山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

意地悪婆さんが母になったとき

2024-07-27 22:14:59 | アート・文化

 巨匠・小津安二郎が戦後第一作を撮ったのが、「長屋紳士録」である。1947年(昭和22年)のことだった。戦災孤児らしき坊やの面倒を押し付けられた未亡人のおたね婆さん(飯田蝶子)が主人公だ。寝小便を繰り返し不愛想な坊やに手こずり、坊やをなんとか引き離そうとおたねさんは悪態をついたり邪険にしたり捨て去ろうとしたりするが失敗する。

 

 寝小便をして責任を感じた坊やがいなくなる。すると、おたね婆さんははその行方をくまなく捜しまわるようになる。おたねさんの坊やに対する愛情が深まっていく、というような変化がこの映画の見どころだ。そのうちに、同じ長屋に住む占い師(笠智衆)が坊やを見つけて連れ戻すことができたものの、坊やを前々から探していた父親(小沢栄太郎)がやってきて坊やと再会する。

 

 言うまでもなく、坊やと別れるおたねさんの心情を監督はしっかり抽出して涙を誘う。また、小津映画では中心的存在だった笠智衆は脇役に徹していていたが、町会の宴会で「のぞきからくり節」という口上を歌う場面も圧巻だ。昔は縁日や祭りなどで紙芝居のような大道芸として流行った口上だが、オラは記憶がない。どうやら、武男と浪子の悲恋の「不如帰(ホトトギス)」のあらすじを、のぞき絵を見せながら歌ったものだそうだ。小さい時から暗唱していた笠智衆の芸が特別に生かされたシーンだ。

 

 それ以上に、一週間近く坊やの面倒を見て考えさせられたとおたねさんは長屋の人と語る。敗戦で人より「自分ひとりさえよければいい」という風潮が蔓延している戦後を告発し、「イジイジしていて、のんびりしていないのはアタシたちだった」と自省する。

 

 戦地のシンガポールから帰還してまもない監督は、最後に上野界隈にたむろする戦災孤児を静かに映し出してフィナーレとしている。坊やは捨てられたタバコの吸い殻や釘を拾っていたようだが、そういえば、焼け跡派のオラの少年期も空襲で焼け落ちた釘などの鉄くずをよく拾ってきて、くずやさんに売り家計の足しとしていた。また、ガスがまだなかったから、近隣に落ちている木を拾い集めて薪にしていたのも思い出す。

 

 わが家は空襲で燃えたので親父がかき集めた資材で作った「バラック」が住み家だった。だから、雨が降ると雨漏りがひどく、隙間だらけの冬は寒くておねしょは高学年まで続いた。おねしょは人生の挫折の深みを早くに刻印してしまった。暮らしと子育てと戦争に追われた両親の波乱万丈の歩みを知ると、明治生まれの親は何のために生きてきたのかを考えさせられる。

 

 戦地を経験した小津監督は、声高に反戦や平和を訴えるのではなく、身近な家庭にこそいのちの重力がかかっていると見抜いたのかもしれない。だから、今回もローアングルから粗末な居間を映し出していた。古典落語に出てくるような口は悪いけど心優しい長屋の住人は、ほんとうは紳士なのだと監督は言いたいのだろうか。

 2012年、イギリスの映画誌「サイト&サウンド」は、世界の映画監督358人の投票の結果、『東京物語』を世界の名作の第1位に選んだ。単調に見えるその白黒映画をオラは居眠りしていたくらい鈍感だった。目立つ黒澤明とは一線を画する違いがある。反省を込めて、するめを噛むように小津監督の映像をゆるりと注視していきたいと思う。

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