11月28日(月)
大久野島にて起床。
一周四キロほどの小さな無人島なので荷物を片付けて置いて歩きます。
無人島といっても休暇村があるので施設内には人が居ますが、それ以外は誰も居なかったです、
居たら恐いです。
歩き始めると早速奴等が目を光らせます。
奴等とは、うさぎの事で大久野島は、うさぎ島として有名なのです。
このうさぎがめちゃめちゃいる、島中で百は軽く上回るぐらい見たので、
うさぎ好きには堪らない島でしょう。
こいつらが人慣れしていて凄く現金な奴等で、
人を見つけると森の中からでも、離れた所からでも何処からでも寄ってきます。
うさぎ目的の人は、藁を買ってきてあげるらしいのですが、
僕は違うので餌をくれないのがわかるとそっぽを向いて走り去ります。
時計回りに船着場からキャンプ場を抜け灯台に登り休暇村を通って
テニス場を脇を通り、やっと目的の一つを発見、
それが、毒ガス貯蔵庫跡です。
何故こんなものがあるかと言うと、
大久野島は戦時中に毒ガス製造工場として機能していたからです。
毒ガス工場が出来る前は普通の島だったのが国営の工場が出来たと当時の島民は喜び
何を作っているか分からずに働いてたそうです。
そして軍の重要拠点として島は地図から消されました。
敗戦後、アメリカにより毒ガス関連のものは、火炎放射器で焼くか海に沈め処理しましたが、建物だけは残して今に至るようです。
それが毒ガス島とも呼ばれる所以です。
なので今でも島全体で各所にその痕跡を見ることが出来ます。
※写真は帰宅後載せます。
貯蔵タンク跡は壁が黒くなっていて火炎放射器で焼いたススらしいです。
そこから少し進むと火薬庫があります。
火薬庫は防空壕みたいに土中に隠れるようになっている穴蔵という感じ、
中は光が届かず暗くなっているので恐いです。
次は北部砲台跡を見ます。
北部砲台跡までの道が、岩肌を切り抜いて作った感じで、
当時はココを兵隊が走ったりしてたんだろうなと思いながら歩きました。
北部砲台跡から登り中部砲台跡に行きます。
頂上の中部砲台は50メートル程の兵舎があって、
中は火薬庫と同じ様な作りでした。
それから頂上に登り別の道を下りて発電所跡へ。
発電所跡は当時の島の電力を補うと共に毒の生成工場でもありました。
今は廃墟となっていますが、その大きさから圧巻です。
島を一周したので、毒ガス資料館を見に行きます。
毒ガス資料館は、毒ガス工場建設前から敗戦による毒ガス工場廃止までの年表と、
当時のガスマスクや薬の製造方法等を展示してあります。
そして、相当えぐいです。
特に毒ガスを浴びた人や工場で働いていた人の後遺症の写真は、
注意書きをしておかないと子どもはトラウマになると思います。
戦争を考えると言うより、えぐさが先行して集中出来ませんでした。
資料館を出て研究所跡、南部砲台跡と見て港に戻り大久野島を出ます。
忠海に戻り原付に乗って進み、途中竹原の町並みを見る為に道の駅に寄ってみると。
『た・ま・ゆ・ら』
(・・・うん、もう驚かない!へぇ、たまゆらの舞台なのか)
大きなたまゆらの垂れ幕が掛かってました。
竹原は江戸時代に商人の町として栄え、今でも保存区域として当時の面影を残す場所です。
白塗りの土壁や瓦屋根、土間や吹き抜けの天井などに色のくすぶりを見て時代を感じて次に行きます。
適当に進み、日が暮れてきたので安登の周辺で寝床を探します。
駅に行ってみると、周辺地図で手頃な場所を探していると、
隣の看板に"日本一短い県道です!"と書いてありました。
何と駅から国道に出る県道が日本最短の10mらしいですが、
横断歩道が通っているので実際にはほぼ駅前ロータリーから国道に見えます。
偶然の発見に喜びつつめぼしい場所があったので行ってみるも山中の公園なので中々見つからず日も暮れて辺りは真っ暗になり山の中を闇雲に探すのは危ないと判断して安登駅に戻りました。
幸い安登駅は無人駅なのでここで寝ることにしました。
ここで無人駅での野宿の暗黙のルール。
終電まで寝転がらない。
始発までに出る。
安登駅の終電は23時台始発は5時台。
(結構遅くまで運行してるんだな)
僕の今の就寝時間は、20時ー21時~5時ー6時なので朝は良いけど夜が辛い。
とりあえず椅子に座る格好で寝ながら、うつらうつらとして、
終電と同時に寝ました。
無人駅と侮っていたんですが結構利用者が多く遠く離れたこんな場所でも皆生きてるんだなぁと思いながら落ちて行きました。
大久野島にて起床。
一周四キロほどの小さな無人島なので荷物を片付けて置いて歩きます。
無人島といっても休暇村があるので施設内には人が居ますが、それ以外は誰も居なかったです、
居たら恐いです。
歩き始めると早速奴等が目を光らせます。
奴等とは、うさぎの事で大久野島は、うさぎ島として有名なのです。
このうさぎがめちゃめちゃいる、島中で百は軽く上回るぐらい見たので、
うさぎ好きには堪らない島でしょう。
こいつらが人慣れしていて凄く現金な奴等で、
人を見つけると森の中からでも、離れた所からでも何処からでも寄ってきます。
うさぎ目的の人は、藁を買ってきてあげるらしいのですが、
僕は違うので餌をくれないのがわかるとそっぽを向いて走り去ります。
時計回りに船着場からキャンプ場を抜け灯台に登り休暇村を通って
テニス場を脇を通り、やっと目的の一つを発見、
それが、毒ガス貯蔵庫跡です。
何故こんなものがあるかと言うと、
大久野島は戦時中に毒ガス製造工場として機能していたからです。
毒ガス工場が出来る前は普通の島だったのが国営の工場が出来たと当時の島民は喜び
何を作っているか分からずに働いてたそうです。
そして軍の重要拠点として島は地図から消されました。
敗戦後、アメリカにより毒ガス関連のものは、火炎放射器で焼くか海に沈め処理しましたが、建物だけは残して今に至るようです。
それが毒ガス島とも呼ばれる所以です。
なので今でも島全体で各所にその痕跡を見ることが出来ます。
※写真は帰宅後載せます。
貯蔵タンク跡は壁が黒くなっていて火炎放射器で焼いたススらしいです。
そこから少し進むと火薬庫があります。
火薬庫は防空壕みたいに土中に隠れるようになっている穴蔵という感じ、
中は光が届かず暗くなっているので恐いです。
次は北部砲台跡を見ます。
北部砲台跡までの道が、岩肌を切り抜いて作った感じで、
当時はココを兵隊が走ったりしてたんだろうなと思いながら歩きました。
北部砲台跡から登り中部砲台跡に行きます。
頂上の中部砲台は50メートル程の兵舎があって、
中は火薬庫と同じ様な作りでした。
それから頂上に登り別の道を下りて発電所跡へ。
発電所跡は当時の島の電力を補うと共に毒の生成工場でもありました。
今は廃墟となっていますが、その大きさから圧巻です。
島を一周したので、毒ガス資料館を見に行きます。
毒ガス資料館は、毒ガス工場建設前から敗戦による毒ガス工場廃止までの年表と、
当時のガスマスクや薬の製造方法等を展示してあります。
そして、相当えぐいです。
特に毒ガスを浴びた人や工場で働いていた人の後遺症の写真は、
注意書きをしておかないと子どもはトラウマになると思います。
戦争を考えると言うより、えぐさが先行して集中出来ませんでした。
資料館を出て研究所跡、南部砲台跡と見て港に戻り大久野島を出ます。
忠海に戻り原付に乗って進み、途中竹原の町並みを見る為に道の駅に寄ってみると。
『た・ま・ゆ・ら』
(・・・うん、もう驚かない!へぇ、たまゆらの舞台なのか)
大きなたまゆらの垂れ幕が掛かってました。
竹原は江戸時代に商人の町として栄え、今でも保存区域として当時の面影を残す場所です。
白塗りの土壁や瓦屋根、土間や吹き抜けの天井などに色のくすぶりを見て時代を感じて次に行きます。
適当に進み、日が暮れてきたので安登の周辺で寝床を探します。
駅に行ってみると、周辺地図で手頃な場所を探していると、
隣の看板に"日本一短い県道です!"と書いてありました。
何と駅から国道に出る県道が日本最短の10mらしいですが、
横断歩道が通っているので実際にはほぼ駅前ロータリーから国道に見えます。
偶然の発見に喜びつつめぼしい場所があったので行ってみるも山中の公園なので中々見つからず日も暮れて辺りは真っ暗になり山の中を闇雲に探すのは危ないと判断して安登駅に戻りました。
幸い安登駅は無人駅なのでここで寝ることにしました。
ここで無人駅での野宿の暗黙のルール。
終電まで寝転がらない。
始発までに出る。
安登駅の終電は23時台始発は5時台。
(結構遅くまで運行してるんだな)
僕の今の就寝時間は、20時ー21時~5時ー6時なので朝は良いけど夜が辛い。
とりあえず椅子に座る格好で寝ながら、うつらうつらとして、
終電と同時に寝ました。
無人駅と侮っていたんですが結構利用者が多く遠く離れたこんな場所でも皆生きてるんだなぁと思いながら落ちて行きました。
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