goo blog サービス終了のお知らせ 

「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

風間六三の証言――1933年1月18日

2010-01-18 19:31:13 | takiji_1932
三度目に会ったのは、1933年1月18日であった。
飯倉から六本木の坂を登りきった左側をちょっと入った処に川(かじかわ)書店~又は誠志堂~という古本屋がある。そこで昼ごろか多喜二と約束した時間に待ち合わした。例の二重回しを着てはいってきた。彼と私はその日の朝日新聞を持っていた。

 坂の上から円タクを待っている間、多喜二は「山本有三の”女の一生”(新聞連載小説)が待ち遠しくてねえ」と言った。私も同感だった。やがて円タクを捕まえて乗った。商業新聞の特大の広告が出たらしく、途中で車を止めて買い求めた。「新生共産党検挙の記事解禁」の見出しである。風間丈吉の名が大きくのってるのを見て、多喜二は私の顔を覗き見て「同じ名前だなあ」と言った。河上肇もやられている。



 やがて車は祝田橋へきて停止線へ止まった。多喜二は「ここでねえ、外務大臣の内田康哉と並んで止まったことがあるが、車越しで見たよ。栄養のいい、つやつやした顔をしてたよ。それから毛利(当時の警視庁特高課長)の車と一緒に停止して、顔を見られたと観念したが、先方が気づかずに発車してしまった」と、二重回しで顔を隠す真似をした。

 やがて目白駅付近をすぎて車をすてた二人は前後に曲がりくねった道を過ぎ、ある家の門前に立った。ちょっと大会社の課長クラスの住居に似た構えである。

門を開けて入ると似輪に面した部屋がある。そこの妻君(夫人)が赤ん坊を抱いて出てきた。多喜二は慇懃に「いつもお世話になります」と挨拶した。「どうぞ、ごゆっくり」と丁重な反応であった。

私は、北海道の情勢、小樽地区の文化サークルの発展度、全協の問題、ソ連渡航中止の経緯、「赤旗」の入手を待ち望んでいることなどについて報告した。片桐は手に持っていた風呂敷包から林檎を出して皮もむかずにかじりつつ私の報告を聞いていた。やがて「とにかく中央で検討してみよう、今日はこれまで」との意味のことを言って立ち上った。

(注 別名片桐とは1933年6月頃より、私が京浜地区で「赤旗」の配宣に従っていて、毎月定期的に会っていた。
同年12月28日(木)の商業新聞の朝刊で「宮本顕治(28)捕わる」で学生服姿での写真を見、宮本であることがわかった。

 この家は多喜二たちが会合のために何度も使っている大切な家だと直感した。茶を入れて妻君は赤ん坊と隣室へ去った。間もなく先日の片桐が玄関から入ってきた。部屋に慣れている様子だった。やがて「先日のことは中央部で審議し、この二人の推薦で君の復党が決まった」 そういう意味のことを言って、片桐は多喜二とともに頷いた。私は拒否する理由は少しも無かった。昨年以来事実上、小樽で党の仕事を手伝っていたからである。多喜二は満足そうに微笑んでいた。それから「赤旗」のアドレス交換となり、東京宛は京橋区築地2丁目築地小劇場内滝沢修宛・二重封片桐宛。一方は小樽市若松町○丁目伊藤福太郎宛・二重封小沼と決まった。片桐が去った後、私は「さあこれで東京へ来た用は全部すんだから、明日にでも小樽に帰る」と言うと、多喜二は「二十日までいてくれないか。小樽の話も聞きたいから」と言うので、帰りを延ばすことにした。

風間六三の証言―1933年1月12日

2010-01-12 19:29:28 | takiji_1932
1933年1月12日(木)頃 晴

 指示により青山表参道の入り口右角の山陽堂書店に入ったのは、たしか午前10時過ぎである。多喜二は二重回しで(着物の帯)すでに来ていて、しきりに本棚から新本を出して見ていた。私が入ってゆくと、あごで指図をし表へ出
た。私は間隔をおいて後ろからついていった。交番がお巡りがいたのを横目で見て曲がった。肩を並べた。「この間藤森成吉が本屋へ入って来て、驚いて飛び出したよ」と言った。まもなく小さい祠(ほこら)があり稲荷神社らしかった。

 同潤会アパートが列をなして立ち並んでいた。二つめの建物の二階に昇り部屋の一室に入った。そこの住人らしい地味な30才位の女の人がちょっと顔を出し、曲がった隣室へひっこんだ。二人で畳の上へあぐらをかいた。まもなく学生服の男が入ってきた。多喜二とは親しく信頼している仲らしく、目で合図をして三人鼎座になった。その中央部の人はたしか片桐と告げた。私は多喜二の紹介で本名を言ったが、別名を小沼と付け加え名のった。

風間六三の証言―1933年1月7日

2010-01-07 19:27:35 | takiji_1932
1933年1月7日(土)七草の日の夕刻、寺田は水道橋の日新医学社の勤務先から早びけして帰り、高円寺宅に丁度待機していた私を、「連絡がついたから、スグ行こう」とせかせ、本郷赤門前の電停で私たちは待っていた。

正月休みもすんで、そろそろ街へ人が出始めた。

すると二重回しにロイド眼鏡、黒いソフト帽を真深にかぶった多喜二が電停の人混みの中からひょっこり現れた。私とは足掛け4年会っていなかった。

寺田は「あぶないぞ、こんなところでは」
と小声で言えば、多喜二は「なあにかえって安全さ、平気だよ」と切り返した。

とにかく電停前の寿司屋に入った。
客が少なかったのでテーブルへ三人腰掛け、運ばれた寿司をつまんだ。

私は「あんなのよこして困ったよ(前の年派遣された壷田滋、本名渡辺欣一朗)」

すると多喜二は「中央部の人に会わせる、中央部の人に」とくりかえし小声で言った。

多喜二は、馬橋に残された母と弟のことを寺田からしきりに聞いていた。

その内、店を出ると彼はは私たちと反対側の人混みの中に消えて行った。


1933年1月7日 改造社佐藤績宛書簡

2010-01-07 03:12:17 | takiji_1932
 モウ殆んと半年近くも御無沙汰しました。お変りありませんか。
突然ですが、小説をお送りします。

「地区の人々」という百枚のものです。原稿は一月八日まで届くように送りますが、何卒よろしくお願いします。

私は自家とは昨年の四月以来消息を絶っているので、キット困っていると思うのですが、若し掲載決定しましたら、原稿料は成るべく早く、私の自家(馬橋です。多分まだそこに居ることゝ思いますが)へお送り下さるよう重ねて、御願い申上げます。
では、用事のみにて失礼します。
時節柄、折角御自愛のほどを。

1933年1月

2010-01-06 03:39:54 | takiji_1932

渡辺順三は言う。

多分昭和8年の1月ごろ、渡辺順三は、世田谷の豪徳寺裏に住んでい、徳永直の経堂の家まで10分か15分の距離であった。

だから毎日のように往来していたが、ある日徳永君がやってきて、かなり分量のあるゲラ刷りを出して、「実は中央公論のある編集者がきて、小林多喜二から原稿が送られてきて、さっそく組版にまわしてこの通りゲラ刷りができたのですが、いま発表するのは適当でないのではないかという社内の意見で、当分保留しておこうということになったのです。

それでこのゲラ刷りを小林氏と親しかった人々だけお見せしようと思って、ここに持ってきました。先生がごらんになったら,ほかの適当な方にも廻して頂いて結構です、ということなんだ。

それで僕は昨夜ひと晩かかって読んだんだが、とにかく素晴らしいもんだ。それで君にも読ませたいと思って持ってきたんだ。君が読んだらいちおう僕の方へ返してくれ。僕から誰かほかの人にも見せるから」




1933年1月

2010-01-03 11:24:31 | takiji_1932
全協のオルグ路子は◇33年1月、藤倉工業の防毒面の臨時工として潜入していた。以下に、その証言を紹介する。

――藤倉工業は都内唯一のパラシュート工場で、海軍御用達の軍需工場であった。建物は、国電五反田駅外回りに沿って三階建てであったが、軍の命令でさらに二階建て防毒面工場が新設され、これを短期間日雇いのみ熟練労働者六〇〇名ぐらいで賄うことになった。

私(小川路子)は、1933年1月、その防毒面の臨時工に採用された。採用に当たっては、履歴書が警視庁に回されて厳重な検査を経るので、全協に加盟していた私は、他人名義の履歴書を使用して潜入したのである。防毒面職場は男女混合で、布地扱い、ミシン加工には少数の男子工が本工として働いていた。

定時は実働八時間半で、初給婦人六十八銭、早出残業十一銭であった。私がその前働いていた化学工場は日給三十銭、製品不良の罰則を引かれると三畳の間五円の部屋代など引き出すこともできなかった。それ故に、臨時にせよ藤倉工業入社は、城南方面に働く婦人の羨望の的であった。業種から言えば化学工場で、縫製工を除けば労働者の質は雑多であった。労働組合は本工だけのご用組合で臨時工は門戸を閉ざされていた。

その頃、ようやく本工の婦人Fと連絡を付けることができた。彼女は、パラシュート部で、本工として数年間勤続していた。全協日本金属東京支部常任ととりあえず三名で定期的な会合を持つことになった。

1932年12月20日 風間六三上京

2009-12-20 11:18:10 | takiji_1932
12月20日☆小樽全協のオルグをしていた多喜二の仲間の風間六三が上京。時事通信社の寺田行雄と連絡して、「多喜二に会わせてくれ」と依頼した。

9月にモスクワを出発した山本正美は12月中旬、ようやく日本に到着。

山本はまず大原社研にいた細川嘉六を通じて地下指導部と連絡をとった。この線から秘密党中央委員・野呂栄太郎に連絡がつけられた。

飯島喜美、藤原・山下グループと、大泉兼蔵(中央部に送りこまれた特高スパイ)・松尾グループは当初、ともに野呂を排除して仮中央部を作ろうと意見の一致を見ていたが、野呂が山本正美とコミンテルンとの連絡線を持っていることを知ると、大泉は野呂の側についてしまった。

この結果、野呂、大泉、山本が組むことによって、藤原・山下グループは劣勢に陥り、大泉らによって組織的に排除される。

1932年12月9日 三吾とシゲッティコンサート

2009-12-06 22:24:53 | takiji_1932
12/9 日比谷公会堂でのハンガリーのバイオリン奏者ヨーゼフ・シゲティのコンサートを弟・三吾とともに聴く。

1932年(昭和7)12月9日、日比谷公会堂では来日中のハンガリーのヴァイオリニスト、ヨゼフ・シゲティの「Gran Violin Concert」が開催された。

バックのオーケストラは、近衛秀麿の指揮による新交響楽団。
演奏曲目は、ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」だった。

この演奏会は不人気でチケットがぜんぜん売れず、コンサート当日は3日間ともかなり不入りだったようだ。シゲティは客席がガラガラなのに怒り、東京朝日新聞のインタビューに答えて「日本人の耳は驢馬の耳」と悪態をついた話は有名だ。

太宰治もこのコンサートに出かけたらしく、1935年(昭和10)に書かれた『ダス・ゲマイネ』の中で、「ヴァイオリンの名手が日本へやって来て、日比谷の公会堂で三度ほど演奏会をひらいたが、三度が三度ともたいへんな不人気だった」と記している。

本来は、12月11日までの4夜連続のコンサートだったはずだが、あまりに不入りなため11日はキャンセルされたようだ。


多喜二がチケットの指定席に座ると、隣りの席には弟の小林三吾がいた。

コンサートが終わり、観客たちが出口へゾロゾロと向かうころ、多喜二はひとり言のように「仕事だ、仕事だ」と言いながら、そそくさと席を立っていった。そして、日比谷公会堂の階段の雑踏へまぎれこむと、振り返って弟に手をふりながら暗闇の中をどこへともなく去っていった。三吾が生きてる兄を見たのは、これが最後だった。


多喜二がシゲティのコンサートに参加したことは三吾の証言からも明らかなことだが、本当に12/9なのかどうか疑問だ。

こうしてこのブログで1932年末の特高と革命党の攻防をたどっていると、多喜二が党中央壊滅から党中央再建運動にかかわり、極東反戦会議に奔走し、今村、杉本をロシアに国外逃亡させる地下活動をつづけながら、自分一人日比谷でコンサートを楽しむ――。

こうしたコンサートに、顔写真がたびたび新聞に公開されて指名手配されているに多喜二にコンサートのチケットを送り、これまた特高の尾行がついているかもしれない弟と会せるというのは、チケットを多喜二に渡した人物も党周辺の人物とは想像しがたい。

また、『多喜二の手紙』に収められている12月末付の書簡をわざわざ、京橋から投函する意味もない。
※まして、この手紙にあるナスの漬物だけの貧しい生活のなかで、「この金」を送るとする文面とは、どうしても不一致だ。


この「12/9」を特定したという水野説を再検討する必要がありそうだ。