

また、大田と宮本による対談 「小林多喜二全集と手塚英孝の仕事」(『民主文学』 [1998.02] )も読みごたえがある。

*

なお、島村はさきの一文で、研究者サイドの仕事として、1960〜70年代に書かれた森山重雄『日本マルクス主義文学―文学としての革命と転向』(三一書房、昭54)、伊豆利彦『日本近代文学研究』(新日本出版社、昭54)を上げ、前者は、「多喜二文学の全面的検討を意図」して成果をあげたもの、後者は「多喜二の作家としての自己形成過程の検討と主要な作品の読み直しを試みた」ものと指摘し、「どちらも研究上必読の文献である」であるとしている。さらに、前田角蔵の「多喜二と田口タキ―その愛をめぐっての一試論」(「日本文学」昭56・4)、「外地移住者としての多喜二―屈辱感からの脱出」(同、昭56.2)といった仕事も、これらの延長線上に位置づけ、日高昭二の仕事については、「『蟹工船』の空間――テクスト論のための二、三の注釈」(「日本近代文学」40、平1・5)および「『蟹工船』の黙示録」(「日本の文学」特別集、平1・11)は、一連の『蟹工船』を「『蟹工船』の言葉の質の徹底的な再検討を経て、それが同時代の表現の特質と深くかかわり、むしろ読者に抵抗感を生み出しつつ、読者の感性の改変をも迫るものであった」という表現論からの到達点を、「多喜二のテクストの特異性と文学以外の同時代テクストの言語とのかかわりを探究する可能性を提示した点で、画期的なものと」評価した。

そして、「ただ一人の多喜二研究家」を自負する、自身の仕事を「作品を作り上げている言語の質の面から多喜二の作品を取り上げた」として、「一九二八年三月十五日」の文体を論じた「権力と身体」(講座昭和文学史』1、有精堂、昭63・2)、同「観察する『私』・行動する『私』」、「小林多喜二『東倶知安行』の語り手」(「日本文学」昭63・1)、「〈モダン農村〉の夢-小林多喜二『不在地主』」(『日本近代文学』43、平2・1 0)を位置付けている(これらは『臨界の日本近代文学』1999 瀬織書房 にまとめられている)。

その後の多喜二研究で目につく著書をあげると、市立小樽文学館館長を務めた小笠原克著『小林多喜二とその周圏』(翰林書房 1998)は、「小林多喜二・初期の世界/小林多喜二・「防雪林」の位相」/「小林多喜二の《処女作》――「一九二八年三月十五日」の周圏」/「『クラルテ』をめぐって/――小林多喜二の《光(クラルテ)》」/「板垣鷹穂と小林多喜二――一通の書簡をめぐって」/「武者小路実篤と小林多喜二――昭和初年代の接触面の一コマ」/「中條百合子書簡と幻の多喜二全集――《一通の手紙》のえにし」/「あーまたこの二月の月かきた――殺された三人小林多喜二 西田信春 野呂栄太郎」/「ある無名戦士の肖像――小樽、多喜二の盟友・伊藤信二」/「多喜二周辺――映画「小林多喜二」を観て」/「多喜二の《遺児》という存在」/「研究展望――小林多喜二/小樽=小林多喜二の《故里》――中国の雑誌『日本』の需めに」/「小樽の道――多喜二と整と」/「私記・《文学風土》としての小樽二つの青春(講演)――多喜二と整」/「座談会・小林多喜二の思い出(佐藤チマ・島田正策・武田暹・藤橋茂と)」を収めて多面的に多喜二を論じている。

*

これに対して、日本近代文学の流れのなかに多喜二文学を位置付けようとする松澤信祐著『小林多喜二の文学―近代文学の流れのなかから探る』(2003 光陽出版社)がある。同書は、「Ⅰ 多喜二文学の源流」、「Ⅱ 小林多喜二の文学」、「Ⅲ 講演二十一世紀に輝く小林多喜二」の3部構成で、以下の論を収めている。

Ⅰ部=1 明治文学を拓いた作家たち―多喜二に引き継がれた文学精神―/2 北村透谷の文学精神―多喜二に起る闘いの文学―/3 自然主義とプロレタリア・リアリズム―石川啄木と蔵原惟人―/4 同時代のプロレタリア文学―徳永直「太陽のない街」―/5 プロレタリア文学の流れ ―多喜二を育てたもの― Ⅱ部=1 多喜二の文学と時代/2 多喜二と志賀直哉/3 多喜二と石川啄木/4 多喜二と蔵原惟人―「一九二八年三月十五日」と「党生活者」―/5 多喜二と大熊信行―大熊信行宛書簡を中心に―/6〝「蟹工船」の女たちは卑猥である″か―中山論文に反論する―/7 監獄小説の系譜―「独房」―/8 プロレタリア児童文学―「健坊の作文」―/9 多喜二を匿った人々―七沢温泉福元館をめぐって―/10 多喜二小伝 Ⅲ部=「講演 二十一世紀に輝く小林多喜二」を内容としていて緻密な文学考証を行い、研究者にとっては必読といえる。

  *

伊豆利彦著『戦争と文学―いま小林多喜二を読む』(2004 本の泉社)は、「第1章 いま多喜二文学を考える=生誕100年記念小林多喜二国際シンポジウムで考えたこと/若き多喜二の彷徨と発見、第2章 プロレタリア文学とその理論=小林多喜二と蔵原惟人――作家と評論家の問題/プロレタリア文学―存在と意味―、第3章=小林多喜二と志賀直哉=志賀直哉と多喜二/戦後の直哉の心に生き続ける多喜二の像――「灰色の月」前後、で意欲的に”いま小林多喜二を読む”ことの意義を明らかにしている。

*

評伝研究では、多喜二の母校小樽商科大学教授の倉田稔著『小林多喜二伝』(2003 論創社) が、手塚評伝を検証し、その根拠を問うものとして生誕100年を記念して刊行された。同書は、

7章構成で、多喜二の生涯を浮き彫りにし、その後の新しい多喜二像を論ずるたたき台となった。しかしながら、初めての多喜二全集編纂を担当する運命を担いながら、多喜二研究史ではその存在を抹消されてしまった貴司山治関係の情報をはじめ、川並秀雄、野口七之輔らの位置づけ、また多喜二の共産党加入とその後の活動についての追求が不足しているという指摘はまぬかれない。

*

倉田のあとを継ぐ多喜二の評伝研究では、ていねいにその生涯と作品を読み込み、コンパクトにその生涯と作品をたどったノーマ・フィールド著『小林多喜二―21世紀にどう読むか』(岩波新書 2009)が出色。藤田廣登『小林多喜二とその盟友たち』(学習の友社 2007)、くらせ・みきお『小林多喜二を売った男―スパイ三舩留吉と特高警察』(白順社 2004)、さらに母セキの口述で息子の生涯を語った幻の評伝『母が語る小林多喜二』(新日本出版社 2011)がようやく公刊された。

手塚英孝による『小林多喜二』も再刊されて一巻となったが、同書の基本的な位置づけとしては、同書が最初に公にされた 筑摩書房版(1958年)の「まえがき」に示された、



「小林多喜二の二十九年の生涯を再現しようとつとめ、私はかなりの年月をかけた。(中略)この仕事をつうじて,私はいまさらのように心にきざまれる一つの現実にうちあたった。それは、小林と同時代に生き、彼とともに解放運動の戦列にあった人びとが、若くして多く死去されているということである。とくに北海道で、彼と密接な関係にあった人たちは、ほとんどといっていいほど故人となっている。

荒々しい時代に生き、たたかい、傷つき、若くしてたおれたこれら多くの人びとのことを、私は忘れることができないであろう。

本書の上梓にさいし、中野重治氏、近藤宏子さん、筑摩書房の原田奈翁雄氏から、それぞれ御懇切な御援助をうけた。」

 

と率直に書かれているように、”多喜二の戦友”と言われながらも、多喜二の闘いのすべてを知悉する存在ではないことを改めて明確にし、伊勢崎での多喜二奪還闘争・多喜二入党、とその前後の活動についても明らかにすることができなかった限界があったことは明確にされる必要があるだろう。

 文学散歩ガイドでは『小樽小林多喜二を歩く』(新日本出版社2003)に続き、作家同盟書記長としての活躍の地をめぐる『ガイドブック 小林多喜二の東京1930~1933』(学習の友社2008) 、生地大館の『小林多喜二生誕の地を歩く』(国賠同盟大館鹿角支部2008)もそろった。

                ※

2008年9月英国・オックスフォード大学で開催の多喜二シンポジウムの記録『多喜二の視点から見た身体・地域・教育』(小樽商科大学出版会・紀伊國屋書店2009)をはじめ、『小林多喜二生誕100年・没後70周年記念シンポジウム記録集』(2004.2 白樺文学館多喜二ライブラリー)、『生誕100年記念小林多喜二国際シンポジウムPart2報告集』(2004.12 同)『いま中国によみがえる小林多喜二の文学』(東銀座出版社2007)、『小林多喜二と「蟹工船」』( 河出書房新社2008)、『読本・秋田と小林多喜二』(同刊行会2001)などシンポジウム・論集が連続して出版され、多喜二研究の広がりと質の向上が図られた。

他方、半世紀を超えて上映されている山村聰監督版(北星1953)は、一時は発売元を悲嘆させる状況だったが、一変して全国で上映運動がひろがった。ドキュメンタリー映画『時代(とき)を撃て・多喜二』(池田博穂監督 2004)の自主制作、全国上映運動、DVD普及、守分寿男脚本『いのちの記憶―小林多喜二・29年の人生』(ソニーミュージック2008) も芸術祭大賞を受賞して話題となった。

SABU監督松田龍平主演・「蟹工船」(2009.7)の新作映画の製作も話題となり、演劇「早春の賦」の全国公演、俳優座「蟹工船」(09.5)、井上ひさし作「虐殺組曲」(09.10)公演をはじめや、関係の書籍やDVDの販売が目白おしとなった。映像化はNHK『 歴史秘話ヒストリア《“蟹工船”小林多喜二のメッセージ》 2010.2.24』などにも及んだ。

藤生ゴオ作画・島村輝解説『マンガ蟹工船』(東銀座出版社2006)の出版とそのエッセーコンテストの実施、『私たちはいかに「蟹工船」を読んだか―エッセー作品集』刊行普及などで裾野も急速に広がり、「蟹工船」以外の多喜二文学への関心も高まった。角川文庫『新装改版蟹工船・党生活者』、岩波文庫は『蟹工船,一九二八・三・一五』を小森陽一、『不在地主・防雪林』を島村輝の新鋭研究者の新しい解説を付して復刊させた。荻野富士夫編で、近年その存在が明らかになりながらも多喜二全集未収録だったものを含んだ『小林多喜二の手紙』(岩波文庫)も出版された。

漫画は、さきに紹介した『マンガ蟹工船』が、改定再編して『劇画「蟹工船」小林多喜二の世界』(講談社プラスアルファ文庫2008)となり、『蟹工船―まんがで読破』(イーストプレス2007)、原恵一郎『蟹工船―Bunch Comics Extra』(新潮社 2008)がつづき、原作から離れたイエス小池『劇画蟹工船 覇王の船』 (宝島社文庫 2008)の4種が競っている。

多喜二の作品集はといえば、処女作的初期作品の「老いた体操教師」が発掘されたのを機に、発掘者の曾根博義日本大学教授の解説による『老いた体操教師―瀧子其他』(講談社文芸文庫2007)、祥伝社新書編集部が独断で選んだ『小林多喜二名作集 ―近代日本の貧困』(2008)も初版1万4000部で刊行された。

荻野富士夫『多喜二の時代から見えてくるもの』(新日本出版社 2009)、不破哲三『小林多喜二―時代への挑戦』(新日本出版社 2008)、浜林正夫『「蟹工船」の社会史』(学習の友社2009) なども注目される。21世紀の多喜二像は、まさに百花斉放の広がりだといえる。

*

時代の潮目は変わった。

至文堂の『解釈と鑑賞』の別冊シリーズでも、ようやく、特集『「文学」としての小林多喜二』が刊行された。これは念願の国語教材研究としての研究が一冊にまとめられたことを意味する。

もちろん同書企画実現の背景は、多喜二の生誕100年、没後70周年にあたる2003年をひとつのきっかけとして、「小林多喜二国際シンポジウム」(白樺文学館多喜二ライブラリー主催、2003,2004)開催を受けて、日本ばかりでなく世界の各方面から、小林多喜二の文学と生涯に新たな光が当てられるようになっていたからである。

同書は、「総じて作品論が乏しい」(手塚英孝「小林多喜二研究案内」(『多喜二と百合子』1957)、「総じて…強力な象徴性に引き寄せられた作家論」(副田賢二「小林多喜二 研究動向」『昭和文学研究』第53集 2006)が主だったという多喜二研究を、国語教材、「文学」としてその作品そのものを研究の俎上にあげることを企図したものだった。しかし、それはまだ同意しかねる論もいくつもあり、また批判すべき論もある。とはいえ、その歴史的文脈、政治的背景との関連を否定するものではないが、それとともに特定の政党支持を超えて、今日の「文学」研究の方法論と視点から作品そのものの再評価をすすめたもので、同書は国語教材研究としての小林多喜二の世界を再構築する試みの礎石として読まれる価値のあるものである。

 同書の主要目次を拾ってみると、

【座談会】=今日の時代と小林多喜二(日高昭二/小森陽一/島村輝) 。「多喜二をめぐる時代と人々」=小林多喜二とヒューマニズム(布野栄一) /多喜二と志賀直哉、芥川龍之介―近代文学の流れから捉える(松澤信祐) /他

「多喜二のテクストを読む」=「防雪林」その可能性(綾目広治)/「三・一五事件」をめぐる文学的表象としての「一九二八年三月十五日」(土屋忍)/交錯する「蟹工船」と「上海」をめぐる序説(十重田裕一)/「不在地主」における革命的労農同盟闘争の問題(篠原昌彦) /「工場細胞」 コンテクストとしての一九二九年の小樽(和田博文)/「オルグ」の恋愛と身体(中村三春)/「独房」の落書き(楜沢 健)/母たちのポリフォニー―「母たち」と一九三一年代の短編にみる女性表現(長谷川啓) /多喜二・女性・労働―「安子」と大衆メディア(中川成美)/「転形期の人々」論(宮沢剛)/こぼれ落ちた血のゆくえ―「沼尻村」再読(五味渕典嗣) /「地区の人々」―〈地区〉の若き闘士達へ(山岸郁子) /「党生活者」論序説―「政治」と「文学」の交点(島村輝)/日記(荻野富士夫)/「監獄の窓から見る空は何故青いか」―小林多喜二の獄中書簡(竹内栄美子) 

と、これまで多喜二を論じたことのない若い国文学研究者によって幅広い論が提示された。





【2】国禁の書・多喜二テクスト復元はどこまできたか?


ここで、多喜二のテクストはどのようにして復元されてきたかの歩みをたどっておく。

多喜二のテクストは、その社会的な視野の広がりと深さにその特徴があり、それは当時の日本社会体制が抱えていた矛盾そのものをえぐりだすものでもあった。

 北朔の地を場として誕生したその文学は、”内地植民地文学”として母斑を刻まれ当時、世界で初めて成立した社会主義国・ソ連と国境を境とし、また国策銀行に勤める立ち位置から日本資本主義の暗部を直接に自覚化、可視化される立ち位置にあった多喜二の世界は、世界変革を求めるうねりを受け、その言葉は奴隷の言葉であることを強いられ、伏字・削除がその作品を傷だらけにした。特に多喜二は、日本の革命文学の尖端であることを求めたことでその生命そのものが暴力的に奪われるとともに、その言葉・作品も抹殺の対象であり、国禁であった。

以下に、テクスト復元の歩みをスケッチする。

【戦前・戦中】 

 多喜二が特高によって突然に虐殺されたことに対する抗議の意図を込めて1933年3月15日、多喜二の労農葬が築地小劇場でおこなわれ、この労農葬を記念して4月、評論論文集『日和見主義に対する闘争』(日本プロレタリア文化連盟出版部)が刊行された。

多喜二全集刊行編纂は、多喜二の遺稿「党生活者」の発表の仲介をした作家で文学ジャーナリストでもある貴司山治(きし・やまじ 1899-1973)を中心に没後直後からすすめられ、その刊行を望む声も多く、作家同盟出版部からの『小林多喜二全集 第2巻』(国際書院)が刊行された。しかし、その1巻のみで刊行は中断。「党生活者」はゲラ(中野重治旧蔵、2011年現在市立小樽文学館蔵)を作成しながら出版することができなかった。

1934(昭和9)年に作家同盟が解散し、文化分野の指導をしていた宮本顕治(1908-2007)が検挙されるなどの、幾多の障害があり困難を極めた。

 1935(昭和10)年 貴司山治は、「一九三五年に、私は幸い又自由をとりもどしたので、一存でやはりこの『党委託』の仕事をつづけることにきめ」(「『小林多喜二全集』の歴史」(『小林多喜二全集月報3』 1949/6)、「小林多喜二全集をナウカ社から出すこと旧獵(1934年12月)に話がきまりその編輯についてこの間、中野重治を同道、同社に行って社主の大竹氏と相談し、小説のみ三巻に別けて出すこと、一冊六百五十頁位とし、四六版一円五十銭、初版千部、印税一割、刊行会へ申し込んできてゐる分を二百人とみ、その人たちには一人につき第冊と第二冊を一円二十銭に割引く等の條件をきめてきたので、その編輯をするため、佐野順一郎をよんでおいたら、今朝やってきたので仕事の要領をたのん」だ(1935年1月15日 貴司山治日記)。

ナウカ社を発行所として、小林多喜二全集を第1巻=「蟹工船」他25篇、第3巻 =「不在地主」「工場細胞」「オルグ」「安子」、第3巻 =「×生活者」「地区の人々」「沼尻村」「転形期の人々」「一九二八年三月十五日」の小説。ほかに『小林多喜二書簡集』=田口滝子への紙/蔵原惟人への手紙/志賀直哉への手紙/出京前の手紙/獄中からの手紙/一九三一年の手/一九三二年の手紙/北海道の同志に送る手紙,/ 「年譜」(貴司山治作成 未定稿)、多喜二の小樽時代からの友人・斎藤次郎編として『小林多喜二日記・補遺』を編纂して、合計五冊を刊行。この発行部数は、合計約二万にのぼった。しかし、この全集には評論・論文関係は収めることができず、削除・伏せ字を余儀なくされ不完全なものだった。

1937年、小樽高商同窓の長尾桃郎(本名・野口七之輔)編で、『小林多喜二随筆集』(書物展望社)が出たものの、即時発売禁止の憂き目にあい、その後は公刊されることはできなかった。

また他日の完全版を期して中央公論編集者の協力も得て「党生活者」の完全ゲラ原稿(徳永直旧蔵、2011年現在日本共産党中央委員会蔵)、国際書院版「党生活者」ゲラ(中野重治旧蔵 現市立小樽文学館蔵)を作られたほか、勝本清一郎が「一九二八年三月十五日」原稿を、第一銀行貸金庫に預けるなど、あらゆる努力と工夫が尽くされて守られた。

 その一方、1945 年の東京空襲で小林三吾宅が被災し、多喜二の残した資料を焼失。ナウカ社主・大竹博吉保管の原稿も焼失。同年4月、同盟通信社記者・蒔田栄一は、身の危険を感じ、保管してきた多喜二書簡約100通を焼くなど貴重な資料を喪う結果となった。

【戦後】

 いちはやく日本共産党北海道地方委員会宣伝部編で『小林多喜二著作集』(全3巻 創建社書房 1946年)が出版されたのを皮切りに、多喜二の作品はようやく出版の自由を得た。しかし、発表当時のままの大量の削除・伏字で発表せざるを得なかった。

1947年になって、多喜二の「原稿ノート」13冊が小林家で発見された。この「草稿ノート」(現在、日本共産党中央委員会蔵)に基づいてテクストを校合して復元作業をすすめ、1948年全集編纂委員会(蔵原惟人、宮本顕治、江口渙、壺井繁治、窪川鶴次郎、勝本清一郎、貴司山治、手塚英孝など)『小林多喜二全集 第2巻』(新日本文学会編 日本評論社発売)を刊行。全11巻、伝記、研究、別冊2巻の予定で刊行が期待されたが、第9巻(1949年6月)で中断。1952年8月、富士書房から、日本評論社版を底本とした『小林多喜二全集』(全9巻)を再刊。新たに、日本評論社版と同じ編纂・解題者で完全版の『小林多喜二全集』(文庫判全12巻 青木書店)が、第9巻までは日本評論社版全集の再刊で9巻に「闘争宣言」を新しく収載。10巻に日記・小説補遺、11巻に書簡集。12巻に詩、(小品、小説補遺、評論補遺)の3巻を加えてようやく完結した。その後は1958年『小林多喜二全集』(かすが書房)、世界名作文庫として1959年、文庫判全集の合本『小林多喜二全集』(全5巻 小林多喜二全集編集委員会 青木書店)が刊行された。

この間に、「小林多喜二未発表書簡16通」(『新日本文学』(51年6月号)、神戸市湊川神社内の吉田智朗所有の志賀直哉宛多喜二書簡が岩波書店『文庫』第27号(53年12月号)に初公開された。

多喜二没後45周年を記念の1968年、全集編纂委員会は青木書店版につづく戦後2番目の多喜二全集として『定本小林多喜二全集』(新書判全15巻 解題・注手塚英孝)を1968年1月から刊行した。この全集は、補遺・「龍介と乞食」、8刷までに評論「無鉄砲過ぎる期待だろうか?」、葉山嘉樹、寺田行雄宛計2通を含む書簡5通を追補し(定本版補遺には、酒匂親幸、雨宮庸蔵、志賀直哉宛が追加された)。第15巻を「多喜二研究」として刊行、69年に全15巻を完結した。志賀直哉は、推薦の言葉を寄せた。※『国文学』(関西大学 68年3月) 浦西和彦「葉山喜樹宛小林多喜二島木健作未発表書簡」初公開。『民主文学』(77年2月号) =箭内 登「小林多喜二の未発表書簡と評論について」。

1980年には、解説監修・蔵原惟人/小田切進で、刊行当時の姿を再現した『小林多喜二初版復刻全集・小林多喜二文学館』(ほるぷ社)を、手塚英孝解題、小田切進「伏字・削除復元表」などによる解説編1冊を含めた全16巻として刊行された。

没後50年を前にした1982年には、『小林多喜二全集』(全7巻 新日本出版社)を刊行。定本版刊行以後判明した阿部次郎、楢崎勤、『新潮』編集部、板垣鷹穂宛の4通を含む20点を新収録、校訂・解題は故手塚英孝氏の仕事を引きつぎ、月報に津田孝の全巻通し解説をつけた。※『民主文学』(84/2)=大田努「小林多喜二未発表書簡」。

さらに没後60年を記念して『新装版小林多喜二全集』(新日本出版社1992)を刊行。82年版に補遺としてさらに、「ある病気のお話」、「良き教師―『総合プロレタリア芸術講座』推薦文」、「「文化聯盟」の結成に就て」、石本武明宛書簡6通(※『民主文学』1984年2月号で初公開)など18点の新資料を収録。定本版以降の10年間で判明した評論、小品、書簡9通を含む計38点を含む画期的なものとなった。

その後、20年を経過し、新発掘資料が相次いで発見・発掘されていることから、新編集の多喜二全集が編纂されることが求められている。



つづく
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伊藤純「小林多喜二全集の編纂過程」について

2012-04-29 16:05:58 | 多喜二研究の手引き

『立命館言語文化研究』23巻3号、

 http://senryokaitakukibunka.blog.fc2.com/blog-entry-34.html

刊行のお知らせありがとうござます。

 伊藤純「小林多喜二全集の編纂過程──『貴司山治日記』にみるその表裏──」は一気に読ませる力を持った論考です。

伊藤純の冷静な筆つきとともに、父貴司山治への思いの深さを感じます。

この論考は、貴司山治の多喜二全集編纂の一端が明らかにされていて貴重なレポートであることはまちがいありません。

 "一端"というのは、中野重治が多喜二全集編纂にどう関わり、何を果たしたのか、果そうとしていたのかが次に論じられなくてはならないし、貴司山治が多喜二全集編纂で果たしたプラス面とともに、マイナス面についても明らかにされなくてはならないと思っているからです。

 前者については

a.栗栖 継氏のエスぺラント語版「蟹工船」翻訳に、貴司山治が資料提供して支援したこと。 このエスぺラント語版「蟹工船」は刊行にいたらなかったものの、その原稿からスロバキア語版が刊行されたこと。

b.中野重治とのかかわりについては、神村 和美「一九四九年「蘭眸帖」--多喜二祭の点景と中野重治」( 『 社会文学』 (31号) [2010] )が貴重なエピソードを紹介しています。

中野と貴司との関係は、 1973年11月20日死去した貴司への追悼文で中野重治は

 「――われわれは今、小林多喜二のほぼ完全な姿で読むことができる。けれどもそれがどれほど君の力によっていたかは、充分に記録されていない。「党生活者」の伏字ナシ校正刷りが、長い戦争期間を通してどこにどう保存されてきたか、それを責任者として記録できるものは君以外になかった。」(「貴司山治への弔文」原稿は 徳島県立書道文学館蔵)

 とその役割を明記していた。

中野はそのことを実感する立ち位置にいたのだった。

 晩年の中野の多喜二への関心の復活も認めることができるし、その仕事は澤地久枝に引き継がれてもいるようだ。

 

後者について戦後 多喜二批判の先鋒役だった平野謙に、

その批判材料を与える役割をも果たしたことが明らかになることも期待したい。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    

 佐藤 三郎 (Saburo Sato)

 ●多喜二関係情報ブログ「多喜二への手紙」

http://blog.goo.ne.jp/takiji_2008

●多喜二文庫「多喜二の宇宙」

http://book.geocities.jp/takiji2013

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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伊藤純「小林多喜二全集の編纂過程──『貴司山治日記』にみるその表裏──」(

2012-04-24 22:15:20 | 多喜二研究の手引き
『立命館言語文化研究』/立命館大学国際言語文化研究所 23巻3号 2012年2月
下記の成果が掲載されています。

2010年度萌芽的プロジェクト研究B4「占領開拓期文化研究会」研究報告
〈占領・開拓期〉の記録と表現:文学および映像表現を中心に

内藤由直「〈占領と開拓〉の問題系──「占領開拓期文化研究会」活動・成果報告──」(pp.1-3)
内藤由直「犬田卯「開墾」の普通選挙批判──プロレタリア文学運動の方向転換に対する反措定──」(pp.5-19)
禧美智章「影絵アニメーション『煙突屋ペロー』とプロキノ──1930年代の自主製作アニメーションの一考察──」(pp.21-33)
雨宮幸明「能勢克男の小型映画『疏水 流れに沿つて──』論──近代都市京都への映画的考察──」(pp.35-52)
和田崇「終戦直後の関西雑誌メディア」(pp.53-65)
伊藤純「小林多喜二全集の編纂過程──『貴司山治日記』にみるその表裏──」(pp.67-83)

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2012小樽小林多喜国際二シンポ.動画

2012-02-25 09:27:20 | 多喜二研究の手引き
2012小樽小林多喜国際二シンポ.wmv
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『小林多喜二全集』1982-83年目次総覧

2012-02-24 04:11:48 | 多喜二研究の手引き

第1巻 1982.7.25
 
健‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 7
継祖母のこと‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥19
薮入‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥32
ロクの恋物語―Z・W兄に‥‥‥‥‥‥‥‥38
ある役割‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥55
暴風雨もよい‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥78
駄菓子屋‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥90
彼の経験‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 100
田口の「姉との記憶」‥‥‥‥‥‥‥‥ 108
龍介の経験‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 118
師走‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 127
父の危篤‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 136
人を殺す犬‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 141
万歳々々‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 146
女囚徒‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 155
残されるもの‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 179
最後のもの‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 188
誰かに宛てた記録‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 209
滝子其他‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 221
ある改札係(原稿)‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 247
曖昧屋(ノート稿)‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 258
来るべきこと(シナリオ・ノート稿)‥ 277
雪の夜(ノート稿)‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 302
その出発を出発した女(ノート稿)‥‥ 328
山本巡査(ノート稿)‥‥‥‥‥‥‥‥ 470
*注‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 497
*解題‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 501
 

第2巻 1982.6.25
 
防雪林‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 5
一九二八年三月十五日‥‥‥‥‥‥‥‥ 119
東倶知安行‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 205
蟹工船‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 257
不在地主‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 365
監獄部屋(ノート稿)‥‥‥‥‥‥‥‥ 503
防雪林(改作)(ノート稿)‥‥‥‥‥ 515
*注‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 529
*解題‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 531
 

第3巻 1982.9.25
 
暴風警戒報―困難な下半期―‥‥‥‥‥‥ 7
救援ニュースNo.18.附録‥‥‥‥‥‥‥‥46
同志田口の感傷‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥61
工場細胞‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥76
健坊の作文(童話)‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 197
「市民のために!」‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 201
オルグ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 208
壁にはられた写真‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 309
独房‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 321
プロレタリアの修身‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 354
テガミ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 358
飴玉闘争‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 363
争われない事実‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 369
七月二十六日の経験‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 373
父帰る‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 377
母たち‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 380
安子‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 394
疵‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 593
母妹の途‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 596
級長の願い‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 602
失業貨車‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 605
*注‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 617
*解題‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 621
 

第4巻 1982.10.25
 
転形期の人々‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 5
断稿‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 219
沼尻村‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 251
党生活者‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 343
地区の人々‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 447
*注‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 515
*解題‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 517
 

第5巻 1982.11.30
 
歴史的革命と芸術‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥13
リズムの問題‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥18
修身とサウシアリズム‥‥‥‥‥‥‥‥‥26
「下女」と「循環小数」‥‥‥‥‥‥‥‥31
シェクスピアよりも先ずマルクスを‥‥‥33
朝野十二氏へ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥34
頭脳の相違‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥35
大熊信行先生の「社会思想家としてのラスキンとモリス」‥‥37
詩の公式―生活、意識、及び表現の三層楼的関係に就いて‥‥39
十三の南京玉―あぐらをかいての話‥‥‥46
チャップリンのこと其他‥‥‥‥‥‥‥‥52
「海戦」を中心の雑談‥‥‥‥‥‥‥‥‥56
吹雪いた夜の感想‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥62
とても重大な事‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥67
さて、諸君!‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥70
「ヴォルガの船唄」其他‥‥‥‥‥‥‥‥74
「第七天国」‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥77
口語歌人よ、マルクス主義を!!‥‥‥‥82
映画には顕微鏡を?‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥84
自分の中の会話‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥87
推奨する新人‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥89
海員は何を読まなければならないか‥‥‥89
略歴と作品その他‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥92
「殺され」たくない船員へ‥‥‥‥‥‥‥94
「寄らば切るぞ!」―(剣劇もの)に用心しろ‥‥97
形式主義文学理論を如何に観るか‥‥‥‥99
プロレタリア文学の「大衆性」と「大衆化」について‥‥ 100
「カムサツカ」から帰った漁夫の手紙‥ 111
こう変っているのだ。‥‥‥‥‥‥‥‥ 120
原作者の寸言‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 124
断片を云う‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 126
プロレタリア文学の大衆化とプロレタリア・レアリズムに就いて‥‥ 129
頭の蝿を払う―吠える武羅夫に答える‥ 138
来年は何をするか―一九三〇年に対する私の希望・抱負・計画‥‥ 142
不在作家‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 143
「蟹工船」と「不在地主」‥‥‥‥‥‥ 147
無鉄砲過ぎる期待だろうか?‥‥‥‥‥ 148
「蟹工船」支那訳の序文‥‥‥‥‥‥‥ 150
私の顔‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 151
岩藤雪夫‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 152
葉山嘉樹‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 153
北海道の「俊寛」‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 155
宗教について‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 157
プロレタリア文学の新しい文章に就いて‥‥ 158
総選挙と「我等の山懸」‥‥‥‥‥‥‥ 162
プロレタリア文学の方向に就いて‥‥‥ 166
「暴風警戒報」と「救援ニュースNo.18.附録」に就いて‥‥ 171
宗教の「急所」は何処にあるか?‥‥‥ 174
「機械の階級性」について‥‥‥‥‥‥ 181
プロレタリア短歌について‥‥‥‥‥‥ 188
銀行の話‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 189
現行映画検閲制度に就いて‥‥‥‥‥‥ 204
同志林房雄―「鉄窓の花」に序す‥‥‥ 205
プロレタリア・レアリズムと形式‥‥‥ 206
感心した作品・その理由‥‥‥‥‥‥‥ 211
プロレタリア大衆文学について‥‥‥‥ 212
プロレタリア文学の「新しい課題」‥‥ 213
「報告文学」其他‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 218
傲慢な爪立ち‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 225
「シナリオ」の武装‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 227
年譜‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 230
わが方針書‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 232
文芸時評(1)―時々、肩を聳やかして!‥‥ 240
壁小説と「短い」短篇小説―プロレタリア文学の新しい努力‥‥ 254
小説作法―小説の作り方‥‥‥‥‥‥‥ 258
「良き教師」―「綜合プロレタリア芸術講座」推薦文‥‥ 272
階級としての農民とプロレタリアート‥ 273
四つの関心‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 277
文戦の打倒について‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 287
「一九二八年三月十五日」‥‥‥‥‥‥ 292
読ませたい本と読みたい本‥‥‥‥‥‥ 296
「静かなるドン」の教訓‥‥‥‥‥‥‥ 299
北海道の同志に送る手紙‥‥‥‥‥‥‥ 304
当面の課題‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 310
「新女性気質」―作者の言葉‥‥‥‥‥ 318
文芸時評(2) ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 319
良き協同者―寺嶋徳治君に‥‥‥‥‥‥ 333
共産党公判傍聴記‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 336
十二月の二十何日の話‥‥‥‥‥‥‥‥ 338
プロ文学新段階への道‥‥‥‥‥‥‥‥ 340
我等の「プロ展」を見る‥‥‥‥‥‥‥ 350
コースの変遷―高等商業出の銀行員から‥‥ 353
故里の顔‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 354
一九三二年に計画する‥‥‥‥‥‥‥‥ 357
一九三二年への抱負‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 358
監房随筆‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 359
文芸時評(3) ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 370
「転形期の人々」の創作にあたって‥‥ 379
「組織活動」と「創作方法」の弁証法‥ 382
我々の文章は簡単に適確に‥‥‥‥‥‥ 384
「一九二八年三月十五日」の経験‥‥‥ 388
戦争と文学‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 391
「文学の党派性」確立のために―徳永直の見解について‥‥ 398
文芸時評(4) ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 410
ユリイ嬢にあらわれたストリンドベルクの思想とその態度(原稿)‥‥ 417
「生れ出ずる子ら」について(ノート稿)‥‥ 440
無題(ノート稿)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 443
「女囚徒」の自序(ノート稿)‥‥‥‥ 450
築地小劇場来る―上演脚本に就いて(ノート稿)‥‥ 451
政治と芸術の「交互作用」(ノート稿)‥‥ 453
*注‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 461
*解題‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 471
 

第6巻 1982.12.25
 
評論
プロレタリア文学運動の当面の諸情勢及びその「立ち遅れ」克服のために‥‥11
「国際プロレタリア文化聯盟」結成についての緊急提案‥‥58
文芸時評‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥62
日和見主義の新しき危険性‥‥‥‥‥‥‥81
闘争の「全面的」展開の問題に寄せて‥ 102
二つの問題について‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 121
右翼的偏向の諸問題‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 133
右翼的偏向の諸問題―討論終結のために‥‥ 202
第五回大会を前にして‥‥‥‥‥‥‥‥ 217
暴圧の意義及びそれに対する逆襲を我々は如何に組織すべきか‥‥ 224
「政治的明確性」の把握の問題に寄せて‥‥ 241
八月一日に準備せよ!‥‥‥‥‥‥‥‥ 265
闘争宣言‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 285
卒業論文
見捨てられた人とパンの征服及びそれに対する附言。‥‥ 299
初期文集

秋の夜の星‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 363
秋が来た!!‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 364
北海道の冬‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 365
冬から春へ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 367
春‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 368
冬から春へ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 369
喜び!!‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 370
私の揺籃‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 371
運命のアイロニー‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 374
ある時のわれ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 376
短歌‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 378
小品、小説
今は昔‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 380
呪われた人‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 381
病院の窓‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 384
電燈の下で‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 388
石と砂‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 391
晩春の新開地‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 399
生れ出ずる子ら1 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 407
生れ出ずる子ら2 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 418
生れ出ずる子ら3 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 430
泣いて来た男‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 447
悩み‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 452
姉妹‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 459
龍介と乞食‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 473
兄‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 485
断稿
夏の病院‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 494
感想
霜夜の感想‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 543
編輯余感‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 547
疑惑と開拓―芸術の真生命について‥‥ 548
島田正策『自画像』によせて‥‥‥‥‥ 560
編纂余録‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 571
*注‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 579
*解題‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 591
 

第7巻 1983.1.30
 
日記‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥11
1926年‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥11
1927年‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥93
1928年‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 142
翻訳
ダニーエルと夢‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 147
The Presence‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 157
運命?‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 163
クロポトキン「青年に訴う」第十章‥‥ 170
小説ノート稿
ひる!!‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 175
断稿(1) ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 181
断稿(2) ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 185
And Again!! ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 187
「師走」の改作‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 203
酌婦‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 224
無題‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 245
「人を殺す犬」の改作‥‥‥‥‥‥‥‥ 249
放火未遂犯人‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 252
営養検査‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 262
馬鹿野郎!!―自殺しかけた同志‥‥‥ 266
感想・覚え書き
赤い部屋‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 271
同人雑記‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 292
覚え書き(1) ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 298
覚え書き(2) ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 301
断稿‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 307
資料(「プロレタリア」)‥‥‥‥‥‥ 310
海員‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 315
覚え書き(3) ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 323
覚え書き(4) ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 325
書簡‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 329
1923年‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 329
1924年‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 330
1925年‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 334
1926年‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 337
1927年‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 341
1928年‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 362
1929年‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 383
1930年‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 421
1931年‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 549
1932年‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 586
1933年‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 599
*注‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 603
*解題‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 635
*年譜(手塚英孝)‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 643
*全刊行書目録手塚英孝〔編〕‥‥‥‥ 663
*総索引‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 1
*書簡索引‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 6

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