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「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

1932年末の作家同盟

2009-12-02 11:15:56 | takiji_1932
10月末から12月下旬にかけて、大小の共産党員の検挙が頻々と相次ぎ、検挙者は1500人を超えたといわれ、いわゆる「非常時共産党」は壊滅した。


12月前後の文化分野の活動状況は、組織員はいくらか増加していたが、多数の専門家を検挙された関係から創造活動は全体的に低下していた。

そのうちに、作家同盟指導部にも右翼的偏向が強まっていった。

1932年12月1日

2009-12-01 11:12:51 | takiji_1932
12月1日、資金局のメンバーは、牛込のアジトで会議しているところを特高に襲われ、全員検挙された。

同じ日 資金局の幹部で、臨時指導部にも中央委員候補として加わっていた渡辺惣助が、京橋で逮捕された。

1932年11月11日

2009-11-11 11:11:16 | takiji_1932
11月11日、婦人部長子児玉静子(風間丈吉と後に結婚)、農民部長宮川寅男、青年同盟委員長源五郎丸が党臨時中央指導部を作るが、これに中央委員候補として大泉兼蔵が加わる。



 一か月もしないうちに児玉静子、宮川寅男、源五郎丸が検挙された。


関東地方委員の藤原、山下平治、飯島喜美らは『赤旗』号外を発行し、「従来の『赤旗』編集局と印刷局は挑発者に占拠されている」として解散を命じ、独自に中央委員会を組織した。

1932年11月9日 改造社佐藤績宛書簡

2009-11-09 19:14:22 | takiji_1932
一九三二年十一月九日 佐藤績宛
御無沙汰しました。元気ですか。
近々と言っても、十一月中か、十二月中に、五六十枚の短篇をお送りします。
ズバ抜けた短篇です。



※佐藤 績(早稲田大学出身)

・昭和8年、小林多喜二、谷崎潤一郎担当編集者。二人の全集、書簡集に名がある。

※1929年小林秀雄は、雑誌『改造』の懸賞論文で、文壇の諸々の思潮を批評した『様々なる意匠』が二席に入賞し、文壇にデビューする。なお1位は宮本顕治『「敗北」の文学』であった。この当時「編集部員は箕輪錬一(立教出)、鈴木一意(早大出)、水島治男(早大出)、佐藤績(早大出)、上林曉(東大出)と私の六人で、鈴木を除けば、みな学校を出て間のない若手だった。私が一番新参であった。 
数百篇集った中から最後に二編残った。宮本顕治の『敗北の文学』と小林の『様々な(ママ)意匠』である。一等一篇金千円、二等一篇金五百円という規定だったが、どちらを一等にすべきか編集部は迷った。いろいろ議論したがケリがつかないので投票ということになった。結果は三対三。そこで又迷った。 小林のは新風に違いないが難解であった。それに反し宮本のは左翼の立場から芥川龍之介を論じたもので、議論は単純明快、言葉に力がこもっていた。結局、左翼文学の勢をふるっていた当時の文壇形勢からしても、『敗北の文学』を一等に推すのが至当ということにきまった。」(深田久弥「小林秀雄君のこと」、『新訂小林秀雄全集・別巻Ⅱ』「印象Ⅱ(第二次小林秀雄全集(新潮社版)月報より)」)


岩田羲道、虐殺

2009-11-08 21:13:50 | takiji_1932
1932年11月3日、共産党アジプロ部長岩田羲道は虐殺された。

地下にあった共産党中央委員会は岩田虐殺を報道し、12/4 労農葬をもってただちに復讐に立ち上がるよう檄を飛ばした。


11/7は戦う側からはロシア革命の記念の戦う日であるとともに、弾圧する側からすると、どんな手段をもってしても弾圧することを義務付けられている日でもあっただろう。

しかし、共産党中央委員会は、スパイMの手引きで壊滅的打撃を受けていた。

岩田労農葬の戦いはどれほどの広がりをもてたというのだろうか?




惨殺されたのは、岩田だけではなかった。。。






1932年11月3日

2009-11-03 11:04:16 | takiji_1932
11/3  午前0時30分岩田義道(34歳)虐殺される。

3日上京した袴田里見は、神田に下宿。同じクートベ帰りの山本正美と連絡、大泉兼蔵のもとで東京市委員会のメンバーに。

河島ら、大泉に不信任の上申書。河島失踪、政金が検挙された結果、袴田と荻野の二人で東京市を担当することになった。

袴田は大泉から、城北地区へいくように指示される。


袴田は山本正美にあって大泉、三船の二人はスパイの疑いがあると上申した。

多喜二の1932年を歩く

2009-10-25 06:29:46 | takiji_1932
このところ「takiji_1932」のカテゴリーで多喜二の1932年をたどる風景を紹介してきた。
今日は、こんな天気ですが小林多喜二の「1932年からその最期」までの行程を4時間程度で歩きたいと思います。

時系列でいえば、満州事変・上海事変と藤倉工業闘争、作家同盟への弾圧の春。

作家同盟5大会。
リットン調査団。

党生活者

10月事件。

多喜二の29歳の誕生日。



熱海事件。

多喜二虐殺の築地。。。。








スタート地点は、五反田。
ラストは銀座です。

一緒に歩いてくれるのは7人の勇者です。

10月事件第一報

2009-10-20 00:17:45 | takiji_1932
アキこと山本正美は八月ごろ、モスクワを出発して鉄道でヨーロッパを縦断し、マルセイユから船で日本に向かった。

32年テーゼの作成に参加していた彼は、風間を委員長とする共産党中央が健在であったことから、みずからの役割を風間委員長の政治的援助者と考えていた。

山本はフランスからの客船でインド洋をまわって上海に上陸すると、鉄道で北上して天津に出た。天津から四国の今治に船で着いた。

官憲の目を警戒して、なるべく目立たぬコースを選んだのである。


以下は朝日新聞の報道による。

▽10/11日『東京朝日新聞』「銀行襲撃のギャング 全部三人捕縛さる 共産系が資金集めの犯行」

今泉善一は、小石川区原町147上野きく方をアジトに、雑誌記者西村と称して愛媛県出身の長谷部みゑ子20歳と同居。 



▽10/12日『東京朝日新聞』今泉の自供に基づき刑事の一隊を新橋一丁目蔵前工業会館内山田特許事務所に差し向け同事務所の事務員高石慶次28歳を検挙。…きたる11月のロシア革命15周年記念を迎えて武装蜂起せんとしつつあったものである。

▽10/14日『東京朝日新聞』「赤色テロの新事実暴露 刑務所を武装襲撃 被告奪還の陰謀 当局極度に緊張す」の見出し「…武装動員による刑務所襲撃を計画各被告の奪還を計画、これがため武器の入手をいそいでいた事実が略明らかになり、当局も今更ながら愕然とし極度に緊張している。」
「多額の資金集めは重大陰謀計画が目的 彼等の真意略明瞭」
 
西銀座8丁目都ビルにも 秘密本部を設置 党員を女事務員に仕立てて 官憲の目を欺く
 「赤色ギャング一味が川崎第百銀行大森支店襲撃のため設けた新橋駅前堤第一ビル五階の秘密本部は、十日彼等の自白によりてその実体を暴かれたが、十三日にいたりて彼等の本部が同所の外に京橋西銀座八丁目の都ビル五階にも設けられていたことが発覚、同日午後警視庁特高課の一隊が同ビルを襲い、彼等の秘密本部に当てられた五階の一室に殺到した。

 秘密本部は表のドアには太平洋図案部の看板がかかっており、室内には壁の通風口に置き忘れられた弾丸六発をはじめ立派なテーブルや高価な調度品が残されていた。彼等が犯行前豊富なる軍資金を擁してかかった陰謀なることを証明している。
 彼等が同ビルを借りたのは…(以下不明)…あった最初ここを足場に当てた彼等は同所を第一本部として更に兇行当日の六日新橋駅前の堤第一ビルに第二の本部を設二ケ所において陰謀を進めていたものである。

 尚用心深き彼等は両ビルの部屋を借りにくるやビル内の人に怪しまれぬため 即日美しい女事務員を一人づつ雇い入れたが特高課で捜査をすすめると 実はこの女事務員も女党員で かつ彼等と情交関係あることも分かった。
 
同女らの下宿から赤旗や党機関紙等が発見された、あるいは富豪邸の女中にすみこんで邸内の様子を探った女党員の一員ではなかろうかというので 当局は目下しきりに両女の行方を捜査している。[写真は都ビル]

東洋図案社捜索、女性事務員検挙の記事はあるが名前はない。
大塚は、津田青楓のアトリエをアジトにする。

1932年10月 今村恒夫入党

2009-10-17 10:53:16 | takiji_1932
10月 今村は、小林多喜二および作家同盟党グループの推薦により、日本共産党に入党。このころ党の指示を受けて杉本良吉とともにソビエト行きのために小樽に出向くが、果たせず帰京。文化団体内の共青グループの責任者となり、各グループへ文化運動に関する連絡を受け持つ。また、各団体への「赤旗」配布責任者となる。