高屋敷の十字路
十字路で立ち話し(あるいはワッツニュー)
から
ここ3年いつも混みあうキャンパス乗り入れの
帰りのバスで席を譲られたことなどなかったのに
乗り合わせた併設高校の女生徒に“どうぞ”だなんて。
どこかで誰もがいつかは出会う風景の一つ
いつのまにか“じいちゃん”にも慣れたように
あたりまえのように“どうも”と頷く座り心地。
ありふれたその日の一コマをヨメと話すうち
3時間半も引き込まれるようにして見たのが
ボブ・ディランのドキュメンタリー映画(ビデオ録画)。
インタビューに応える形でナレーターを演じた
本人の現在の姿が40年あまり歳月を経た歌と
演奏によっていま・ここに彫り起こされたみたいに見え。
元恋人や共演者の語り口や姿もそうだけど
誰もがいい歳のとり方をしているというか
出来上がっていなくてどこかへ帰る途中みたい。
見つからない答えを探すみたいにiTunesに入っていた
ディランの曲をシャッフルしながらオンラインで取り込んだ
歌詞を読み返したりなんてことをしている午後のひととき。
十字路で立ち話し(あるいはワッツニュー)
から
ここ3年いつも混みあうキャンパス乗り入れの
帰りのバスで席を譲られたことなどなかったのに
乗り合わせた併設高校の女生徒に“どうぞ”だなんて。
どこかで誰もがいつかは出会う風景の一つ
いつのまにか“じいちゃん”にも慣れたように
あたりまえのように“どうも”と頷く座り心地。
ありふれたその日の一コマをヨメと話すうち
3時間半も引き込まれるようにして見たのが
ボブ・ディランのドキュメンタリー映画(ビデオ録画)。
インタビューに応える形でナレーターを演じた
本人の現在の姿が40年あまり歳月を経た歌と
演奏によっていま・ここに彫り起こされたみたいに見え。
元恋人や共演者の語り口や姿もそうだけど
誰もがいい歳のとり方をしているというか
出来上がっていなくてどこかへ帰る途中みたい。
見つからない答えを探すみたいにiTunesに入っていた
ディランの曲をシャッフルしながらオンラインで取り込んだ
歌詞を読み返したりなんてことをしている午後のひととき。