●当局の妨害を怒る小林の母――待たるる労農大衆葬――
佐々木孝丸
遺骸を骨にする日、二月二十三日の告別式にはお母さんのせきさん、弟の三吾君、本家の市司さん、小樽から駈けつけた姉さん夫婦、それに、小樽以来親戚附合いをしているという近しい同郷の人々数人、そしてその外には、江口君と僕とたった二人!『文芸家協会』から届けられた花輪までが送り返され、プル新聞の記者達も露次の入口の空家を占領しているパイの溜りへ連行され、念入りな身体検査をされて、片っ端から追い返されるという気狂い沙汰だ。
「ほんに、みなさんから、せめてお花一本ずつなとあげてお貰しよう思うとりましたのに……」
お母さんが沁々という。そして真紅の布で覆うた柩の上の、息子の死顔をじっと見詰める。死体を引き取って来た通夜の晩にヤップの岡本唐貴君が、心をこめて描きあげた油絵だ。お母さんは、泣いて泣いて泣きぬいて、もう涙も出ないらしい。しかし、気は非常にしっかりしている。最初の晩からみれば、ずっと落着いて、少しも取り乱したところがない。その、悲しみと、憤りをじっとこらえている姿が、かえって、僕達にたまらない思いをさせたのだ。
午後二時、お母さんを中心に、十四五人の少数者で、告別式を始める。
江口君が、親類の人達の同意を得て司会者としての挨拶をのべる。
同志小林が、小説「一九二八年三月十五日」を提げて、我々の陣営へ現れて以来、最後の日まで、いかに、階級的忠誠を守り抜いて来たか、作家として組織者として、プロレタリア文化運動のために、いかに大きな貢献をして来たか、ということを、実例を挙げて熱心に話をした、そして、この思いがけない諦めきれない小林君の死が、しかしながら、作家同盟ひいては、日本の文化運動全体を、さらに強くひきしめ、かつ同志達の決意を新たにさせることによって、小林君の遺した事業を更に発展させるであろうし、そうすることのみが故人に対する唯一の慰めであり、且我々は必ずそうすることを遺族の皆さんの前に誓うものだといった。
話しているうちに、人々の間から、すすり泣きの声が起った。ことに小樽の姉さんは声を挙げて泣いた。江口君の言葉が終ってから僕もプロットを代表して、短い挨拶を述べた。本家の小林市司氏が親族を代表して、作家同盟その他の同志達に対する鄭重な謝辞を述べられた。
それから、それまでに届いている弔電を江口君が読み上げた。 弔電の朗読が終った時分、葬儀屋が、柩車の来たことを知らせて来た。
一時から三時まで告別式をやるということに発表して置いたので、参列者が続々と詰めかけている筈なのだが、何しろ、小林君の家が袋露次の一番奥だもんだから、一体誰々が来て、どれぐらい追い返えされ、どれぐらい検挙されているのだか、さっぱり様子が分らない。が垣根の外をウロウロするスパイの動きや、弔電をもって来る電報配達人までが、ひどく昂奮している様子から推して露次の外の法外な嵐れ模様は大体想像がつく。
駄目とは知りながら、もしか警戒線を突破して、或いはうまくごまかして遺骸に別れを告げに来る同志が、たとえ一人でも二人でもありはしまいかと、それを心頼みに、江口君も僕も、暗黙のうちに、出来るだけ出棺を延ばそうとしていたのだが、「せめて花一本でも……」というお母さんの切ない願いも、今はもう、どうすることも出来ない。順次、焼香して、最後の別れをすることになった。
黙々として焼香し終ったお母さんに次いで、小樽の姉さんが、遺骸の枕許に進んだ。そして、全く文字通り生きてる者にあうような調子でいうのであった。
「多喜ちゃん……多喜ちゃん……後のことはちっとも心配しずに…心配しずに……」
それから一しきり泣き沈んで、さらに、はっきり次のように云われた。
「皆さんに……お仲間の方達にこんなにまでして頂いて……あんたは仕合せですよ、ほんとに……仕合せですよ……」
姉さんの次に弟の三吾君。
それが済むと、本家の市司氏は僕達二人に焼香して呉れといわれた。愈々柩車に移す時間が来た。棺を壇上から下ろし、最後に、も一度蓋をとってみなの手で、遺骸を花で埋めたその時、それまで、我慢に、我慢をしていたらしいお母さんの慟哭が聞えた。
「どんなに、どんなに水が飲みたかったやら……誰も水も飲ませてやらずに!……ああいたわしい! いたわしい!……何の罪とがないものを! 敵かたきの中で! 敵かたきの中で!……運転手でも殺したのならどうされてもええが何の罪があって、何の罪があって!……鬼! 畜生!」
それは全く、無数の敵に対する老母の力一杯の、あらん限りの叫喚であった。僕は、この時のお母さんの言葉を、一字一句、はっきり覚えている。それは此処へ書いた通りだ。そしてこの言葉は、永久に僕の記憶から去らないだろう。それ程強く、熱く、この言葉は僕の胸に灼きつけられたのだ。小樽の姉さんも一度、 「後のことは心配しずに、ゆっくり眠って行きや……」と死骸に云って聞かせた。
僕達は、棺の中へ入れるものをお母さんに相談した。故人の最後の作品(と思われるもの)の載っている「改造」、同志達からの弔電、それらを共に棺に入れようと思った。するとお母さんは、それ等は、骨と一緒に、小林家の墓の下へ入れて置きたい、そうすれば何百年でも残る、そして、「この子が一生懸命になっていたような世の中が来れば、も一度それを出して見られるから」というのであった。
葬儀屋が再び棺に蓋をして釘を打った。一切の悲嘆にも拘らずひどく事務的なものであった。が、それは、何とも致し方のないことだ。
火葬場まで行く者は、お母さん初め、江口君と僕を入れて全部で十二名。それが、自動車二台に分乗して、柩車の後に従った。
ここでも亦、僕は「もしや」という一縷の望みにかられて、沿道の両側へ、熱心な注意の眼を向けた。誰か、同盟員の、同志の姿を見出そうとして……。が、奴等の警戒は、余りにも「行き届き」過ぎていた。
しかし、見よ、両側の普通の人家、町家の人々が、皆、家の前にて、赤布に覆われた柩に向い、粛然として頭を垂れているではな いか!
「まあ、知らない人までが、ああしてお辞儀をしてくれるのに!」
お母さんの声である。
僕は、この時、初めて泣いた。それまで「自分が泣いてはどうすることも出来ない」と思ったので、どんなに胸がしめつけられても、無理に歯を喰いしばって我慢に我慢して来たのだが、この時ばかりは遂に我慢することが出来なかった。
僅か十二名の者によって淋しく送られる葬儀!……だが、町筋の、普通の小市民達までが、この理不尽な、残忍極まる白テロに対して、暗黙のうちに憤怒と同情を表明しているではないか、警官と私服の垣根の背後に、今はじっと隠忍している大衆の憤りを、その巨きな力を、誰が感ぜずにいられようぞ!
佐々木孝丸
遺骸を骨にする日、二月二十三日の告別式にはお母さんのせきさん、弟の三吾君、本家の市司さん、小樽から駈けつけた姉さん夫婦、それに、小樽以来親戚附合いをしているという近しい同郷の人々数人、そしてその外には、江口君と僕とたった二人!『文芸家協会』から届けられた花輪までが送り返され、プル新聞の記者達も露次の入口の空家を占領しているパイの溜りへ連行され、念入りな身体検査をされて、片っ端から追い返されるという気狂い沙汰だ。
「ほんに、みなさんから、せめてお花一本ずつなとあげてお貰しよう思うとりましたのに……」
お母さんが沁々という。そして真紅の布で覆うた柩の上の、息子の死顔をじっと見詰める。死体を引き取って来た通夜の晩にヤップの岡本唐貴君が、心をこめて描きあげた油絵だ。お母さんは、泣いて泣いて泣きぬいて、もう涙も出ないらしい。しかし、気は非常にしっかりしている。最初の晩からみれば、ずっと落着いて、少しも取り乱したところがない。その、悲しみと、憤りをじっとこらえている姿が、かえって、僕達にたまらない思いをさせたのだ。
午後二時、お母さんを中心に、十四五人の少数者で、告別式を始める。
江口君が、親類の人達の同意を得て司会者としての挨拶をのべる。
同志小林が、小説「一九二八年三月十五日」を提げて、我々の陣営へ現れて以来、最後の日まで、いかに、階級的忠誠を守り抜いて来たか、作家として組織者として、プロレタリア文化運動のために、いかに大きな貢献をして来たか、ということを、実例を挙げて熱心に話をした、そして、この思いがけない諦めきれない小林君の死が、しかしながら、作家同盟ひいては、日本の文化運動全体を、さらに強くひきしめ、かつ同志達の決意を新たにさせることによって、小林君の遺した事業を更に発展させるであろうし、そうすることのみが故人に対する唯一の慰めであり、且我々は必ずそうすることを遺族の皆さんの前に誓うものだといった。
話しているうちに、人々の間から、すすり泣きの声が起った。ことに小樽の姉さんは声を挙げて泣いた。江口君の言葉が終ってから僕もプロットを代表して、短い挨拶を述べた。本家の小林市司氏が親族を代表して、作家同盟その他の同志達に対する鄭重な謝辞を述べられた。
それから、それまでに届いている弔電を江口君が読み上げた。 弔電の朗読が終った時分、葬儀屋が、柩車の来たことを知らせて来た。
一時から三時まで告別式をやるということに発表して置いたので、参列者が続々と詰めかけている筈なのだが、何しろ、小林君の家が袋露次の一番奥だもんだから、一体誰々が来て、どれぐらい追い返えされ、どれぐらい検挙されているのだか、さっぱり様子が分らない。が垣根の外をウロウロするスパイの動きや、弔電をもって来る電報配達人までが、ひどく昂奮している様子から推して露次の外の法外な嵐れ模様は大体想像がつく。
駄目とは知りながら、もしか警戒線を突破して、或いはうまくごまかして遺骸に別れを告げに来る同志が、たとえ一人でも二人でもありはしまいかと、それを心頼みに、江口君も僕も、暗黙のうちに、出来るだけ出棺を延ばそうとしていたのだが、「せめて花一本でも……」というお母さんの切ない願いも、今はもう、どうすることも出来ない。順次、焼香して、最後の別れをすることになった。
黙々として焼香し終ったお母さんに次いで、小樽の姉さんが、遺骸の枕許に進んだ。そして、全く文字通り生きてる者にあうような調子でいうのであった。
「多喜ちゃん……多喜ちゃん……後のことはちっとも心配しずに…心配しずに……」
それから一しきり泣き沈んで、さらに、はっきり次のように云われた。
「皆さんに……お仲間の方達にこんなにまでして頂いて……あんたは仕合せですよ、ほんとに……仕合せですよ……」
姉さんの次に弟の三吾君。
それが済むと、本家の市司氏は僕達二人に焼香して呉れといわれた。愈々柩車に移す時間が来た。棺を壇上から下ろし、最後に、も一度蓋をとってみなの手で、遺骸を花で埋めたその時、それまで、我慢に、我慢をしていたらしいお母さんの慟哭が聞えた。
「どんなに、どんなに水が飲みたかったやら……誰も水も飲ませてやらずに!……ああいたわしい! いたわしい!……何の罪とがないものを! 敵かたきの中で! 敵かたきの中で!……運転手でも殺したのならどうされてもええが何の罪があって、何の罪があって!……鬼! 畜生!」
それは全く、無数の敵に対する老母の力一杯の、あらん限りの叫喚であった。僕は、この時のお母さんの言葉を、一字一句、はっきり覚えている。それは此処へ書いた通りだ。そしてこの言葉は、永久に僕の記憶から去らないだろう。それ程強く、熱く、この言葉は僕の胸に灼きつけられたのだ。小樽の姉さんも一度、 「後のことは心配しずに、ゆっくり眠って行きや……」と死骸に云って聞かせた。
僕達は、棺の中へ入れるものをお母さんに相談した。故人の最後の作品(と思われるもの)の載っている「改造」、同志達からの弔電、それらを共に棺に入れようと思った。するとお母さんは、それ等は、骨と一緒に、小林家の墓の下へ入れて置きたい、そうすれば何百年でも残る、そして、「この子が一生懸命になっていたような世の中が来れば、も一度それを出して見られるから」というのであった。
葬儀屋が再び棺に蓋をして釘を打った。一切の悲嘆にも拘らずひどく事務的なものであった。が、それは、何とも致し方のないことだ。
火葬場まで行く者は、お母さん初め、江口君と僕を入れて全部で十二名。それが、自動車二台に分乗して、柩車の後に従った。
ここでも亦、僕は「もしや」という一縷の望みにかられて、沿道の両側へ、熱心な注意の眼を向けた。誰か、同盟員の、同志の姿を見出そうとして……。が、奴等の警戒は、余りにも「行き届き」過ぎていた。
しかし、見よ、両側の普通の人家、町家の人々が、皆、家の前にて、赤布に覆われた柩に向い、粛然として頭を垂れているではな いか!
「まあ、知らない人までが、ああしてお辞儀をしてくれるのに!」
お母さんの声である。
僕は、この時、初めて泣いた。それまで「自分が泣いてはどうすることも出来ない」と思ったので、どんなに胸がしめつけられても、無理に歯を喰いしばって我慢に我慢して来たのだが、この時ばかりは遂に我慢することが出来なかった。
僅か十二名の者によって淋しく送られる葬儀!……だが、町筋の、普通の小市民達までが、この理不尽な、残忍極まる白テロに対して、暗黙のうちに憤怒と同情を表明しているではないか、警官と私服の垣根の背後に、今はじっと隠忍している大衆の憤りを、その巨きな力を、誰が感ぜずにいられようぞ!