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「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

小林多喜二復活了(劉孝春)

2012-02-24 04:11:01 | 多喜二研究の手引き

小林多喜二復活了(劉孝春)

 

原載於2009年4月《兩岸犇報》創刊號 

  日本左翼作家小林多喜二於一九三三年二月二十日,以二十九歲年紀被特高警察虐殺,至今已七十六年了。日本戰敗前,他的成名作之一《蟹工船》被列為禁書,連中文譯本也在中國被列為禁書。戰後日本共產黨取得合法地位,在法西斯統治下未曾向殘虐的軍國主義勢力投降、轉向的小林多喜二,其作品儘管已解禁,卻仍只在一小部分愛好和平、反對帝國主義戰爭的人們間傳閱。然而二○○八年,因日本政府所實施的各種政策,包括雇傭型態的改變等導致年輕人貧困化,產生』「網咖難民」、街友年輕化、自殺者人數多且年齡層往下降……等問題,經濟不景氣所衍伸的諸多問題,促使日本年輕人去思考個人與國家的關係,產生貧窮的社會背景,進而注意到政經變化,新自由主義的影響等,於是反資本主義、反帝國主義的小林多喜二作品,便使他們產生了共鳴,他們從其小說人物遭遇,找出了與自身的共通點,於是二○○八年,沉寂許久的多喜二作品《蟹工船》成為暢銷書,「蟹工船」一詞成為日本年輕人說明被榨取經驗時的一句形容詞,被選為流行語大獎第一名,並且促使日共黨員人數數急速成長。更值得注意的是以小林多喜二生涯,尤其是內容涉及被虐殺的事實的一部紀錄片,竟獲得了平成二十年度日本文化廳藝術祭的大獎,這件事給予長期以來透過各種小型研究會、讀書會守護多喜二文學火種的日本愛好和平人士莫大鼓舞,因為在歷史上是一大突破。

 

  在小林多喜二短暫的創作生涯中,每一部作品都是他的嘔心瀝血之作,他的作品與他不斷前進的思想與革命運動一致,並且他乃秉持「藝術不能成為吃不上飯者的食譜」的理念而創作。在二○○八年成為暢銷書的《蟹工船》是小林多喜二以一九二六年實際發生的虐待蟹工船漁工事件為題材,經過綿密訪談調查之後才創作完成的。多喜二在寫給他尊敬的左翼文學理論家藏原惟人信中詳述了《蟹工船》的創作意圖:與之前以一九二八年三月十五日大鎮壓為題材的小說《一九二八年三月十五日》創造各種不同性格人物不同,《蟹工船》寫的是「集團」,而且他想透過《蟹工船》這一特殊的勞動型態作為殖民地、未開發地被榨取的典型。除了東京、大阪等大工業地外,日本勞工的現狀有80%與《蟹工船》相同。更進一步地,他想藉此呈現國際間及軍事、經濟上的關係。他刻意寫未被組織起來的勞工,但資本主義卻反而會自然地促使他們組織起來。他要寫出資本主義是以如何「無慈悲」的型態入侵殖民地、未開地,作原始的榨取,而官憲及軍隊做其保鑣,任其酷使。無產階級一定要反對帝國主義戰爭。「帝國軍隊─財閥─國際關係─勞動者」要同時呈現,蟹工船就是最好的舞台。亦即《蟹工船》乃多喜二所寫的「資本主義入侵殖民地史」的篇章。全世界最早的譯本,是由中國的潘念之所譯,小林多喜二為此寫了序文,他認為中國的無產階級的現狀,與蟹工船同樣遭受殘虐的原始性的榨取、囚人般的勞動、被各國帝國主義的鐵鎖綑綁。比動物還不如地被殘酷奴役,他相信《蟹工船》能成為他們的力量。

 

  日本的年輕人從《蟹工船》發現了自己與小說中被榨取、被虐待的漁工們相同的處境;然而他們感嘆自己還不如那些勞工。因為《蟹工船》透過如何被酷使的詳細描寫,還安排了漂流到蘇聯,鼓勵他們爭取平等人道對待的情節,指引漁工方向及希望,最後靠「團結」集體反抗。但現今的年輕人已無同一條船上的連帶感,亦即欠缺「被壓迫者團結起來」的覺悟;更甚者,連自身被剝削壓迫都無法察覺,過著麻木不仁、醉生夢死的生活,喪失了獨立思考判斷的能力。小林多喜二在「蟹工船」最後,呼籲勞動者要再一次站起來。事實上在《一九二八年三月十五日》這部震撼了當時文壇的小說最後不同於出版後的情節,多喜二原稿寫的是不只在獄中有這麼多革命志士在奮鬥,在獄外也有鎮壓不了的鬥爭。小林多喜二不只作品如此充滿鼓舞向上的戰鬥力,他最後也以自身年輕的生命,寫下了無產階級運動史上最壯烈光榮的一頁。

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島村輝氏の多喜二研究のあゆみ(雑誌掲載)

2012-02-23 06:43:09 | 多喜二研究の手引き

 1.  観察する「私」・行動する「私」--小林多喜二「東倶知安行」の語り手 (語り手の位相<特集>) / 島村 輝 
 日本文学. 37(1) [1988.01] 

 2.  小林多喜二の<政治と文学> (近代文壇事件史) / 島村 輝 
 國文學 : 解釈と教材の研究. 34(4) [1989.03] 

  3.  <モダン農村>の夢--小林多喜二「不在地主」論 / 島村 輝 
 日本近代文学. (通号 43) [1990.10] 

  4.  「壁小説」の方法--小林多喜二「救援ニュースNo.18.附録」と「テガミ」 (近代文学と「語り」-2-<特集>) -- (近代文学と「語り」の位相) / 島村 輝 
 国文学 : 解釈と鑑賞. 59(4) [1994.04] 

  5.  座談会昭和文学史-6-プロレタリア文学--弾圧下の文学者たち / 小田切 秀雄 ; 島村 輝 ; 井上 ひさし 他 
 すばる. 19(10) [1997.10] 

 
 6.  読む 女・金・言葉--小林多喜二「独房」 / 島村 輝 
 日本文学. 50(5) [2001.5] 

  7.  小林多喜二『蟹工船』と地下活動化する社会主義運動 (発禁・近代文学誌) -- (発禁本とその周辺をめぐる問題系) / 島村 輝 
 國文學 : 解釈と教材の研究. 47(9) (通号 686) (臨増) [2002.7] 

    8.  賢治と多喜二--それぞれの「昭和8年」 / 島村 輝 
 宮沢賢治研究annual. 13 [2003] 

    9.  再考・「政治」と「文学」--プロレタリア文学における「芸術的価値」 (近代における「文学」概念) / 島村 輝 
 国語と国文学. 80(11) (通号 960) [2003.11] 

    10.  展望 時代と文学への新たな眼差し--多喜二研究近年の動向から / 島村 輝 
 日本近代文学. 72 [2005.5] 

   11.  プロレタリア文学--世界を見通すにあたって、それがなぜ大切なのか / Heather Bowen-Struyk ; 島村 輝 訳 
 日本近代文学. 76 [2007.5] 

   12.  二〇〇八年の「蟹工船」現象--その背景と展開 / 島村 輝 
 日本近代文学. 79 [2008.11] 

  13.  小樽今昔--多喜二と運河の街 (小特集 〈私〉と北海道の文芸) / 島村 輝 
 芸術至上主義文芸. (通号 34) [2008.11] 

  83.  女性たちは「蟹工船」をいかに読み、なにを書いたか (特集 女性文学は、いま--グローバリズムとナショナリズムを問う) / 島村 輝 
 社会文学. (30) [2009] 

 14.  「政治」と「文学」を転位する--「芸術的価値論争」の軌跡に見出すもの (特集 再読プロレタリア文学) / 島村 輝 
 國文學 : 解釈と教材の研究. 54(1) (通号 779) [2009.1] 

  15.  国際学会をコーディネートする、ということ / 島村 輝 
 昭和文学研究. 58 [2009.3] 

  16.  中国における『蟹工船』について / 島村 輝 
 東方. (340) [2009.6] 

  17.  「格差」ある世界を写す鏡として--中国における『蟹工船』受容 (シンポジウム 中国における「格差」--何が問われているか) / 島村 輝 
 中国. (25) [2010.7] 

  18.  組曲虐殺--あとにつづくものを 信じて走れ (特集 井上ひさしと世界) -- (世界の劇場) / 島村 輝 
 国文学 : 解釈と鑑賞. 76(2) [2011.2] 

   19.  座談会 井上ひさしの文学(1)言葉に託された歴史感覚 / 今村 忠純 ; 島村 輝 ; 成田 龍一 他 
 すばる. 33(5) [2011.5]

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多喜二テキスト復原のあゆみ

2012-02-23 06:41:37 | 多喜二研究の手引き

※貴司山治の回想「一九三五年に、私は幸い又自由をとりもどしたので、一存でやはりこの『党委託』の仕事をつづけることにきめ、ナウカ社を発行所として、小林多喜二全集を小説だけ三冊、論文はどうしても出せそうもないのでのこし、代わりに書簡集、日記各一冊を編さんして、合計五冊を刊行した。この発行部数合計約二万である。」(「『小林多喜二全集』の歴史)『小林多喜二全集月報3』(1949/6))

多喜二全集刊行編纂は、貴司山治を中心に没後直後からすすめられたものの、幾多の障害があり困難を極めた。作家同盟出版部からの『小林多喜二全集 第2巻』(国際書院)は1巻のみ刊行で中断。「党生活者」部分はゲラを作成しながら出版することができなかった(中野重治旧蔵、2011年現在市立小樽文学館蔵)。

1935から36年にかけてナウカ社から『小林多喜二全集』3巻、斎藤次郎編『小林多喜二日記補遺』(ナウカ社4月)、36年 『小林多喜二書簡集』(付録・貴司山治作成「年譜」未定稿 ナウカ社 )が、普及版を含め計約2万部刊行したものの、評論・論文関係は収めることができず、削除・伏せ字を余儀なくされ不完全なものだった。他日の完全版を期して中央公論編集者の協力も得て「党生活者」の完全ゲラ原稿(徳永直旧蔵、2011年現在日本共産党中央委員会蔵)を作るなどした。また勝本清一郎が「一九二八年三月十五日」原稿を第一銀行貸金庫に預けるなどあらゆる努力と工夫が尽くされて守られた。

  その一方、1945 年の東京空襲で小林三吾宅が被災し、多喜二の残した資料を焼失。ナウカ社主・大竹博吉保管原稿も焼失。同年4月、同盟通信社記者・蒔田栄一は、身の危険を感じたことから、保管してきた多喜二書簡約100通を焼くなど貴重な資料を喪う結果となった。

 戦後は、いちはやく日本共産党北海道地方委員会宣伝部編で『小林多喜二著作集』(全3巻 創建社書房 1946年)が出版されたのを皮切りに、多喜二の作品はようやく出版の自由を得た。しかし、発表当時のままの大量の削除・伏字で発表せざるを得なかった。

  1947年になって、多喜二の「原稿ノート」13冊が小林家で発見された。この「草稿ノート」(現在、日本共産党中央委員会蔵)に基づいてテキストを校合して復元作業をすすめ、1948年全集編纂委員会(蔵原惟人、宮本顕治、江口渙、壺井繁治、窪川鶴次郎、勝本清一郎、貴司山治、手塚英孝など)『小林多喜二全集 第2巻』(新日本文学会編 日本評論社発売)を刊行。全11巻、伝記、研究、別冊2巻の予定で刊行が期待されたが、第9巻(1949年6月)で中断。※『新日本文学』(51年6月号)=「小林多喜二未発表書簡16通」初公開。

1952年8月、富士書房から、日本評論社版を底本とした『小林多喜二全集』(全9巻)を再刊。新たに、日本評論社版と同じ編纂・解題者で完全版の『小林多喜二全集』(文庫判全12巻 青木書店)が、第9巻までは日本評論社版全集の再刊で9巻に「闘争宣言」を新しく収載。10巻に日記・小説補遺、11巻に書簡集。12巻に詩、(小品、小説補遺、評論補遺)の3巻を加えてようやく完結した。
※岩波書店『文庫』の1953/12 第27号 には神戸市湊川神社内の吉田智朗所有の志賀直哉宛の多喜二書簡が初公開。

その後は1958年『小林多喜二全集』(かすが書房)、世界名作文庫として1959年、文庫判全集の合本『小林多喜二全集』(全5巻 小林多喜二全集編集委員会 青木書店)が刊行された。
  多喜二没後45周年を記念の1968年、全集編纂委員会は青木書店版につづく戦後2番目の多喜二全集として『定本小林多喜二全集』(新書判全15巻 解題・注手塚英孝)を1968年1月から刊行した。この全集は、補遺・「龍介と乞食」、8刷までに評論「無鉄砲過ぎる期待だろうか?」、葉山嘉樹、寺田行雄宛計2通を含む書簡5通を追補し(定本版補遺には、酒匂親幸、雨宮庸蔵、志賀直哉宛が追加された)、第15巻を「多喜二研究」として刊行、69年に全15巻を完結した。志賀直哉は、推薦の言葉を寄せた。※『国文学』(関西大学 68/3) 浦西和彦「葉山喜樹宛小林多喜二島木健作未発表書簡」初公開。『民主文学』(77.2) =箭内 登「小林多喜二の未発表書簡と評論について」。
1980年には、解説監修・蔵原惟人/小田切進で、刊行当時の姿を再現した『小林多喜二初版復刻全集・小林多喜二文学館』(ほるぷ社)を、手塚英孝解題、小田切進「伏字・削除復元表」などによる解説編1冊を含めた全16巻として刊行された。

没後50年を前にした1982年には、『小林多喜二全集』(全7巻 新日本出版社)を刊行。定本版刊行以後判明した阿部次郎、楢崎勤、『新潮』編集部、板垣鷹穂宛の4通を含む20点を新収録、校訂・解題は故手塚英孝氏の仕事を引きつぎ、月報に津田孝の全巻通し解説をつけた。※『民主文学』(84/2)=大田努「小林多喜二未発表書簡」。

さらに没後60年を記念して『新装版小林多喜二全集』(新日本出版社1992)を刊行。82年版に補遺としてさらに、「ある病気のお話」、「良き教師―『総合プロレタリア芸術講座』推薦文」、「「文化聯盟」の結成に就て」、石本武明宛書簡6通(※『民主文学』1984年2月号で初公開)など18点の新資料を収録。定本版以降の10年間で判明した評論、小品、書簡9通を含む計38点を含む画期的なものとなった。


その後、20年を経過し、新発掘資料が相次いで発見・発掘されていることから、新編集の多喜二全集が編纂されることが求められている。

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「蟹工船」をめぐめ検閲と文学――1920年代の攻防

2012-02-23 06:25:11 | 多喜二研究の手引き
昨年一月、東京・千代田図書館の主催で、 「発禁本の境界」展が行われた。
また、そのイベントにあわせて、連続講演会が開催された。
現在、その講演がネットが公開されている。



『蟹工船』は、戦前期の発禁本として高名なもののひとつですが、いくつかの版が重ねられており、それぞれ内容に変更が加えられています。

 そのそれぞれについて、当局がどのように判断したか――発売頒布禁止の処分か削除の処分か、中には処分対象にならなかった版もある――を確認し、処分されたものが、どこに現存しているかを探すことになるということです。
 
もともと『蟹工船』の初出は、雑誌の『戦旗』誌上に昭和4年(1929)5月号と6月号の2回に分けて掲載され、そのうちの6月号の分が雑誌を取り締まる新聞紙法に基づく発売頒布禁止処分を受けています。
この初出については、『定本小林多喜二全集』第4巻についている手塚英孝さんによる「解題』中に、「検閲への配慮から全編にわたって、字句の伏字がかなりおこなわれた」と紹介されています。

 その後、雑誌の出版社の戦旗社から、昭和4年9月に本の形で初めての出版が行われました。
それを含め、戦前期において、6つの出版社から11の版が、単行本の形や、他の作品との合冊の形や、全集の中に1編として収録される形で、刊行が重ねられました。それらを概観できるように作成したのが、お手元の一覧表です。
(画像をクリックすると大きな図が出ます)

  『蟹工船』が発禁本となる過程は、いわばホップ、ステップ、ジャンプの三段跳びのようであったようです。
 
一覧表の最初、版⑴が本の形で出版された最初なのですが、これは「一九二八年三月十五日」「蟹工船」の作品2編を収録したもので、禁止になります。

その理由は「一九二八年三月十五日」が悪いからだということで、ですから、そもそもの当初は、禁止のターゲットが「蟹工船」ではなかったということなのです。

 次に版⑶を見てください。版⑴がホップだとすると、今度はステップに移ります。

版⑶は、版⑴の改訂版という位置づけですが、すぐに発売頒布禁止の処分を受けたことが当時の内務省刊行の目録に載っているので確認できます。

版⑶の内務省検閲原本が米国議会図書館に現存しており、今まで国内では見ることができなかったものです。
 その現物上に検閲担当官が残している書き込みを見ると、最終的に2月15日付で発売頒布禁止処分を受けているのですが、これはもともと2か所の削除を行えば出版できるという、削除処分の扱いであったにもかかわらず、出版社が指示どおりにしないので、結局、禁止処分となったという経過が明記されています。

 その書き込みのある表紙の写真が下図です。

その左側の(2)のところに手書きで「昭和五年二月十五日付決裁(削除命令ヲ遵奉セザルヲ以テ禁止)」とあります。
そして右の(1)の部分には、「削除処分モノ/第二十一頁「天皇陛下」ナル文字及ビ第一二三頁「献上品」ナル文字ト次頁ノ附随文字削除/昭和五年二月八日決裁」の手書きと担当者認押印が見られます。


 すなわち、21ページと123ページ以下の一部分を削除すればパスできるとされたものが、その指示を聞かなかったので結局、禁止になったことが分かります。

この経過はこれまでの関係文献には出ていない、初出の事実を示すものだと思います。

 それからちょっと謎めいているのですが、一覧表に版⑵とある出版物があって、内務省の検閲を受けないままに流布されたらしいものが存在していたことを示しています。この版⑵の「後記」には、雑誌『戦旗』での検閲事情が次のように述べられています。

――初版「蟹工船」は「蟹工船」と「一九二八年・三月一五日」の二篇をその内容としてゐた。共に「戦旗」誌上に発表されたものである。改訂版を発行するに当つて「一九二八年・三月一五日」はその全部を削除するの止むなきに至った。「三月一五日」そのものが、現在の検関制度治下では発売頒布を禁ぜられるものとなっている。兎も角、我々は「蟹工船」の再版を急いでゐる。簡単に右の事情を、読者諸君の前に明らかにして置くと共に、我々の真意がかゝる障害に逡巡して終るものではないことを附言する。――

 改訂版は、本来、出版法の条文に従えば、内務省に届け出なくてはならないのですが、これは届け出ないままに刊行したのでしょうね。

そして一覧表の版⑷に行きますと、これには検閲の痕跡がないというか、該当ページの一部分にあらかじめ×××の伏せ字を用いて出版されています。問題部分をあらかじめ伏せ字にすることによって、刊行時はそのままパスできたものと考えられます。
 次のジャンプに当たるのが、昭和7年(1932)刊行の版⑺の小林多喜二全集と、昭和8年(1933)刊行の版⑼の改造文庫版の禁止です。

 当時の取締当局側の月刊誌『出版警察報』に記載されている処分理由を引用しますと、「本書は「蟹工船」及「不在地主」の2編を含み、是等の小説は嚮(さき)に出版せられたる際不問に付せられたるものにして、且つ特に不穏なる箇所は多く伏宇を用ひて居るが、尚階級闘争を煽動し、且つ不敬に亘る点及昭和7年4月11日の記事差止事項に該当する記事あるを以て現下の社会情勢に鑑み今回新たに禁止処分に付せられたるものである」とあります。

 そしてジャンプの最終到達点が、昭和15年の左翼出版物一括禁止ということで、「蟹工船」という作品を収録している単行本や全集類で、それぞれの刊行時点では問題とされなかったものが、遡及して禁止の対象になったという経過です。
版⑻と版⑽がそれに該当します。

 さらに、戦時末期になって、版⑵、版⑹、版⑾が、地元警察署とのやり取りの結果、図書館において閲覧禁止の扱いとなったことにより、「蟹工船」という作品を含むすべての本が、公的には読者の眼前から抹殺されてしまったということになります。
なお、版⑷は、内務省納本(副本)が帝国図書館に交付された後、前述した乙部扱いとなって書庫に入れられ、初めから利用者が閲覧請求できない状態となっていました。

以上引用は下記より

http://www.kanda-zatsugaku.com/110218/0218.html#15
平成23年2月18日 神田雑学大学定例講座N0544

また、

紅野謙介『検閲と文学――1920年代の攻防』(河出ブックス、2009年)もこの問題を考えるうえで、貴重な視点を提示している。

1926年から27年にかけての日本文学に即して、出版の検閲をめぐる歴史を検証である。

「あ紅野とがき」によれば、発売・頒布の歴史や新聞の発行停止などの言論統制はそれ以前にもあったし、小林多喜二が虐殺された1930年代から敗戦までの時期のほうが、むしろ厳しかったという。
しかし、1920年代はマスメディアや出版界にとって大きな変化の時期でもあり、新聞雑誌の大量部数の発行など、文学をめぐる出版状況も大きく変わった。
1925年に公布された治安維持法と普通選挙法のもとで、検閲制度と文学者・出版社の間でどのような葛藤が生じていたのか、その複雑な様相を描いている。

本書の広告文に、「検閲が苛酷さを増してゆくファシズム前夜、文学者・編集者や見えない権力といかに闘ったか」とある。
しかし、読み終わってみて、“闘った”というような分かりやすい二項対立ではなかったことに、かえって納得させられる。

出版社・編集者にとっては、出版したものが全面的な発売停止や部分削除の処分を受ければ、自分たちの生活が立ちゆかなくなる。当然ながら、現場では発売以前に当局(内務省)のチェックを受ける「内閲」といった慣習もあったというし、編集者や著者自身が、検閲をかわすためのギリギリのラインを読んで出版物の内容を自主規制するといったことは、日常的に行われていただろう。

また、内務省の高級官僚で出版検閲をめぐる最高責任者であった松村義一と、志賀直哉・武者小路実篤といった作家は親戚関係でもあり、検閲において取り締まる側と取り締まられる側の距離は遠くなかったことにも本書は触れている。

著者自身が述べるように、本書には文学テクストの解釈や分析はほとんどなく、多くの資料の紹介や引用を通して、文学者や出版人たちが立っていた当時の言説の場を、いわば「かつての集団時代劇や実録もののような展開」を意識して描き出している。
実証を実証だけに終わらせるのではなく、また単純なナショナリズム批判に落とし込むのでもなく、文学の政治・経済的な文化基盤を考えることを目指している。

かつての改造社『文藝』の編集者として、苛酷な言論統制のもとで活躍した高杉一郎氏(2008年没)の肉声が「あとがき」で紹介されているのが興味深い。
「言論統制というものが全くなかったとは言えない時代に、そのコントロールに従いながら、いい仕事をしたということは、非常な誇り」であると氏は語っている。
その“誇り”とはなんだろうか。現実に稼動している検閲を想定しつつ、その基準を内面化することなく、自分の信じる表現を最大限実現させることを目指して、検閲官と交渉し続けること。
そこに、時代の制約の中で信念を通した出版人の姿があるという。
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多喜二虐殺と太平洋戦争/小樽で講演 (荻野富士夫)

2011-12-26 00:22:18 | 多喜二研究の手引き
多喜二虐殺と太平洋戦争/小樽で講演

 北海道小樽市でこのほど、「太平洋戦争を語る夕べ」(日本共産党小樽後援会とおたる平和展実行委員会主催)が開かれ、58人が参加しました。

 荻野富士夫小樽商科大学教授が「多喜二虐殺と太平洋戦争『母の語る小林多喜二』から見えるもの」と題し講演。多喜二の母・セキさんが多喜二の思想について「自分の息子を信ずる如(ごと)くその思想も信じていた」ことや、戦争については「今度の終戦に伴って思想も、言論も、出版も総(すべ)て自由になって、何らの拘束も裁判も受けなくなった。これで多喜二も土の中から明るい陽(ひ)を浴びて芽を吹き出したことになり、私どももホーッと長い息をついたことになる」と語ったことを紹介しました。

 荻野教授は、公表されている著書・資料・統計を用いて、戦争の恐ろしさと残酷さを紹介し、「決して戦争を起こしてはならないことを若い世代に伝えていかなければならない」と訴えました。
 日本共産党の菊地よう子道政相談室長が来賓あいさつを行いました。

(2011年12月14日,「赤旗」)
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DVD版『小林多喜二 草稿ノート・直筆原稿』の制作などをめぐって(島村輝)

2011-10-19 22:55:53 | 多喜二研究の手引き

「社会的テクスト生成論」の可能性--DVD版『小林多喜二 草稿ノート・直筆原稿』の制作などをめぐって

 The possibilities of social genetic criticism: on the making of the DVD Kobayashi Takiji Soko note, Jikihitsu Genko


収録刊行物

『昭和文学研究 』 63, 72-74, 2011-09

発行*昭和文学会

 

A5判・並製・118ページ
ISBN978-4-305-00363-8 C3393
定価:本体4,200円(税別)

●昭和期の文学を中心とする近現代文学の研究を対象とした学会誌。従来、会員以外は入手困難でしたが、通常の書籍同様、書店にてご注文いただけるようになりました。年2回刊行。定期ご購入をご希望の場合は入会されると金額的にお得です(年会費7000円、入会金1000円)。

 

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■ご予約・ご注文は版元ドットコムで
http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-305-00363-8.html

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【目次】

《論文》
武田泰淳「審判」に見る「文学」の「政治」性----戦後文学再検討の視座----●高橋啓太
鏡像としての村落----横溝正史『八つ墓村』----●倉田容子
剣豪、もし闘わば----山田風太郎「魔界転生」のマッチメイク----●牧野悠
馬場あき子論----『南島』を中心に----●日置俊次

《研究動向》
西條八十●安智史
三島由紀夫●山中剛史
小島信夫●立尾真士
昭和文学と映画●友田義行

《研究展望》
「私小説」をめぐる胎動●梅澤亜由美
「社会的テクスト生成論」の可能性--DVD版『小林多喜二草稿ノート・直筆原稿』の制作などをめぐって--●島村輝
韓国における日本現代文学●兪在真

《書評》
倉田容子著『語る老女語られる老女----日本近現代文学にみる女の老い』●中川成美
高山京子著『林芙美子とその時代』●今川英子
柳瀬善治著『三島由紀夫研究----「知的概観的な時代」のザインとゾルレン』●井上隆史
信時哲郎著『宮沢賢治「文語詩稿五十篇」評釈』●大塚常樹
佐藤淳一著『谷崎潤一郎型と表現』●西元康雅
鳥羽耕史著『1950年代「記録」の時代』●榊原理智
長沼光彦著『中原中也の時代』●阿毛久芳
外村彰著『岡本かの子短歌と小説----主我と没我と』●野田直恵

〈新刊紹介〉
小松和彦編『妖怪文化の伝統と創造 絵巻・草紙からマンガ・ラノベまで』
青木生子・原田夏子・岩淵宏子編『阿部次郎をめぐる手紙』
西田谷洋・丹藤博文・五嶋千夏・森川雄介著『梶井基次郎「檸檬」の諸相----倉地亜由美追悼論集』
ハワード・ヒベット+文学と笑い研究会編『笑いと創造』第六集基礎完成篇
菅聡子著『女が国家を裏切るとき----女学生、一葉、吉屋信子』
安英姫著『韓国から見る日本の私小説』
荒井裕樹著『障害と文学----「しののめ」から「青い芝の会」へ』
森晴雄・須田久美編『嘉村磯多と尾崎一雄----「自虐」と「暢気」』
日本近代文学会関西支部編『村上春樹と小説の現在』
山口直孝著『「私」を語る小説の誕生----近松秋江・志賀直哉の出発期』
増田裕美子・佐伯順子編『日本文学の「女性性」』

会務委員会だより
編集後記

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■小林多喜二詳細にー小樽商大が百年史

2011-07-31 21:57:13 | 多喜二研究の手引き

小樽商大が百年史 創立記念、写真集も刊行

2011年07月20日

■小林多喜二や60年代の大学紛争 詳細に

 前身の小樽高等商業学校から数えて創立100周年を迎えた小樽商科大学(山本真樹夫学長)の歴史をたどる「小樽商科大学百年史」と記念写真集「北に一星あり 小樽高商、商大の百年」ができた。本格的に学校史を刊行するのは1961年の「緑丘五十年史」以来、半世紀ぶりだ。

 「百年史」は通史(1140ページ)、学科史(395ページ)・資料(246ページ)の2巻からなり、7日の創立記念日に発刊された。

 2001年ごろから資料の収集や再整理を進め、06年に百年史編纂(へんさん)室を設置。特高警察や小説家小林多喜二の研究者として知られ、日本近代史の専門家である荻野富士夫教授が通史のほぼ全体を執筆した。

 五十年史では、学校のカリキュラムの変遷や時代ごとの教授陣の顔ぶれの紹介という色彩が強かったのに対し、百年史では「学科史」を独立させ、「通史」に重きを置いた。

 欧米先進国の貿易理論を学ぼうとした創立時代、大正デモクラシーとマルクス主義の流行という時代の申し子として小林多喜二や伊藤整らが輩出した経緯、国策としての満蒙政策に組み入れられていく明治から昭和にかけての授業や校則の変化、学生生活への影響などを描いている。「多喜二と1960年代末期の大学紛争を詳細に追った。時代ごとの学生の生活ぶりに興味もあった。実際にその時代を生きた人間たちの歴史として、読み物としても面白いと思う」と荻野教授。

 「北に一星あり」は、大学のほか、小樽市総合博物館や小樽文学館などが収蔵する歴史資料や写真を多く使い、学校と小樽の街の変遷をたどっている。

 「百年史」は600部を作り、1セット1万円。「北に一星あり」は3100部を制作。2600部は簡装版で学生全員に配布し、布張りの正装版は1冊2千円で市販する。問い合わせは同大付属図書館雑誌係(0134・27・5274)へ。

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1920年代のソ連社会の状況―「「カムサッカ」から帰った漁夫の手紙」より

2011-07-18 19:25:54 | 多喜二研究の手引き

ロシアの国営漁場の進出を恐れている******が、国営漁場に使われている***をこっそり煽動して、ストライキをわざと起こさせたり、器具を壊させたりしたことがあります。私達はそれに応援さえしたのです。」

これは1920年代のソ連社会の状況をリアルに捉えているといえる。

 

この作品には、草稿ノートがあるものの、前半だけである。 後半草稿ノートは伝えられず、伏字を起こすことはできていない。

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手塚英孝略年譜

2011-07-06 22:58:59 | 多喜二研究の手引き
手塚英孝略年譜

1903年(明治39年)
12月15日、山口県熊毛郡周防(現・光市)に、医師であった父手塚柳助、母寿賀の長男として生まれた。祖父に幕末、維新の英・蘭学の先駆者手塚律蔵(1823~78)がいて、少年時代から尊敬していた。

1919年(大正8年)           13歳
県立徳山中学へ入学。早くから文学に親しみ、19世紀ロシア文学を愛読、とくにトルストイの影響をうけた。先輩に市川正一、二年後輩に宮本顕治がいた。
1924年(大正13年)          18歳
慶応義塾大学に入学まもなく社会科学研究会を結成、文学研究会をつくる。学生運動をつうじて、非合法下の日本共産青年同盟や日本共産党との関係をしだいに持つようになった。

1927年(昭和2年)           21歳
慶応大学高等部を中退。このころ地下印刷所の活動に従事。
1929年(昭和4年)          23歳
4月、四・一六事件後一時検束される。

1930年(昭和5年)          24歳
2月、党関係で検挙され、4カ月後に起訴留保になった。10月ごろから文化団体の仕事をするようになり、習作として「虱」を執筆、『ナップ』に投稿。12月、ソビエトから帰国したばかりの中條百合子にはじめて会う。

1931年(昭和6年)         25歳
『ナップ』4月号に「虱」を発表。4月、日本共産党に入党。
蔵原惟人の指導のもとで文化団体の党グループの活動に加わる。夏、はじめて小林多喜二に会う。12月、資金関係で検挙されるが、無関係が明らかになり、40日後に釈放。

1932年(昭和7年)          26歳
4月、日本プロレタリア文化連盟(略称・コップ)への大弾圧のため、宮本顕治、小林多喜二、今村恒夫、杉本良吉らと非合法生活に入る。主として科学団体の再建の仕事をする。

1933年(昭和8年)          27歳
●『赤旗』(33/3/10) A生=手塚英孝「同志小林―最近の思い出」
7月ごろ、宮本顕治が責任者であった東京市委員会にうつることになる。9月、検挙される。

1936年(昭和11年)           30歳
9月、懲役2年執行猶予5年の判決を受けて出獄。敗戦まで、明治30年代の社会主義文学の研究などをつづけ宮本百合子の協力者として、獄中の宮本顕治のたたかいを支える。

1940年(昭和15年)         34歳
8月から、渋沢栄一伝記資料編某所に1943年3月まで勤める。
1941年(昭和16年)
10月、児玉花外をはじめて病床に訪れる。

1942年(昭和17年)
『龍門雑誌』651号(12月)に「外套」を発表。

1943年(昭和18年)         37歳
日本無線株式会社に徴用され、敗戦まで工場史資料の調査編纂にあたる。

1945年(昭和20年)         39歳
12月、日本共産党第4回大会に参加。その後、党本部に勤務し、アジプロ部、調査部などをへて、文化部創設のときから常駐責任者(部長 蔵原惟人)となる。新日本文学会結成に参加。

1947年(昭和22年)        41歳
2月ごろ、党本部勤務員をやめ、『小林多喜二全集』の編纂に専心することになる。『新日本文学』11月号に「父の上京」を発表。

●『日本評論』(47/2)手塚英孝「小林多喜二の思い出」
●『新日本文学』(47/10)手塚英孝「小林多喜二の原稿帳」
●『働く婦人』(48/6) 手塚英孝「小林多喜二―防雪林」
●『文学』(48/8) 手塚英孝「小林多喜二の文学―防雪林について」

1951年(昭和26年)         45歳
6月、多喜二・百合子研究会を結成、その発展につくす。のち、同会代表となる。
●『新日本文学』(52/3) 手塚英孝「小林多喜二の幼年時代―2―」
●『新日本文学』(52/6) 手塚英孝「小林多喜二伝-4-小樽商業時代の小林多喜二」
●『新日本文学』(52/9)手塚英孝「小林多喜二伝-6-小樽商業時代の小林多喜二 」
●『文庫』(岩波書店)1953年12月(第27号)「未発表 小林多喜二より志賀直哉への手紙 手塚英孝」

1954年 (昭和29年)
●小林多喜二『蟹工船・党生活者』(新潮文庫 54年6月)
●多喜二・百合子研究会『年刊多喜二・百合子研究第1集』(河出書房 54年)「非合法時代の小林多喜二」(手塚英孝)

1958年(昭和33年)
2月、『小林多喜二』(筑摩書房)刊行。

1961年(昭和36年)
7月、江口渙を団長とする訪中日本作家団の一員として、約一カ月、中国各地を訪れる。

1965年(昭和40年) 59歳
8月、日本民主主義文学同盟の創立に参加、常任幹事に選ばれる。『文化評論』12月号に「予審秘密通報」を発表。
●『民主文学』(68/3) 座談会「小林多喜二の人と文学―没後35周年を記念し
て」手塚英孝、壺井繁治、江口渙、まつやまふみお
●『赤旗』(68/1/27)手塚英孝「『定本小林多喜二全集』発刊にあたって」

1969年(昭和44年)        63歳
3月、文学同盟第3回大会後、『民主文学』編集長に選ばれる。12月、編纂委員として校訂解題を担当した『定本小林多喜二全集』 (新日本出版社)完結。
●『現代日本文学大系55.』. (筑摩書房, 69)= 小林多喜二-死とその前後(手塚英孝)
●『日本近代文学館』(71/9)=手塚英孝「<寄託資料紹介>葉山嘉樹の書簡と小林多喜二「蟹工船」の原稿」

1972年(昭和47年)        66歳
『文化評論』4月号に「落葉をまく庭」を発表。

1973年(昭和48年)         67歳
1月、作品集『落葉をまく庭』(東邦出版社)刊行。2月、「落葉をまく庭」により第5回多喜二・百合子賞を受賞。
●『文化評論』(73.5)小林多喜二没後40周年を記念して(特集)=小林多喜二とその戦友たち」宮本顕治、「小林多喜二とわれらの文学」、中里喜昭、手塚英孝の文学―
●『小林多喜二読本』 / 多喜二・百合子研究会. -- 新日本出版社, 74. (新日本選書)=小林多喜二小伝(手塚英孝) 年譜(手塚英孝)

1975年(昭和50年)          69歳
前年11月の八鹿事件に取材する長編小説の準備をはじめ、81年8月までくりかえし兵庫県八鹿町を訪れる。

1977年 (昭和52年)
●手塚英孝編『写真集-小林多喜二-文学とその生涯』(新日本出版社 77年) 

1978年(昭和53年) 72歳
4月、新日本出版社編集顧問となる。

1980年(昭和55年)
初版本による復刻全集『小林多喜二文学館』(ほるぷ出版、4月刊)の「解題」を執筆。
●『小林多喜二初版復刻全集・小林多喜二文学館』(全16巻) 解説監修 蔵原惟人 手塚英孝(ほるぷ社 80年)

1981年(昭和56年)
12月1日、午前10時15分、がん性胸膜炎のため死去。

●『文化評論』(82.2)=<追悼手塚英孝>佐藤静夫、及川和男、土井大助、山口勇子、小林茂夫
●『手塚英孝著作集2』 (新日本出版 1991年)
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英訳「蟹工船」のこと

2011-07-06 00:26:58 | 多喜二研究の手引き
松本正雄/英訳「蟹工船」のこと/民主文学(70/4)
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タイ語版『蟹工船』1978

2011-07-03 23:23:10 | 多喜二研究の手引き

เรือนรก / [โกบายาชิ ทากิจิ] ; ปัญญา วาทธรรม, แปล

เรือ นรก

พิมพ์ครั้งแรก

กรุงเทพมหานคร : การเวก, 2521 [1978]

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刊年 : 1978
形態 : 32, 162 p. : ill. ; 18 cm
別書名 :

蟹工船

出版国 : タイ
標題言語 : タイ語 (tha)
本文言語 : タイ語 (tha)
著者情報 :

小林, 多喜二(1903-1933) (コバヤシ, タキジ)

Panyā Wāthatham

NCID : BA81758614
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ロシア語版『蟹工船』1960

2011-07-03 23:03:48 | 多喜二研究の手引き

Краболов / Коьаяси Такидзи

Владивосток : Приморское книжное изд-во, 1960

<form action="/mylimedio/search/book-find.do?mode=comp&amp;database=nii&amp;searchTarget=BK&amp;queryid=1&amp;position=41&amp;detailCategory=book&amp;bibid=BA38561456&amp;ret=/mylimedio/search/book.do^mode!comp~database!nii~searchTarget!BK~queryid!1~detailCategory!book~bibid!BA38561456&amp;bbmk=" enctype="application/x-www-form-urlencoded" method="post"><input name="org.apache.struts.taglib.html.TOKEN" type="hidden" value="67cb060b38502e5537cf97214154b38d" /> </form>
刊年 : 1960
形態 : 74 p. ; 20 cm
別書名 :

Krabolov

出版国 : ロシア共和国
標題言語 : ロシア語 (rus)
本文言語 : ロシア語 (rus)
著者情報 :

小林, 多喜二(1903-1933) (コバヤシ, タキジ)

NCID : BA38561456
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モンゴル語版『安子』1987

2011-07-03 23:00:49 | 多喜二研究の手引き

Ясуко : Япон хэлнээс / Такэзи Кобаяси ; орчуулсан А. Даваадорж ; редактор Б. Баттогтох

Улаанбаатар : Улсын Хэвлэлийн Газар, 1987

<form action="/mylimedio/search/book-find.do?mode=comp&amp;database=nii&amp;searchTarget=BK&amp;queryid=1&amp;position=1&amp;detailCategory=book&amp;bibid=BA25552292&amp;ret=/mylimedio/search/book.do^mode!comp~database!nii~searchTarget!BK~queryid!1~detailCategory!book~bibid!BA25552292&amp;bbmk=" enctype="application/x-www-form-urlencoded" method="post"><input name="org.apache.struts.taglib.html.TOKEN" type="hidden" value="aabdeecee0a205f30e6c2be9bd3deb7d" /> </form>
刊年 : 1987
形態 : 148 p. ; 17 cm
別書名 :

I︠A︡suko : I︠A︡pon khėlnėės

安子

出版国 : モンゴル
標題言語 : 蒙古語 (mon)
本文言語 : 蒙古語 (mon)
原作言語 : 日本語 (jpn)
著者情報 :

小林, 多喜二(1903-1933) (コバヤシ, タキジ)

Davaadorzh, A.

Battogtokh, B.

NCID : BA25552292
所蔵:1件
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平成23年度 明治古典会七夕入札会 多喜二関係出品

2011-07-02 17:00:06 | 多喜二研究の手引き

[1874]
小林多喜二書簡
楢崎勤宛 ペン書 封筒付
一通
入札最低価格: 5

取り急ぎ用件のみ。

「新潮」十二月号創作は十一月五日(●●●●●)そっち着のやうに

お送りします。枚数は五十枚を過ぎてゐます。

甚だ勝手ですが、その点よろしくお願い致し度く

思ってゐます。

では。

※拓銀用箋

※白封筒 

封書裏

小樽市若竹町

小林多喜二



http://www.meijikotenkai.com/2011/detail.php?book_id=30146


[1875]
小林多喜二全集 刊行会発起人名簿
久米正雄宛発起人への勧奨文付 孔版
二枚
入札最低価格: 5


http://www.meijikotenkai.com/2011/detail.php?book_id=30147

※戦前に企画された多喜二全集刊行にあたっての企画書だろうと思う。

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権力の破壊から守り続けた「小林多喜二草稿ノート・直筆原稿」

2011-05-09 00:29:45 | 多喜二研究の手引き

断面/DVD版「小林多喜二草稿ノート・直筆原稿」/権力の破壊から守り続け

 小林多喜二の草稿ノート、直筆原稿を写真で収録したDVDが発売されました(雄松堂書店・10万5000円)。これには、草稿ノート(全14冊)、「析々帳」と表紙に書かれた日記(1冊)、「蟹工船」「転形期の人々」などの直筆原稿、関係者によって守られた「党生活者」の完全なゲラ、草稿ノートに対応する25作品の初出誌の誌(紙)面が収録されています。
 草稿ノート12冊と、「析々帳」1冊は日本共産党中央委員会の提供です。共産党中央委員会はこれらのノート稿を管理するようになった2008年から閲覧希望者には公開してきましたが、より広く多喜二研究に役立ててほしいと提供。DVD版は市立小樽文学館、日本近代文学館などの提供資料とあわせて充実したものとなっています。

業績全体が抹殺対象
 天皇制権力に虐殺された小林多喜二は、その業績全体も抹殺の対象となりました。ノート稿、ゲラなどが今日に伝えられるのは、多くの人々によって長い年月守りつづけられたものであることを想起させます。
 共産党所蔵のノート稿についていえば、1946年につくられた全集編纂委員会が長い年月をかけて蒐集したものです。編纂委員のひとりの手塚英孝氏は、戦後まもなく発掘調査のために、戦後の混乱の中、青函連絡船の甲板でDDTを体に吹きかけられたりしながら、小樽の小林家を訪ねていった様子を書いています。多喜二の姉から「原稿帳」と書かれたノートを6冊ほど渡されます。これは強制疎開で荷づくりの時、ごみ箱に投げ込まれていたのをお母さんが見つけ、拾い上げていたものでした。
 「原稿帳はいま十三冊ほど刊行会で保管されているが、十三冊になるまでには十年近い年月がかかった。小林多喜二の作品は、いまはほとんど完全に復元されているが、これはたくさんの人たちが、長い年月にわたり、いろんなかたちで権力の破壊から守りつづけてきたことと、お母さんに拾いあげられたこのノート稿によるものである」(「二人のお母さん」)
 DVD版のリアルな映像をみると、この手塚さんの言葉がよみがえります。
 それぞれの資料には、専門家による解説が付されています。インクの濃淡による執筆日時の違い、ノートの欄外にあるメモ、カット、新聞記事の切り張りなど多喜二の息遣いが伝わります。作品が作り上げられていく過程を研究する上でDVD版は得難いものです。

全集未紹介のメモも
 ノート稿の「一九二八、三、一五の続」をみると、余白上部に「(鈴本、工藤の性格が案外描けてゐない)」「(お恵、工藤の妻、佐多の母などを最後に於いて生かすこと)」という全集では紹介されていないメモや、蔵原惟人あての原稿送付に際した手紙の下書きが書かれていることがわかります。荻野富士夫氏の「解題」では、この「(手紙は現存せず)」と説明されています。
 各地の文学館などに散在する資料を可能な限り収録していますが、存在が確認されていながら収録できなかったものもあるといいます。また、1932年の「赤旗」に掲載された「高山鉄」名による小説「村の事件」を多喜二「未発掘」作品として「認定」して収録しているのも興味深い。
 (牛久保建男)
(
2011年03月18日,「赤旗」)

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